表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

喫茶ジュピター

作者: 睦月 生

 フられた。顔も名前も知らない相手から突然「好きです。付き合って下さい。」などと言われても困ってしまうのだろう。「ごめんなさい。」すまなそうに言う。私がもっと美人だったら答えは違っていたのだろうか。


 私は鈴木亜美(すずきあみ)。高校2年生。告白の相手は並川裕一(なみかわゆういち)。3年生だ。元バスケ部のキャプテンで、背が高く、カッコいい。告白なら何度も経験している筈だ。それを悉く断ってしまうので、ゲイ疑惑まである。まさかね。

 明日から夏休み。当分会えなくなるので、思い切って告白した訳だ。見事撃沈…言わなきゃ良かった。でも不思議と悲しい気持ちにはならなかった。


 帰り道の途中にある喫茶店でバイト募集の貼り紙を見つけた。こじんまりとした喫茶店で、とても雰囲気がいい。こんなところで働けたらなぁと思い、早速ドアを開けた。

「いらっしゃいませ。」

店に入ると、一人の女の子が元気いっぱいに挨拶した。

カウンター席が5脚、ボックス席が4つあって、カウンターの奥が調理場になっているようだ。

「あの、バイト募集の貼り紙を見たんですけど…」

「ああ、そうですか。」と彼女。そしてカウンターの奥に向かって言った。

「マスター!バイト希望の人!」

すると奥から男の人が出て来て私の前に立った。背が高い。年の頃なら30代後半か40代前半くらい。髪があちこちはねている。黒縁の眼鏡をかけて鼻は高く、目の辺りまで髪が伸びていて、表情がよく分からない。

「明日から入れる?」

「はい。」

面接はあっと言う間にうまくいった。

「実は朝倉さんが…あ、この子ね。受験勉強の為に今日でここを辞めるんだ。」

「そうなの。私高3だからちゃんと勉強しなきゃヤバいのよ。ここバイト代いいし素敵な常連客が来るから辞めたくないんだけど、頭良くないから必死で勉強しなくちゃなの。」

「1日6時間くらいで、時給1500円。どうかな?」

「えっ そんなに?」

「都合悪かったかな?」

「いえ、時給があまりにも良かったので…いいんですか?」

「いいんだ。賄い付きだよ。時給の事は内緒ね。定休日は毎月15日ね。」

「それでは明日からと言う事で。」

「宜しくね。」

「宜しくお願いします。」


 私が暮らすマンションは、学校から歩いて15分の所にある。今まで何度もあの喫茶店の前を通った筈なのに、気付かなかったのが不思議だ。一階が店舗で、二階三階が居住スペースになっているようだ。

 やがて私はマンションに着いた。建物は古いが、レンガ塀や広い窓が気に入っている。

「ただいま。」と言っても迎えてくれる人はない。母は出版社に勤めていてとても忙しいのだ。昨夜も帰って来なかった。父は私が小さい頃に死んでしまった。顔も覚えていない。そんな訳で、私は母と二人暮らしなのだ。

 背後でドアを開く音がした。振り向くと、母が疲れきった表情で立っていた。

「亜美~何か作ってぇお腹ペコペコ。」

「お帰りなさい。シャワーでも浴びて来たら?何か食べたいものある?」

「パスタがいいなぁ。カルボナーラが食べたい。」

「カルボナーラね。了解。」

母はシャワールームの方へ歩いて行った。

私は部屋着に着替え、キッチンに立ってカルボナーラを作り始めた。母が忙しいので、食事は私が作る事が多い。

 暫くして母が髪を拭きながらバスローブのままキッチンに来た。カルボナーラも出来たのでダイニングテーブルに皿を並べた。コンソメスープとサラダも作った。母は冷蔵庫から缶ビールを出して、プシュっと言う音を立ててグビグビ飲み始めた。

「あ~これだよ。これがサイコ~!」

すっかり寛いだ様子で言う。

「いただきます。」二人で言って食べ始めた。


「お母さん、私明日からバイトするね。」

「バイト?何するの?」

「喫茶店のウェイトレス。」

「ふ~ん。いいんじゃない?何事も社会勉強だよ。どこで働くの?」

「近くに喫茶ジュピターってあるじゃない?あそこ。」

「ああ、あそこね。行った事ないけど。亜美が働く姿見に行かなくちゃ。」

母はニヤニヤしながら言った。

「やめて~緊張しちゃう!」

「大丈夫だよ。変装して行くから。」

「ヘンな格好して来ないでね。バレた時恥ずかしい。」

「バレないもん。」と涼しい顔。

「まあ、しっかりやりなさい。応援するよ。」

「ありがとう。頑張る。」


「そう言えば通知表は?」

ギクリギクリ。忘れてて欲しかった。

私は自分の部屋から通知表を持って来た。

「英語は5なのね。数学が2かぁ…まあ赤点がないだけ良しとするか。通信欄は…勉強に力が入らないようです。ご家庭でもっと話し合いが必要かと思います…はぁそうか。」

私は黙って聞いていた。

「大学行く気はあるの?」

「大学って言うか専門学校に行きたいの。」と私。

「専門学校?」

「うん。パティシエになりたいんだ。」

「だったらバイトと勉強両立しなきゃね。バイト辞めろとは言わないからさ。」

「うん、私どっちも頑張るよ。」

「それでこそ我が娘だわ。」

母は残りのビールをグイっと飲み干した。

「さぁて、作ってもらったから後片付けはお母さんやるか。」

「お皿割らないでね。」

「割らないわよ。失礼ね。」


 後片付けを母に任せて私は自分の部屋に戻った。

明日からバイト。どんな事するんだろう?ドキドキとワクワクでいっぱいだ。

 スマホの着信音がした。親友の牧原沙弥(まきはらさや)からだ。

「今日どうだった?告った?」

「うん、フられちゃったよ。」

「それは残念だね。泣いてない?」

「全然。フられてもあまり落ち込んでないんだ。多分憧れだったんだよ。」

「憧れ?あんなにキャーキャー言ってたのに?」

「え?私キャーキャー言ってた?」

「言ってた言ってた。」

「そうか~何か恥ずかしいよ。」

「ま、落ち込んでないならいいよ。」

「あ、私バイトするんだ。」

「バイト?どんなバイト?」

「喫茶店のウェイトレス。」

「へ~亜美がバイトねぇ。給料もらったら何か奢って。」

「それはいいけどさ、時給凄くいいんだよね。内緒って言ってたけど。」

「いくら?」

「1500円。」

「え~!そんなに?何かあるんじゃないの?」

「何かって何よ?」

「死ぬ程忙しいとかオバケとか。」

「え~止めてぇ。」

「何にせよ明日行ってみれば分かるよ。頑張って。」

沙弥はそう言って電話を切った。


 翌日、私はちょっと早めに店に着いた。

「おはようございます。」

「おはよう。早いね。」

マスターは看板を出しながら言った。いよいよ仕事の始まりだ。マスターから仕事の流れと注意点を教わって、エプロンをかけた。

 そこへ一人の男が入って来た。私は思わず息を呑んだ。昨日私をフった並川先輩だった。

「彼は並川君。一年くらい前から働いてもらってるんだ。」

「並川君、こちらは今日から入ってもらう鈴木さん。色々教えてあげてね。」

「宜しくお願いします。」

「宜しく。」

私達はぎこちなく挨拶を交わした。

「シフト考えないとな。10時から4時までが早番、4時から9時までが遅番なんだ。」

マスターは言った。

「取り敢えず朝倉さんが入ってた所に鈴木さんに入ってもらって…」

これを聞いていた並川先輩は少し驚いた様子で言った。

「朝倉さんは?」

「朝倉さんは昨日で辞めたよ。聞いてない?」

並川先輩は何故か俯いて、マスターの話を聞いていた。

ピンと来た。並川先輩は昨日のあの女の子の事が好きだったのだ。だからどれだけ告白されても誰とも付き合わなかったのだ。なるほどそう言う事か。

 その時、ドアが開いてカップルが入って来た。

「いらっしゃいませ。」私は反射的にそう言った。カウンターの奥からおしぼりと水をトレイに乗せて、二人が座った席まで持って行った。

「モーニング二つ。」男の方が言った。

「モーニングお二つですね。暫くお待ち下さい。」

カウンターの中に入っていたマスターに「モーニング二つです。」と言う。

「そこに伝票があるからテーブルナンバーとオーダー書いておいて。」

私は言われるままにそれを書いた。

「なかなか調子いいね。」とマスター。

「忙しくなったらこう言う訳には行かないでしょう。」

今までムッとして何も話さなかった並川先輩が言った。そしてその通りになった。モーニングが終わると今度はランチだ。オーダーを取ってカウンターの中の二人に伝える。出来上がった料理を客席に運ぶ。漸く落ち着いたのは2時頃だった。

「二人共お疲れ。サンドイッチ作ったから食べて。」

「いただきます。」

とてもお腹が空いていたのでサンドイッチが美味しかった。コーヒーも凄く美味しくて、生き返った様な気分だ。

 その時、「ちは~す。」と言って一人の男が入って来た。カウンター席の一番奥に座る。

「ヒロミさん、紹介するね。こちらは今日からここで働いてくれる鈴木さん。」とマスター。

「鈴木です。宜しくお願いします。」

私は頭を下げた。

「宜しく。俺はヒロミ。ここの常連。」

「ヒロミさんは毎日来てくれるんだ。」

「マスターのコーヒーじゃないとダメなんだ。」

「嬉しい事言ってくれるね。」マスターは得意満面だ。

「鈴木さんはどうしてバイト始めたの?」とヒロミさん。

「私パティシエになりたいんです。パリで修行する為に少しづつお金貯めようと思って。」

「パリかぁ。頑張ってね。」

「はい。」

 夕方近くなると、4時から働く坂本晃(さかもとあきら)さんと高橋和也(たかはしかずや)さんが入って来た。

「鈴木です。宜しくお願いします。」二人共近くの大学の学生だった。

「鈴木さんか。宜しくね。」

「こちらこそ宜しくお願いします。」

「鈴木さん、もう上がっていいよ。」マスターが言った。

「はい。」こうして私の初めてのバイトは問題なく終わった。ほっとした。

 外に出ると夏の暑さが戻って来る。私と一緒だった並川先輩も店から出て来た。

「お疲れ。」ずっと不機嫌だった並川先輩もそう言って帰って行った。最初は気まずかったけれど、もう大丈夫だと思う。私も家に帰らなければ。


 家に帰ると、母がキッチンに立っていた。

「ただいま。」私が言うと、「お帰り。」と母。

「今日は早かったんだね。」

「うん、今日はサボり。たまには食事でも作ろうかと思って。カレーだけどね。出来たら呼ぶから勉強でもしてれば?」

 私は自分の部屋に戻って、部屋着に着替えた。

勉強しなくちゃ。机に向かって夏休みの宿題をやり始めた。

 暫くすると、母が部屋のドアを開けて

「もうすぐ出来るよ。」と言った。

キッチンに行くと、母が鍋をかき回していた。

「出来たよ。そっちに座ってて。」

「何か手伝おうか?」

「いいよ。後はよそうだけだから。」

私は自分の席に着いてカレーを待った。久しぶりの母の料理だ。私は嬉しかった。

「飲み物何にする?」と聞かれ、私は「牛乳。」と答えた。

「お母さんはビールでしょ?」

「その通り。亜美は牛乳飲んでおっぱい育てて。」

「余計なお世話だよ。」

確かに私は貧乳かもしれない。痛いところを突かれた。

テーブルにカレーが来た。そしてサラダと牛乳も。

向かいに母が座った。

「いただきます。」そう言って食べ始めた。

「美味しいよ。今日一日忙しかったから、夕食作るのしんどいなって思ってたの。」

「バイトはどうだった?」

「割りとうまく行ったよ。常連の人にも気に入ってもらえたみたい。」

「良かったね。常連さんは大事だよ。」

「うん。いい人だった。」

暫くカレーを食べる事に専念して無言が続いた。

「美味しかった。ご馳走さま。」

私は牛乳を飲み干して言った。

「ずっと立ってたから足が痛いよ。」

「そうね。立ちっぱなしはツラいよね。」

母もカレーを食べ終えてそう言った。


 翌日は遅番だった。昼間の常連さんとは違う。

「鈴木です。宜しくお願いします。」

「可愛いね。何年生?」

「高2です。」

「そうか~朝倉さんが辞めたのは寂しいけど、これからは鈴木さんがいるからね。」

朝倉さん…面接の時会った女の子だ。そして並川先輩の想い人。

「宜しくね。俺はケンって呼んで。」

「ケンさん。分かりました。」

 8時頃、けばけばしい服を着て厚化粧の人が来た。

「いらっしゃいませ。」

「鈴木さん、どう?慣れて来たかな?」

「え、はあ…」

「イヤね。昨日会ったじゃない?ヒロミよ。」

「ヒロミさん?」

「ああ、こんな格好じゃわからないか。アタシ職業オカマなのよ。店に出る前にここでコーヒーを飲んでから行くの。」

「そうですか。」

「ヒロミさん、ビビらせないで下さいよ。」

とマスター。

「あらぁビビっちゃった?ごめんねぇ。」

「大丈夫です。」

私は無理矢理笑顔を作ろうとしたが、顔がひきつってしまったかも知れない。

 9時になった。閉店の時間だ。

「鈴木さん、高橋君、もう上がっていいよ。後片付けは僕がやるから。」

「ありがとうございます。お疲れ様でした。」

「送ろうか?」

高橋さんが言った。

「ああ、大丈夫です。うちすぐそこなんで。」

「そう?じゃあまたね。お疲れ~。」


 翌日は早番で、並川先輩と一緒だった。

「先輩は受験勉強しなくていいんですか?」

「俺は大学行かないから。」

「そうなんですか?」

「うちオヤジが死んでお袋一人で大変なんだ。弟妹がいて生活が苦しいんだよね。だから早く就職して家計を助けなきゃいけないんだ。」

「そうだったんですか…余計な事言ってごめんなさい。」

「いいんだ。鈴木は大学行くんだろ?」

「専門学校に行きたいんです。」

「専門学校?何の?」

「パティシエの。」

「パティシエになりたいの?」

「はい。」

「そうか。頑張れ。」

「はいっ!」

先輩と色々話せて良かった。もうわだかまりもない。

 そこへヒロミさんが入って来た。化粧もカツラもなしで。

「いらっしゃいませ!」

「コーヒーとカツサンド。」

「コーヒーとカツサンドですね。暫くお待ち下さい。」

「マスター、コーヒーとカツサンドで~す。」

「はいよ~」

マスターは冷蔵庫からカツを取り出して揚げ始めた。

「ヒロミさんはマスターと長いんですか?」

「そうだなぁ。ここに通い始めたのが10年くらい前かな?」

「マスターってナゾですよね。結婚指輪してるから奥さんがいるんでしょう?」

ヒロミさんは少し声のトーンを落として言った。

「いたよ。子供もね。」

「過去形なんですか?」

「事故で二人共亡くなったんだ。」

「そうだったんですか…」

「前はもっと明るくて気さくな男だったんだよ。」

「悲しいですね。」

「ヒロミさんは結婚してるんですか?」

「別れた。会社クビになって女房の稼ぎで暮らしてたんだ。男として情けないだろ。鈴木さんくらいの娘もいるんだけど…」

「会ってないんですか?」

「……」

「会いたいと思いませんか?」

「そりゃね、会いたいとも思うけど。オカマやってるようじゃ会わす顔もないよ。」

「私の父は私が小さいうちに亡くなって顔も覚えてませんけど、もし生きているなら会いたいですね。」

「オカマでも?」

ヒロミさんが笑った。

「オカマでも会いたいですね。」

私も少し笑いながら言った。

「コーヒーとカツサンド上がったよ。」

「はい。」

私はマスターからコーヒーとカツサンドを受け取って、ヒロミさんの前に置いた。

「お待たせしました。」

ヒロミさんはカツサンドを頬張って美味しそうに食べた。


 それからの私はバイトと勉強の毎日で、あっと言う間に二週間が経った。

「バイトして何に使うの?」と坂本さん。

「パリで修行する為にお金貯めてるんです。」

「パティシエになるんだっけ?俺なんかほぼ呑み代だよ。情けないな。」

 ドアが開いて沙弥が店に入って来た。同じクラスの原田郁美(はらだいくみ)と一緒だ。

「いらっしゃいませ!」

坂本さんが大声で言った。私はおしぼりと水を二人が座ったボックス席に運んだ。

「なかなかいい喫茶店だね。」と沙弥。

「私チョコレートパフェ。」と郁美が言う。

「私も。」

私はカウンターの奥に向かって

「チョコパフェ二つです。」と言った。

暫くして「パフェ上がったよ。」とマスター。

何故か三つある。

「今ヒマだから鈴木さんは休んでいいよ。友達でしょ?」

「ありがとうございます。」

私はパフェをテーブルに置いて、沙弥の隣に座った。

「気が効くね。いい店だぁ。」

私達はチョコレートパフェを食べ始めた。

「美味しい!」

「ほんと美味しい!」

「ここのパフェ食べた事なかったけど、こんなに美味しかったんだ~」

私達は夢中になった。

「並川先輩と一緒の時あるんでしょ?」郁美が言った。

「気まずくない?」

「確かに最初は気まずかったけど今はそうでもないよ。」

「そうなんだ。」

「あの人何て言うの?」と郁美。

「あの人って?」

「今一緒に働いてる人。」

「ああ、坂本さん?坂本さんがどうかした?」

「坂本さんって言うんだ。好みのタイプ。」

「マジ!?」

「うん。取り持ってくれない?」

「それはいいけど…あまり期待しないでね。」

「何で?」

「坂本さん人気あるのよ。坂本さん目当てで通ってる女の子も多いの。」

「そっか~燃えるわ!」

「え?」

「ライバルがたくさんいた方が燃えるのよ。」

「取り敢えず紹介しようか。」

私は坂本さんにおいでおいでと手招きした。坂本さんは私達のテーブルにやって来た。

「紹介しますね。こちら原田郁美さん。こっちは牧原沙弥さん。」

「どうも。俺は坂本晃です。」

ちょうどその時他の客が入って来た。

「いらっしゃいませ!」

坂本さんは軽く会釈して仕事に戻った。

「私も仕事に戻るね。ゆっくりしてって。」

そう言ってパフェの器を下げ、洗い物を片付けた。

 暫くして

「私達帰るね。いくら?」

「今日は私の奢り。また来てね。」

「ありがとう。ご馳走さま。」

そう言って、二人は帰って行った。

郁美は坂本さん目当てでまた来るのだろうか?

「坂本さん、彼女いないんですか?」

私は頼まれた以上一応聞いてみた。

「彼女か…今はいないよ。」

「どんな人が好みですか?」

「そうだなぁ。今日来た鈴木さんの友達とかいいな。名前忘れたけど。」

「ショートの方?ポニーテールの方?」

「ポニーテールの方かな。」

「そうですか…」

ポニーテールの方は沙弥だ。郁美、残念だったね。

「仲介してくれるの?」

「残念ですけど、沙弥には彼氏がいますよ。郁美はどうですか?」

「ショートの子か…あまりタイプじゃないな。」

「そうですか…」

可哀想だけど、郁美にはちゃんと報告しよう。


「ちは~す。」ヒロミさんが入って来た。

「いらっしゃいませ。お昼ですか?」

「今日はコーヒーとエビドリアにしようかな?」

「コーヒーとエビドリアで~す。」

ランチの時間帯を外してヒロミさんは来る。私達が昼食を摂っている時間が多い。

「雨降って来たよ。」

「雨?」

マスターは焦って言った。

「洗濯物取り込まないと。坂本君、ちょっと任せていい?」

「いいですよ。」

マスターは急いで二階への階段を登って行った。

「洗濯物かぁ。」とヒロミさん。

「昔は奥さんがやってたんだよな。」

「今メニューにはケーキがないでしょ。」

私と坂本さんは頷いた。

「奥さんが作ってたんだ。ケーキ。3、4種類。マスターも作れるけど作らないんだ。ジュピターのケーキはあいつしか作れないって。」

「俺が通い始めた頃は奥さんもいて、娘の智恵(ちえ)ちゃんがちょこちょこしてて…三才くらいだったかな?アットホームな店だったんだ。」

私と坂本さんは黙って聞いていた。

「それが事故で奥さんも智恵ちゃんも亡くなって…金持ちのボンボンが無免許で車運転して歩道に突っ込んだんだ。ちょうど二人が歩いてた歩道に。」

「15日定休日でしょ。二人の月命日で、墓参りしてるんだ。」

「二人が亡くなって暫くは店休んでたんだ。一ヶ月くらいかな。俺心配だったから何度も電話して…でも出ないから来てみた。店の裏口が開いてて中に入ったんだけど、あいつ仏壇の前に倒れてて…救急車呼んだよ。極度の栄養失調で、びっくりする程痩せこけて。」

「病床の名前見て初めて知った。堀井智宏(ほりいともひろ)って言うんだ。奥さんが由紀恵(ゆきえ)だったから、二人の名前をつけたんだな智恵ちゃんって。」

その時、マスターが降りて来た。

「そこから先は僕が話そう。」

私達はマスターを見つめた。

「まるっきり生きる気力を無くした僕は、入院中も食事を採らなかった。点滴でかろうじて生きていたんだ。」

「そんな僕にヒロミさんは言ったんだ。僕がこんなんじゃ由紀恵と智恵が成仏出来ないって。」

「いつまでも成仏出来なくちゃ可哀想だ。それから少しづつ食事して元気になって…ヒロミさんは身のまわりの世話をしてくれたんだ。」

「ここのバイト、時給いいって思わない?」

私と坂本さんは黙って頷いた。

「事故を起こしたボンボンが代議士の子だったんだ。口止め料として月50万円も振り込んで来るんだ。要らないって言ってるのに。まぁアブク銭だから働いてくれる皆に給料として払った方がいいかなって。」

「ヒロミさん、二人は成仏出来たのかな?」

「勿論だ!マスターはちゃんと生きてる。きっと天国から見守ってくれてるよ!」

マスターは黒縁の眼鏡を外して目頭を押さえた。私もいつか涙をこぼしていた。


 翌日、私は聞いた話を並川先輩に、坂本さんは高橋さんにそれぞれ話した。

「悲しいな。マスターにそんな過去があったなんて…」と並川先輩は言った。

どんなに辛かった事だろう。どんなに気を落とした事だろう。愛する者の死を受け入れる事が出来る迄どれだけの月日を要しただろう。私の考えなどとても及びもしないところでマスターは生きて来たのだ。同情の念を禁じ得ない。


「すいませ~ん。」

「は~い只今参ります。」私は客席に急いだ。

「AランチとBランチお願いします。」

「AランチとBランチですね?暫くお待ち下さい。」

私はカウンターの奥に向かって言った。

「AランチとBランチです。」

「はいよ。」マスターはいつも通りだ。

ランチタイムは相変わらず忙しい。

「いらっしゃいませ!」

客は次々やって来る。

「AランチとBランチ上がったよ。」

私は出来上がった料理をテーブルに運ぶ。

忙しい時間が過ぎて、私達は順番にランチを摂った。今日の賄いはエビグラタンとクロワッサンだった。並川先輩がランチを摂っている時

「ちは~す。」とヒロミさんが入って来た。

「コーヒーとクロックムッシュ。」

「コーヒーとクロックムッシュですね?暫くお待ち下さい。」

私はカウンターの奥に向かって言った。

「コーヒーとクロックムッシュで~す。」

「はいよ~。」マスターはクロックムッシュを作りながら、自分用にエビグラタンも作っている。

「コーヒーとクロックムッシュ上がったよ。」

私はそれをヒロミさんの前に置いて

「お待たせしました。」と言った。

その時、ドアが開いて一人の女性が入って来た。

「いらっしゃいま…お母さん?」

「亜美、うまく行ってる?」

「何々?鈴木さんのお母さん?」

ヒロミさんが振り返った。

母とヒロミさんの目が合った。

広実(ひろみ)?」「里絵(りえ)?」

お互い長い事見つめ合っている。ヒロミさんは私に聞いた。

「鈴木さん、亜美って言うの?」

「はい。でも何故?」

「よくある苗字だしお父さんは亡くなったって言ってたから…まさかと思っていたんだ。」

「広実…鈴木広実(すずきひろみ)なの!?」

「そうだよ。里絵。」

「亜美が話していたオカマのヒロミ?」

「そうだ。」

母は放心した様にその場で立ち尽くしていた。

どう言う事?二人の話によるとヒロミさんは私の父親?

 ヒロミさんは茫然自失としている母をボックス席の一つに座らせて、自分はその向かいに座った。

「里絵、すまない。全部俺が悪かった。」

「そうよ!何で今更… 」

「悪かったと思う。」

「どうしてあの日黙って姿を消したの?」

「男が女の稼ぎを当てにする様になったからだ。」

「だって、私が出版社で働いて、あなたが家の事やって亜美の世話をして、それでうまく行っていたじゃない?」

「そうだな。今なら専業主夫も良いかもしれないと思うけど、あの頃の俺は男は外で仕事するものだとばかり思い込んでいたんだ。」

「下らないプライドだわ。」

「そうだな。その通りだ。」

「私達を捨ててたどりついた仕事がオカマなの?」

「女装していると違う自分になれたんだ。弱い自分、情けない自分、何もかも捨てて違う自分になれたんだ。」

「私達の事は考えなかったの?」

「何度もマンションの近くまで行った事がある。でもこんな俺じゃ会わせる顔がないと思って…」

「帰って来て欲しかった。」と母。

「どれほど会いたかったかわからないわ。」

母は泣きじゃくった。

「ごめんな。」

ヒロミさんは母の座っている所まで行って、母を抱きしめた。頭を撫でている。

「俺を赦してくれる?」

「もう黙っていなくならない?」

「うん。」

「赦すわ。」

母の泣き顔など初めて見た。いつもの豪快さはどこへやら。まるで小さな女の子の様だ。

ヒロミさんは私に言った。

「お父さんって呼んでくれるかい?」

「お…お父さん?」

ヒロミさんは涙を浮かべていた。


 ちょっと待て。それってヒロミさんが家に帰って来るって事!?もうオカマは止めるのだろうか?ヒロミさんの事は好きだ。私の父親だった事も嬉しい。しかし今迄の母との気ままな二人暮らしはなくなるのだ。少し寂しい。でも母がそれで幸せになれるのならその方がいい。ヒロミさんは専業主夫になるのだろうか?

 暫くして、母は落ち着きを取り戻した。

「亜美、この人があなたのお父さんよ。」

「うん。」

私は何と言っていいのか分からず、そう言って頷いた。


 次の日曜日、ヒロミさん…いや、父は身のまわりの物を持って、私達のマンションに帰って来た。

「懐かしいな。またここに帰って来られるとは思わなかった。」

「あなたがいつ帰って来てもいい様に、そのままにしておいたのよ。」

「ありがとうな。こんな俺なんかの為に…」

「今夜はすき焼きにするよ。」母が言った。

「私今日は早番だからもう行くね。すき焼き楽しみにしてるよ。」

「行ってらっしゃい。気をつけてね。」

「行って来ま~す。」


 今日は並川先輩と一緒だった。父が帰って来た事を話すと、

「それは鈴木にとっては複雑なんじゃないか?」

「はい。母は有頂天だし幸せそうでいいんですけど、今迄母と気ままに暮らしてたから三人ってどうなのかな…何て考えちゃうんですよね。」

「そうか。そう言えばヒロミさんは常連じゃなくなるのかな?」

「どうなんでしょう?母と二人で来たりして。」

「それ、ありそうだな。」

その通りだった。2時頃両親がやって来た。

「コーヒーとミックスサンド。」

父が言った。

「私も同じ物にするわ。」

「コーヒーとミックスサンド二つづつです。」私はマスターに言った。

「はいよ。」

「亜美がお世話になってます。」

母はマスターに聞こえる様に大声で言った。

暫くして

「コーヒーとミックスサンド上がったよ。」

私はそれを受け取って両親の前に置いた。奥からマスターが顔を出して、母に向かって話した。

「よくやってくれてますよ。真面目な子ですね。」

「そうですか?ありがとうございます。」

母はコーヒーを一口飲んだ。

「まあ、何て美味しいの!?」

「俺がハマるの分かるだろ?」と父。

「分かるわ。」

「亜美、マスターにコーヒーの入れ方しっかり教わるのよ。」

「教わってるよ。でも凄く難しいの。」

「そうだろうな。納得出来ないんだろ?」と父。

「マスターの様には入れられないよ。」

「そりゃそうだ。年季が違う。」

「でも結構上手く入れられてると思いますよ。」とマスター。

「お客様に出せる迄に近々なるでしょう。」

「嬉しいです。もっと頑張ります。」

私の入れたコーヒーをお客様に出せる様になるなんて、凄く嬉しい。頑張ろう。


 両親が帰った後、並川先輩が言った。

「新婚さんみたいだな。ラブラブで羨ましい。」

「先輩は恋人いないんですか?」

私は朝倉さんの事を思い出していた。

「いないな。好きな人ならいるけど。」

やっぱり朝倉さんの事が忘れられないのか…

「明日は15日で休みだろ?一緒に映画でも観に行かないか?」

「えっ?」

「その…さ、前の告白がまだ生きてるなら…」

驚いた。好きな人って私!?

「何かいい映画やってるかな?」と私。

「じゃあ俺と付き合ってくれる?」

「はい。」

私は並川先輩と付き合う事になった。

でも正直言って先輩はもう一緒に働く同僚くらいに思っていた。こんな気持ちで付き合ってもいいのだろうか?好きな人は他にいないし、楽しいかもしれない。前に好きだった人だ。すぐに好きになれるだろう。

「明日10時に駅前でいいかな?」

「はい。」


 その日の夜、私は沙弥に電話をかけた。

「…って事で並川先輩と付き合う事になったんだ。」

「良かったじゃん。前に告白した甲斐があるよ。」

「でもいいのかな?こんなあやふやな気持ちで付き合っても。」

「いいと思うよ。付き合って行くうちに好きになるって。」

「そうかな?」

「そうだよ。前に好きだった人だもん。告白が成功したような物だよ。」

「そうだね。」

「そんなに深く考えなくてもいいんじゃない?」

「そっか。分かった。考え過ぎだね。」

「そうそう。デートの詳細はちゃんと報告してね。」

「何か面白がってない?」

「だって亜美の初めての彼氏だよ。興味あるよ。」

「分かった。明日の夜電話する。」

「頑張って。じゃあね。」

「うん。じゃあね。」

電話を切った後、私は何を着て行こうか迷っていた。

初めてのデートだ。少しはお洒落して行きたい。

クローゼットの中を見て、これじゃない、これでもない。どうしよう…ベッドの上に服を並べて思案する事しばし。結局白いワンピースを着て行く事にした。


 翌日、私は待ち合わせの場所に5分前に着いた。並川先輩はもう来ていた。

「おはよう。」

「おはようございます。」

夏休みとは言え平日の昼間とあって、映画館は比較的空いていた。

「恋愛物とホラー、どっちがいい?」

「私ホラーはダメなんです~。」

「じゃ恋愛物だね。待ってて。チケット買って来る。」

私がお財布を出すと、先輩は手を振って

「デートの時は男が出すもんだ。」

「そうですか。すみません。」

「何も謝る事はないよ。」

そう言って、チケットを買いに行った。

映画は主人公の彼氏が亡くなってしまうと言う悲しい内容だった。私はぽろぽろ泣いてしまった。

 映画が終わると、私達は昼食を摂る為に、レストランに入った。

「何にする?」

私はメニューを見ながら迷っていた。ハンバーグかカレーか…

「決まった?俺ハンバーグ定食。」

「私も。」

並川先輩は卓上にあるスイッチを押してウェイトレスを呼んだ。

「ハンバーグ定食二つ。」

「ハンバーグ定食お二つですね。」

彼女は電子伝票?のボタンを押して言った。

「はい。」

「少々お待ち下さい。」

ウェイトレスが行ってしまうと先輩が言った。

「ああ言う伝票って便利なんだろうな。」

「間違い無さそうですよね。」

「あのさ、俺ら付き合ってるんだしタメ口でいいんじゃない?」

「あ、そうか。そうですね…じゃなくてそうだね。」

「呼び方も二人の時は“裕一”って呼び捨てで呼んで。俺は“亜美”って呼ぶからさ。」

「うん。」

「試しに呼んでみて。」

「ゆ…裕一。」

顔が真っ赤になるのが自分でも分かった。

「上出来。」

「亜美。」

「なあに?」

「呼んでみただけ。」

私はますます真っ赤になって俯いてしまった。


 まだ家に帰るには早くて、私達はゲーセンに行った。すると、クレーンゲームの一つにとても可愛いウサギのぬいぐるみがあったので、私はそれをゲットする為に500円玉を投入した。500円で6回のチャレンジが出来る。私は真剣にアームを動かしてウサギの頭を挟もうとしたが、なかなか取れない。6回とも取れなかった。

「亜美、そのウサギ欲しいのか?」

「うん。」

「俺に任せろ。クレーンゲームは得意なんだ。」

裕一は私と入れ違いになってウサギと格闘して、3回目に見事ウサギをゲットした。まだ3回残っている。私にウサギを手渡すと、今度はネコのぬいぐるみをゲットしようとアームを動かした。最後の1回でネコもゲットした。

「上手いもんだろ?弟や妹によくねだられるんだ。」

ネコも私にくれて、彼は自慢気にそう言った。

「ありがとう。大事にするね。」

「可愛がってくれよ。」

「モチロン。」

私は貰ったウサギとネコをぎゅっと胸に抱いた。


「ただいま。」

家に帰ると、母はまだ帰っておらず、父が夕食の支度をしていた。

「お帰り。デートはどうだった?」

「映画観てお昼食べてゲーセン行きましたよ。」

私はウサギとネコのぬいぐるみを見せて「戦利品。」と言った。

「良かったね。並川君いい子でしょ?」

「はい。」

「キスくらいした?」

「ま、まさか!初めてのデートですよ!」

私は真っ赤になって否定した。

「冗談だよ。彼は真面目な子だからね。」

「着替えておいで。もうすぐ夕食出来るから。」

「は~い。」

私は自分の部屋に戻って、裕一に貰ったウサギとネコをベッドの頭にある棚に飾った。

 夕食は青椒肉絲、エビチリと卵スープだった。私と父は母を待たずに食べ始めた。

「美味しい。」

私は言った。

「たくさん食べて。今日は中華だからデザートに杏仁豆腐があるよ。亜美はもう少し太った方がいいんじゃないかな?」

「この位でちょうどいいと思うけど…」

「赤ん坊の頃はぷくぷくしてて可愛かったなぁ」

「そうか。お父さんが育ててくれたんですもんね。」

「いつまで敬語?他人行儀で寂しいよ。」

「あ、そうか。ごめんね。今でもヒロミさんって呼びそうになるよ。」

「まあこう言う事は慣れる迄時間がかかるよ。ムリする事ないって。」

父はそう言って笑った。何だかすまない気になった。

「お父さんは専業主夫になるの?」

「家にはいるけど専業主夫じゃないよ。俺は作家なんだ。家を出てから作家デビューしたんだ。」

「え~!ほんとに?」

「オカマで食ってると思ってた?」

「思ってました。」

そうか、作家ね…ってマジ!?

「どんな本書いてるの?」

「純文学だよ。読んでみて。」

「是非読んでみたいです。」

自分の父親が作家だったなんて…私は何故か誇らしい気分になった。

 夕食の後、父は一冊の本を私にくれた。

タイトルは“呼吸”と書かれていた。ペンネームは森山巧(もりやまたくみ)と言うらしい。

私は自分の部屋に戻るとすぐ読み始めた。面白い。初恋の切なさがひしひしと伝わって来る。

私は一気に読み終えてしまった。朝になっていた。

キッチンに行くと、父はもう朝食の支度をしていた。

「おはようございます。」

「もう起きたの?早いね。」

「寝てないの。小説読んでて。」

「徹夜で読んでくれたの?」

「面白くて続きが気になっちゃって。気がついたら朝になってた。」

「面白かった?嬉しいな。でも徹夜はダメだよ。」

「はい。」

「何か食べる?」

「食べる。お腹空いちゃった。」

「座ってて。今用意するから。」

父はチーズトーストとオムレツを作ってくれた。

「後、牛乳ね。おっぱい大きくなるように。」

「お母さんと同じ事言う。」

私はふくれて言った。

「夫婦だからねぇ。おっぱいは恋をすると大きくなるんだって。並川君に大きくしてもらうんだね。」

ほんとかな!?恋をすると大きくなるのか…でも裕一に対して抱いている気持ちは恋ではない。あやふやな好意だ。一緒にいると楽しい。それは事実。だが友情以上の想いは沸いて来ないのも事実だ。何故だろう?あんなに好きだった人なのに…

「今日は遅番?」

父に話しかけられて、物思いから覚めた。

「うん。遅番。少し寝ようかな?」

「それがいいよ。」

「おやすみなさい。」

「おやすみ。」

私は部屋に戻ってベッドに潜り込んだ。今は眠ろう。それだけだ。


 目が覚めたのは1時頃だった。キッチンに行くと父は居なかった。きっと執筆中なのだろう。

私は何か食べる物はないかと冷蔵庫を開けた。すると、「起きたら食べてね。」と書かれたメモがチャーハンに着いていた。私はそれをレンジで温めて食べた。自分で作らなくてもいいと思うと嬉しい。

 食べ終わると、食器を洗って自分の部屋に戻った。もう夏休みの宿題は終わらせていたが、苦手な数学をもう少し勉強しないといけないなと思い、教科書を開いた。

 そこへスマホの着信音がした。沙弥からだ。

「昨日のデートどうだった?」

「楽しかったよ。映画観てご飯食べてゲーセン行った。」

「そうなんだ。それから?」

「それからって?それだけだよ。」

「なんだキスもなし?」

「ないよ!まだ付き合い始めたばかりだよ。」

「もしかしてまだ好きになれないとか言う?」

「実はそうなんだ。一緒にいると楽しいんだけど…前みたいな気持ちになれないんだ。」

「そうかぁ。どうしてだろうね。」

「どうしてだろう?自分でも分からないんだ。」

「はっきりさせた方がいいよ。このままじゃ並川先輩が可哀想だよ。」

「そうだよね。でもバイトで顔合わせるのが気まずいよ。」

「そうだね。気まずいよね。」

「このまま暫く様子を見てもいいかな?」

「いいんじゃない?亜美の気持ちが大事だよ。」

電話が終わっても私は考えていた。

裕一の事は好きだ。でもその「好き」は両親や沙弥に抱いている「好き」と同じだ。恋ではない。

一緒にいると楽しいのだからこのまま付き合っていてもいいのではないか?

あれこれ考えても仕方がない。バイトに行く時間だ。私は着替えてバイトに出掛けた。


 今日は高橋さんと一緒だ。8時頃常連のケンさんが、ベロンベロンに酔って店に来た。

「鈴木さぁん、俺の彼女になってぇ。」

「私、彼氏いますから。」

「彼氏がいてもいいから付き合ってぇ。」

「何言ってるんですか?しっかりして下さい。」

「俺の彼女にぃ…」ケンさんはカウンターに突っ伏して眠ってしまった。

「ケンさん何かあったのかな?こんな姿初めて見るよ。」高橋さんが言った。

「ケンさん、起きて下さい。風邪ひきますよ。」

「ん~…」

高橋さんがいくら揺すっても起きない。

「どうしたの?」マスターが来て言った。

「ケンさんが…」

「酔って寝ちゃったのか…しょうがないなぁ」

「どうします?」と高橋さん。

「暫くほっとこう。そのうち目を覚ますでしょ。」

 閉店間際になって、他の客は皆帰り、ケンさんだけになった。

「ケンさん、閉店ですよ。」

私はケンさんを揺すって起こそうとした。

すると急に上半身を起こし私にもたれかかって来た。

「ちょっと…重いですよ!ケンさん!」

「ん~鈴木さぁん…」

ケンさんは突然私の顔を手で押さえ、キスをした。

私はあまりの事に驚いて、ケンさんを突き放した。

「あらら…」と高橋さん。

涙が溢れて来た。

「私の…初めての…」

しゃくりあげ涙を流す私に、高橋さんが聞いた。

「もしかしてファーストキス?」

私は泣きながら頷いた。

カウンターからマスターが出て来て、ケンさんを殴った。私も高橋さんもびっくりした。

「ケンさん、あなたこの店出入り禁止です!」

殴られて正気を取り戻したケンさんはシュンとして

「すみません。」と言った。

「女の子にとってどれだけショックだったか!」

普段感情を顔に出さないマスターが激怒している。

「出て行って下さい!」

ケンさんはよろけながら店を出て行った。

「鈴木さん、ノーカウント!ノーカウントだよ。」

マスターが宥めてくれる。

「そうそう。事故だと思って忘れよう」

高橋さんも慰めてくれる。

さっきのマスターの一撃に驚いて、涙は引っ込んだ。悲しいのを通り越して怒りがフツフツと沸いて来た。こんな事なら裕一にあげれば良かった。

「もう大丈夫です。取り乱してごめんなさい。」

マスターと高橋さんはほっとした様だ。

「今日は僕が送って行くよ。」とマスター。

「俺も行きます。」高橋さんだ。

「ありがとうございます。」

マスターは店に鍵を掛けて私を送ってくれる。ふと見ると、ケンさんが店の近くで待っていた。

私達を見ると、私の前迄来て土下座した。

「すみませんでした。」

「俺、今日彼女にフられて、呑めない酒をたくさん呑んで…」

「本当にすみませんでした。」

私は落ち着いて言った。

「一度殴らせて下さい。」

「はい」

私はケンさんの頬を一発思い切り叩いた。

それだけで怒りが収まる訳ではないが、ちょっとスッとした。

「マスター、出入り禁止ですか?」

悲しそうに言う。

「鈴木さん次第だね。」

私の方を見る。

「構いませんよ。私、忘れる事にしましたから。」

「と言う訳だ。」マスターが言った。

「ありがとうございます。もう酒は呑みません。」

ケンさんは何度もお辞儀をして帰って行った。

「さあ、帰りましょう。」と高橋さん。

マスターと高橋さんはマンションのエレベーターを降りるまで送ってくれた。

「ありがとうございます。無事帰れました。」

「いやいや、自宅のドアを開ける迄気を抜いちゃダメだよ。」とマスター。

「ここから見てるから早くお帰り。」

「はい。」

私は自宅のドアを開けた。振り向くと、マスターと高橋さんが手を振っていた。

私も手を振ってから家に入った。


 翌日は裕一と早番だった。私が悪い訳ではないが、何となく後ろめたくて、裕一の顔をまともに見られなかった。

「今日上がったら遊園地に行かない?」

「遊園地?いいよ。」

「高橋さんが電話くれた。昨夜の事聞いたよ。」

「……」

私は何も言えなかった。裕一は怒りをあらわにした。

「大人ってズルいよな。酒のせいにしてさ。」

私は黙ったまま俯いた。

忙しい時間が過ぎて行き、4時になった。

 夏休みの遊園地は子供連れで賑わっていた。

「手…つないでいいかな?」

「いいよ。」

私達は手をつないで歩いた。私は絶叫マシンが大好きで、暗く、落ち込んだ気分が吹っ飛んだ。裕一は苦手で、本気で怖がっていた。

 7時頃長い夏の日が暮れようとしていた。

「観覧車に乗ろう。」

「え~!?私高い所苦手。」

「大丈夫だよ。俺が隣に座るから。」

嫌がる私を引きずって、観覧車の乗り場まで来た。

「行ってらっしゃいませ。」係員が言った。

ゴンドラに乗り、一周15分の旅が始まった。

裕一は隣に座った。私の肩に手をまわす。

「怖いよ~」私は言った。

「ケンさんの話聞いて俺もムカついた。」

「……」私は何も言えなかった。

「俺が消毒してやる。」

そう言うと私の顎に手をかけて上を向かせると、自分の唇を私の唇に重ねた。優しいキス。私は目を閉じた。涙がこぼれた。

そう。これが私のファーストキス。唇が熱い。

長い間そのままでいたが、ゴンドラが下りになると裕一は唇を離し

「消毒完了」と言った。

陽は既に暮れ、夜の帳が降りようとしていた。


 翌日は坂本さんと早番だった。

「大変だったんだって?」

「大丈夫です。もう忘れました。」

「鈴木さんは真面目だもんな。」

「そんな事ないですよ。」

「高2になってキスも知らなかったなんてやっぱ真面目なんだよ。」

「相手がいなかっただけですよ。」

私はちょっとムッとして言った。

昨日裕一が消毒してくれたから。もう大丈夫。

裕一が彼氏で良かった。思った通りに優しい人だ。大事にしよう。


「鈴木さん、パティシエになりたいの?」

マスターが言った。

「そうなんです。」

「簡単じゃないよ。」

「分かってます。」

「ケーキ作った事ある?」

「はい。家で何回か。」

「良かったら僕が暇な時コツとか教えようか?」

「いいんですか!?そうして下さると嬉しいです。」

「調理器具あるし材料もあるからね。」

「ありがとうございます。」

「早速一台作ってみる?」

「はい!」

「ケーキ作りは天気や気温によって違って来るんだ。粉の配分が少しづつ違って来る。」

「卵一個でも大きさが違えば出来上がりが違う。」

「だから同じケーキは作れない。」

私はマスターの話を黙って聞いていた。

その時マスターを呼ぶ坂本さんの声がした。

「コーヒーとシナモントーストです。」

「はいよ~」

「僕が戻って来る迄に材料揃えておいて。」

そう言ってマスターは仕事に戻った。

私は調理器具と材料を揃えた。

店の方を見ると客も少なく、私がいなくても大丈夫そうだ。

「コーヒーとシナモントースト上がったよ。」

「はい。」

坂本さんの声。

マスターは私の所に戻って来た。

「シフォンケーキだね?」私が用意した型を見て言う。

「家で作った時縮んでしまって…」

「完全に冷やした?冷たくならないうちに型から外すと縮んでしまうんだ。」

「あ~そうなんですか?私せっかちで…」

「後はメレンゲの泡立て不足ね。」

「取り敢えず作ってみて。」

「はい。」

私は材料を計って、まずは卵を卵黄と卵白に分ける所から始めた。

「手付きがいいね。」とマスター。

ボウルに卵黄をほぐしてグラニュー糖、油、牛乳、水、薄力粉を入れて混ぜ、均一な生地を作る。

卵白を泡立ててメレンゲを作る。グラニュー糖を加えながら泡立てる。

「そうそう。もうちょっとだね。」

卵黄生地にメレンゲを少しづつ加え生地が出来上がった。

「型に入れる時は空気がなるべく入らないようにね。」

「はい。」

私は生地を型に流し入れた。一度型を持ち上げてテーブルの上に落として空気を抜く。

それを170度に予熱したオーブンで30分焼く。

「後は焼けるのを待つだけだね。」

「そうですね。私、洗い物しますね。」

洗い物がたまっていたのでそれを一気に片付けた。

やがてケーキが焼き上がった。

更に冷やす時間がある。もう少しで出来上がる。

 十分冷えたので皿にあける。

「やったね。美味しそうに出来たじゃない。」

「はい。」私は嬉しかった。

マスターと私、二人分切り分けて食べた。

「美味しく出来たね。」とマスター。

「はい。美味しいです。」

「坂本さんにも食べてもらっていいですか?」

「いいよ。」

私は坂本さんの分を切り分けて持って行った。

「鈴木さんの手作り?嬉しいな。」

坂本さんは一口食べて

「美味しいな。」と言った。

やがてマスターはシフォンケーキの残りを箱に入れて私に持たせてくれた。

「ヒロミさんと奥さんに食べさせてあげて。」

「ありがとうございます。」

その日の夕食後、私の焼いたケーキがデザートとして出された。

「美味しいよ。」

「ほんと美味しいわね。」

両親が美味しいと言ってくれたので私は嬉しかった。もっと作りたい。


 それからマスターは遅番の時、閉店後に私のケーキ作りに協力してくれた。

チーズケーキ、ショートケーキ、果実のタルト…色々教えてもらった。

 ある日の事だった。いきなり停電になった。真っ暗で何も見えない。

「鈴木さん、大丈夫?」

「大丈夫です。マスターは?」

「僕は大丈夫。確かこの辺の引き出しにローソクがあった筈。」

それから引き出しを捜す音がして、シュッとライターの音とともに、暗闇に灯りがついた。

「参ったな…停電とは。」

「すぐ終わるといいけど…」

「こっちにおいで。床にでも座ろう。」

私はマスターの隣に座った。

床に置いたローソクが密かに揺らぐ。

「キスしていい?」

マスターが言った。

私は驚いたけれど、まるで最初からそうなる事が必然だった様に目を閉じた。

マスターは私の肩に手をまわし、そっとキスをした。

「鈴木さんが欲しい。」

「私もマスターを知りたい。」

私達はローソクを手に、居住エリアに向かった。

二階には仏壇がある。

マスターは仏壇に手を合わせて言った。

「由紀恵、指輪を外すよ。愛する人が出来たんだ。」私もマスターの隣で手を合わせた。

マスターは指輪を外して仏壇に置いた。

三階。電気のスイッチを押してみても付かない。

まだ停電が続いているのだろう。

ベッドの近くにローソクを置くと、マスターは私を抱き締めた。キスしながらベッドに倒れ込む。

 その夜、私はマスターと結ばれた。暫くすると電気が付いた。眩しかった。ベッドのシーツに血が付いていた。私は何故か涙が出た。

「後悔しているの?」とマスター。

「ううん。最初の相手はマスターがいいって思ってたんです。」

 ケーキ作りを教えてもらい、いつしかマスターに対して尊敬と憧れを抱くようになっていた。だから決して後悔はない。

「ケンさんが鈴木さんにキスした時、僕は彼を殴ったでしょう?正義感なんかじゃない。物凄いジェラシーを感じてたんだ。」

「そうだったんですか。」

 裕一と別れなければ…私の気持ちがはっきりした以上、裕一とは付き合えない。


 翌日は裕一と早番だった。

いつ別れを告げようか…なかなか言い出せない。やっぱり仕事が終わってからにしよう。

 仕事が終わって、私は裕一に言った。

「話したい事があるんだけど。」

「話したい事?」

「うん。」

私達は店を出て、駅前の喫茶店に入った。

「私達終わりにしよう。」

「そうだな。」

裕一があっさり同意したので、ちょっと驚いた。

「俺、朝倉さんの勉強見る事になったんだ。やっぱり朝倉さんの事忘れられなくて…」

「そうなんだ。」

「私も他の人と付き合うんだ。」

「亜美、好きだったよ。」

「私も裕一の事好きだった。」

私達は喫茶店を出た。

「じゃあね。」

それぞれの行先に別れて歩き出した。


 夏休みが終わろうとしていた。

「早番のバイト募集しなくちゃな。」

マスターは呟いた。

「亜美のケーキ、店で出そうか?」

「ほんと!?嬉しい。」

「朝早く来て二種類くらい作れる?」

「三種類くらい作りたいな。それから学校に行くの。」

「大丈夫か?気負い過ぎると失敗するよ。」

「大丈夫。智宏さんがいてくれるなら。」

「甘ったれ。」


 私はマスターを愛している。マスターも私を愛してくれる。これ以上ない程愛し合っている。これから幾多の支障があっても揺るぎない愛だ。母はどう思うだろうか。ヒロミさんは何て言うだろう?取り敢えずケーキ作りだ。お客様が満足してくれるように頑張ろう。

 この先、何があろうと私は胸を張って生きて行きたい。夜空に輝く木星の様に。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ