3.飼い主に似てるんだね
初心者は折り紙から始める。
シンキア人なら誰だって犬を折れるし、どこにどういう紋を刻めば良いかも知っている。四本の脚と、その付け根にあたる胴体部分。手先が器用なやつなら尻尾も折る。紋は鉛筆で書き込むが、重要なのは線そのものではなく、線を描くことで出来た溝の方だ。そこに手を触れ、楽譜通りに喉を震わし精神降下を行う。うまく行けば折り紙の犬は本物の犬のように机の上を走り回る。うまく行かなければタダの紙切れのまま。
いま自分たちが生きている物質世界とは別に、生き物たちの集合意識が存在する精神世界が存在しているとわかったのは今から二千年以上も昔、と『新銘術の歩み』に書いてあった。国や神話によっては死後の世界とも表現されるそこは、あらゆる生物の設計図とも言える精神が内包されている場所で、人でも犬でも魚でもその行動原理は精神世界からの授かりものなんだと。
つまり犬と猫で尻尾の振り方が違うのも、魚と鮫で泳ぎ方が違うのも、人が泣いたり笑ったりするのはこの精神という生き方の設計図にそう書かれているから、らしい。
生き物は生まれるときに、その精神を宿して生まれる。そして死後、その精神は再び精神世界へと戻り、少しずつ進化しながら次の命に繋げていく。
神様も随分ややこしいことをする。
そこで昔の賢い人たちは考えた。
『動物の形』をしたものに『動物の精神』とやらを込められたら、その『動物の形』は『動物』として振る舞うのではないか。
数多くの知識人が研究のバトンをつなぎ続けた結果、生き物にはそれぞれ精神ごとに固有の振動があることが分かってきた。精神という生き方の設計図は振動になって生き物を動かしているという。
普通の生き物はその振動を心臓の鼓動や血液の脈動で保っている。血の流れは全身に栄養を運ぶ役割と共に、脚を脚として、手を手として動かすための振動を伝える使命も帯びている、という事になる。
逆に言ったら精神世界という摩訶不思議なふんわり空間から精神を持ってこなくとも、その精神固有の振動を物体に伝えられたら、『動物の形』は『動物』として動き出すことになる。
そういう『精神』を擬似的に移す技を、俺達は精神降下と呼んでいる。
当然、折り紙に血は無いから、代わりに紋を刻む。紋はそれぞれ体の各部位を表しており、その動物としての振動を与えると生き物のように振る舞い始める。動物ごとの精神は偉大な先人たちにより楽譜化されており、ちょっと大きい本屋や図書館に行けば一般的な動物の楽譜集は売っている。
折り紙を卒業すると木や鉄で作ったモックアップにレベルアップするがこっちは少し構造が複雑で、内部に共鳴機と呼ばれる振動を伝える装置が入っている。折り紙への精神降下は長くて数分程度しか持たないが、共鳴機は数時間、種類によっては数日もの間振動を続けてモックアップに命を吹き込むことになる。
新銘術師としての技量はつまりどれだけ楽譜の知識があるか、いかに正確に喉を震わせられるかに絞られる。モックアップの作成は基本的に造型師の分野で、新銘術師の仕事はプロの用意した『動物の形』をどれだけ上手く動かせるかというそれだ。楽譜も組み合わせ次第でアレンジができるらしく、中には羽ばたいて噛み付く空飛ぶ犬なんてのも生み出せるらしい、
が、
普通の奴らはそもそも動かすことも出来ない。動いたとしてもありえない箇所が動いて体が真っ二つに引き裂かれる、ということも珍しくない。どうも精神降下ができるかどうかは声質や音感が関係しているらしく、つまり生まれながらの性質による所が多い。シンキアで新銘術が発展した背景には、北国であり標高が高いというお国柄により新銘術師の素質を持った人が生まれやすい、という研究があるが、具体的にどんな要因が絡んでいるかは未だにわかっていない。
そしてルオキャンプには、コラブ教官の言うとおり上手に玩具を動かすことの出来た精鋭ちびっこが集まっている。僕たち私たちの使命はお勉強に励み、一日でも早くお国のため尽くせるようになることである。
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「やる気あるの?」
あるわけねぇだろ。
とは流石に言えない。言えないから黙る。黙るから変わってにらみつける。だけど教官はこれっぽっちも怯んだ様子もなく、机の上に置かれた猫のモックアップの共鳴機に触れーー正確に言えば背中の蓋を開いて厚みコンマ数ミリの銅板を組み合わせた蜘蛛の巣に人差し指の先端をそっと添わせーー喉を震わせる。
それだけであら不思議、今の今まで木の置物でしかなかった猫の耳はぴくんと跳ね、机の上を活発に飛び回る。教官は猫の腹を掴みあげる。ジタバタする猫の傍ら、モックアップよりずっと無表情な教官は机の上に広げた楽譜を指差して、
「お前全体的にトーンが高いんだよ、特にCの5小節目なんか音が一音も外れてる、ここも、ここも」
次々指差しでダメ出しされる事が鬱陶しくふと視線をそむけるといつもどおり微笑を浮かべたヴァンと目があって、一層目を細められた。煽られているように思えて尚の事苛つきが積もる。
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ルオキャンプに来て気づいたこと。
自分の才能のなさ。
自信満々で来たわけではないけれど、それでも多少は選抜されたことに対して優越感のようなものはあった。それもここに来て一週間できれいさっぱりと剥がれ落ち、あれだけ嫌だと思っていた実家を多少なりとも懐かしく思っている自分が心底肉たらしかった。
折り紙からワンランクアップレベルアップしたモックアップに、俺は目下大苦戦中。同期の面々が次々に精神降下を成功させる中、俺はピクリとも動かない木の猫をあやすようにひたすら喉を鳴らし続けていた。
全く動かないわけではない。何度かはしっぽを揺らし、前足を震わせた。だけどそれも束の間、またすぐに眠りに入ったように置物に戻ってしまう。
「飼い主に似てるんだねきっと」
ヴァンが隣から覗き込んでそう言った。
黙れ、と思った。
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その日は朝からひどく気だるかった。
ヴァンとは同室で、一日中見ることになった人畜無害な微笑も、今となっては飽きるのを通り越して、もはや壁や天井と同じ目を向けたらそこにあるものという存在になっていた。
起床ラッパの音で目が覚め、歯を磨き顔を洗い、食堂で朝食を食べるまではいつもと同じ朝だった。学生も本職の軍人も入り交じる中、目の前のヴァンはなんの嫌がらせか、朝っぱらから親父譲りの政治談義をしている。ピクルスの酸味でこみ上げる眠気を誤魔化しながら、頬杖ついて外を見る。
いい天気だった。
抜けるような青空の中、遠くから小さく銃声が聞こえてくる。
周りを見ても誰も気にしていない。きっと真面目な誰かの射撃練習なんだろう、朝の決まった時間に、おそらく決まった数だけ打ち続けるその音は、ここに来たその時から聞こえていた。誰かが話題にするわけでもないその銃声が、なぜだか俺はずっと心の端に引っかかり続けていた。
「……ヴァン」
「ん?」
大陸諸国の複雑な政治バランスを語っていたヴァンに、
「俺、今日休むわ」
「なに体調不良? 親族の不幸?」
「朝起きたら再起不能なまでに寝違えてましたって言っといてくれ」
俺は食事が乗っていたプレートを持って立ち上がる。後ろから「お大事にねー」と間延びしたヴァンの声が聞こえた。