5.羨ましくなるよ
忍び込んだ講義室は、一限目だというのに半分が寝ていた。クルト教官は退役どこか寿命も間近といった感じの大ベテランで、シワガレた声を部屋中に響かせていた。一番後ろの席に陣取っていたヴァンの隣に座ると「あれ」とあくび混じりで俺に話しかけてくる。
「砂場で遊んできたの?」
薄汚れた俺を見てそう言った。俺は「違う」と言って眉間にシワを寄せる。
「寝違えは?」
「悪化した。全身に転移だ」
「恐ろしい病だね」
「ーー今はなんの時間だ?」
「クルト老師のためになる講義。テーマは『兵站術 軍隊を動かし、かつ補給を行う新銘術の基礎』」
「面白いか?」
「眠れない夜に聞きたいくらいには」
またあくびをかみ殺すヴァンに、俺は「なぁ」と話しかける。
「ここに俺らぐらいの年のやつって、他にいるのか?」
「なに?」
「だから、年は一五から一八くらい、ライフルが上手くて、銀髪碧眼、ツラは良くて口調は丁寧だが、人を平気で投げ飛ばす、そんなやつを見たことあるか?」
ヴァンはいつもの微笑みを一層深めて、
「気になる子が出来たの?」
「気になる? あぁ気になるね。気になりすぎていじめてやりたい。ぎったぎたにして『すみませんでした』って言わせてやる」
「だめだよ、女の子は大事にしなくちゃ」
「俺は俺を大事にしてくれるやつを大事にするね」
「いったいどこの誰に何されたの」
「だからどこの誰かって話だ。何をされたかは……別にいいだろ」
ヴァンはくすくすと笑いながら、
「なんにせよ僕は聞いたことないかな。誰だろう、警備隊の人じゃないかな?」
「森に消えていったぞ」
「森って、射撃場の近くの?」
俺は頷く。ルオストの東部に広がるルオスト森林保護区は野生動物の宝庫で、世間一般でヤバいとされてる動物の大半が住んでいる。セルプ連邦との国境をまたいで広がっており、年に一度、ルオキャンプの締めとなる宿営訓練を除く時期以外は、基本生徒も警備兵も立ち入りは禁止の筈だ。
「セルプのスパイ、とか?」
ヴァンがいつもの表情で冗談か本気か分からないことを言う。「スパイが敵の射撃場で練習するか?」と返すと、不意に前の席から、
「それってもしかして、白狼の事?」
振り返った女の名前を俺は思い出す事が出来なかった。だけど顔は見覚えがある。ルオキャンプの同期生だし、なにより一番最初、講義室でコラブ教官に噛みついて煙草を半分にされた奴だから。
「白狼って? ライさん」
「ハティでいいよ」
とハティは屈託なく笑う。ハティ・ライ、という名前なのか。染めているのか体質なのか、髪は薄いブラウン。生意気な口調ばかり印象に残っていたが目はあどけなさが残り、それと不釣り合いに顔の輪郭は大人びた尖りがある。あの一件以来、なんとなくとっつきにくい印象があったが、いざこうやって面と向かって話してみると家猫みたいな人懐っこさを感じた。ふと目を落とした胸ポケットにはおそらく煙草の箱であろう四角いふくらみがあり、さらに言えば胸元を押し上げる胸の大きさが目についてまた視線を元に戻す。
「むしろあんたら聞いたことないの?」
俺とヴァンは目を合わせ、同じタイミングで肩をすくめる。「あれ? 有名だと思うんだけどなぁ」とハティは言うが、まだルオキャンプが始まってひと月も経ってない。誰彼話しかけるヴァンはともかく、自他ともに認める人見知りの俺に、そんな情報が回ってくるはずがなかった。
「ルオストの森には昔から女の子が住んでるんだって。その子は自分より大きいライフルを担いで、何百メートル先の的を絶対に外さないとか」
そいつだ、と俺が思うのと同時に、
「その子が何で白狼なの?」
とヴァンは訊ねる。ハティは肩をすくめ、
「さぁ? みんなそう言ってるし」
俺はついさっきの光景を思い出す。自分より大きい、は流石に言いすぎにしても、体長に合わないライフルを背負って的を見据える姿、相手構わず暴行する傍若無人ぶりに『白狼』という呼び名はぴったりに思えた。
「それで、もしかしてあんた達その子を探しに行くつもり?」
ハティの問いかけに、ヴァンがゆっくりこちらを見る。ハティも双眸を俺に向ける。俺は一言、
「行く」
「だってさ」
とヴァンが言い、ハティが「おし!」と嬉しそうに呟いた。
「じゃあ私も手伝ってやる」
その代わり、とハティは人差し指を立てて、
「一個だけ、私にも協力してほしいのよね」
嫌な予感がした。
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一日の授業は十六時四十五分に終わる。夕食は十七時半からで、早く食べないと後から来る本職の軍人共に追い出されることになる。風呂は各部屋に一つ、棺桶を縦にした広さのシャワールームがあって学生はそこで体を洗う。お湯が時間帯は決められていて、短いその時を逃すと水を浴びるしかない。
食事、風呂と終わったらようやく自由時間だが、許可がない限り、平日の外出は禁じられている。そもそも町と呼べるところまではバスで一時間はかかるし、そのバスも授業が終わるころにはもう最終便は出ているから『脱獄』してもルオストの雄大な大自然の下で星を眺めたりクマと戦ったり、それくらいしかやることはない。
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ルオスト国立公園は、名目上、森林保護区だ。
セシア帝国の衛星国だった時代、その国境線の警備のための口実が国立公園化による『森林の保護』で、それを維持するための『保護官』の配置だった。もちろん保護官の目的は国立公園の維持管理だから、大規模な装備など持ち合わせていないし、そもそも軍にも属していない。対自然動物用のライフルぐらいしか持っていない保護官が、もし国境線を超えてくる不届き者を見つけた時、どう立ち向かうのか。
それが、わざわざ仮想敵国との国境近くに新銘術の研究所が置かれている理由だ。
セシア帝国が崩壊してセルプ連邦となった後は、国立公園という名目はそのままに、正式に軍が置かれた。国立公園の外縁にあたる所に警備隊、新銘術研究所、そしてルオキャンプをはじめとする教育機関も配置となった。正式名称ルオスト特殊兵科高等技術研究所及び第七連隊国境警備隊。ルオキャンプはその教育機関の教育プログラム、という位置づけになる。ゴミを肥やしに、というのは教育機関としての任務で、原石をダイヤに、は研究所としての使命になるのだろう。
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時刻は十八時を回ったところ。
夕方と夜の間。日は遠く山脈の向こうに沈み、セルプ連邦へ続く地の果てから夜が這い上がってきている。
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食事を終えた俺とヴァン、それにハティは、宿舎を抜け出していた。建物を離れ、食後の散歩と言った感じで平原を歩いている。施設内にはもちろん立入禁止の箇所もあるけれど、学生でも軍属である以上、大抵の施設には入れる。もちろん、用事もなしにぶらついていたらたまたま出くわした兵士やらに問いただされる事はあるだろうけど。
「いや私も白狼については詳しいこと知らないよ? いつの間にか森に住んでて普段は何してるのかわからないとか。毎朝、日課みたいに射撃場には来るらしいけど訓練が始まる頃にはどっか行っちゃうから、いつも何しているかはわからないんだって。あの見た目だし口説きに行った男は何人もいるらしいけど、まぁそれで上手くいってくれてれば、せめて名前くらい広まってるわな」
ヴァンは横目で俺を見る。「ちげぇよ」と言えば「分かってる分かってる」と腹立つ笑顔を浮かべる。
「私は警備隊のやつに聞いたんだけど、白狼も勝手に射撃場を使ってるわけじゃなくて、ちゃんと上の許可を取ってるんだって。それに食堂から食べ物も貰ってるらしいから、結構軍の世話になってるっぽいというか、でもだからこそ正体不明なんだよなぁ。ただの一般人だったら、軍がわざわざそんな事するわけ無いだろ? 中にはヴァンみたいにセルプのスパイだとかいう奴や、司令の隠し子だとか、そんな噂ばっかりあるけど本当のところは誰も知らないみたい」
ハティは咥えた煙草を気持ちよさそうに吸い込む。ヴァンは先頭を歩くハティに他に面白い話はないか、と訪ねている。二人の背中を見ながら俺は内心、こうやって三人で歩いているところを誰かに見られはしないかはらはらしているが、ハティも、それになぜかヴァンもそんなそぶりは一向に見せない。二人して俺をはめようとしているのではないかと、今更になって思う。
やがて左手に見える宿舎を通り過ぎ、『訓練場』と呼ばれる一帯に脚を踏み入れる。
俺が今朝、あの女と出会った射撃場もここにある。平原が途切れ、東に針葉樹林の森が見えるその場所は俺達のような新兵の基礎訓練の場であり、警備隊の実践的な特訓の場でもあり、そして研究所が開発した新銘術の実験場でもある。各々の区画は分けられており、特に研究所の実験区画は目隠し用の壁が囲まれていたりと明らかに異質だ。
馬小屋は、警備隊と研究所の境目にあった。
モックアップの軍馬は今日は丸一晩外の馬小屋で『ならし』が行われている。ハティが言うに、普段倉庫で眠っているような木製のモックアップは、使う前の晩は丸一日外において外気にならすのが当たり前らしい。カビや虫食い防止で室内に保管されていたモックアップをいきなり外で走らせると、湿度と温度の関係で関節の滑りが悪くなったり、逆に良くなりすぎたりして破損の原因になるのだとか。
そして馬小屋についた俺たちの目の前に、明日、新人警備隊の訓練用に使われるモックアップがずらりと並んでいる。
「おーあったあった」
他人事のようにヴァンは言う。ハティは目を輝かせ、子猫に駆け寄る女があげる甲高い声とともに馬小屋へと近づく。
「おい、声。ばれるだろ」
「ばれないばれない。みんな飯食べてるんだから」
軍馬のモックアップはどれも足をたたみ頭を垂れた状態で置かれている。その姿は馬というより猫に近い。基本は木製だが紋や関節部には金属の装甲がつけられている。胴体の右側には『ルオスト国境警備隊』という文字と、軍の紋章である交差する二本の剣の前でとぐろを巻く戴冠した竜の印。それに文字と数字を組み合わせた五桁の管理番号が焼き付けられている。
「なぁ、考えてみれば今すぐいかなくても、また明日の朝になったら射撃場に来るんじゃ」
「ほら、つべこべ言わずに楽譜楽譜」
俺は眉を潜めながら軍馬に命を吹き込む楽譜を差し出す。愛玩用や農作業用などの楽譜はどこの本屋でも売られているが、軍事関係のモックアップだとそうはいかない。作戦区域やドクトリンに合わせたチューニングを施されている軍馬の楽譜はいわば軍事機密で、軍の中でも機密取扱者の資格がなければおいそれと触れていいものではない。ハティが言うところの時代遅れの軍事機密だ。東のセルプ、南のジェイマ、海を超えた先の西のエイリック。周囲の大国の軍は機械化されており、生身の馬の代わりとして生み出された軍馬のモックアップの重要度は著しく低下している。
が、それでも軍事機密は軍事機密だ。
ハティは何故かその楽譜が収められている書架の場所を知っており、さらには鍵がどこに保管されてるかも把握していた。だけど一人ではおいそれとカギを手に入れることはできないし、楽譜を探そうにも、見張ってくれる人でもいない限り大量にある楽譜集の中から目的のものを手に入れ、さらに写しをとる何て事は到底できなかった。
一人だったら。
今俺たちは三人おり、そして楽譜の写しは俺の手にある。
ハティは差し出した楽譜を奪い取るように取る。そして馬の背中にある蓋を開ける。中の共鳴機に触れ、静かに音を鳴らしはずめる。
「上手いもんだな」
「ねー、流石というかなんというか」
落ちこぼれの俺が聞いても分かるほどにハティの精神降下は正確で、きれいだった。よく練られた楽譜と腕のいい新銘術師の精神降下は、金とって聞かせてもいいくらい耳に染みる。少なくとも、今自分たちがやっている事は軍法会議にかけられる、という不安を多少かき消すくらいにはきれいな響きだ。
「今更だけど、ヘルンは白狼ちゃんに会ってどうしたいの?」
ハティは一体目の精神降下を終え隣に移動する。ハティが離れた直後、モックアップは四本脚で立ち上がり体を震わせた。
ヴァンを見ると目があった。細めた瞼の端で俺を見る黒目は、面白がっているようでもあり、どこか心配しているようにも見えた。
「一発蹴り入れる」
「それだけ?」
「あとは、」
あとは? と俺の口調を真似てヴァンは繰り返す。俺は何か言おうとして口を開けっ放しにするが、結局なんの言葉も出てこない。知らず知らずに胸の位置まで上げていた手を、下ろすことも上げることもせず、ただ拳を柔らかく丸める。
「あとは、まぁ、射撃のコツでも聞いてやってもいい」
「お、中々勉強熱心」
「お前ほど上手くないからな」
「いやいや、それほどでもないよ。僕なんてほら、他に取り柄なんて無いし」
どこの兵学校でもそうであるように、兵士としての基礎訓練はどの専門教育でも行われる。俺たちがルオキャンプで受けた射撃のテストで、ヴァンは今期生の中でトップの成績を収めていた。親譲りの性格か、柔らかい喋りは癖の強い同期生にも教官にも受けは良いように見え、まだルオキャンプも始まったばかりだというのに既に自分の立ち位置を確立している。
二体目が立ち上がる。俺はようやく下ろした拳をポケットの中に入れる。夕方の空は移り変わりが早く、空は夜の藍色に染まって太陽の名残が西の空に滲むだけになった。一体目と全く同じように立ち上がった二体目を見た、改めてうまいな、と思う。同じ動作をしたということは、全く同じように精神降下が行われたということだ。
「ヘルン?」
と問い直したヴァンの声が右から左に通り抜ける。俺の頭には白狼の後ろ姿が、撃ち抜かれた的と脚を払われてぐるりと回った視界、それに赤緑動乱の時に馬車から見た難民と親父の横顔が車窓の景色のように駆け巡った。
「ーーたまにお前が羨ましくなるよ」
「え?」
おーい、とハティの声。見ると三体のモックアップが寸分変わらない姿勢で起き上がっていた。
「さて、散歩に行くか」
と俺は先を歩く。「そうだね」とヴァンの声が後ろから聞こえた。少しだけ細くなった声が空に消え入る。