0−3.長い話になるぞ
プロローグラスト
「あの、」
先に階段を登るユヴァに話しかける。ユヴァは階段の踊り場で立ち止まり、「はい?」と振り返った。天窓からの陽が降り注い、光の梯子がユヴァに向かって降りているように見えた。
「ずっと、シンキアの育ち、ですか?」
「私? そうよ、生まれも育ちも。あの人と結婚するまでは、この国から出たこともなかった。最も、昔はこれでもお芝居してたから、巡業でシンキア中は回ったんだけど」
「お母さんも、そう?」
「そう、と言うと?」
「ユヴァ……さんの、お母さんもまた、シンキアで生まれ育ったのか、っていう。つまり、シンキアから出て暮らしていたり、晩年は行方知らずになっていたりとかは」
ユヴァは心の底から愉快そうに笑って「まさかそんな」と答えた。
「母はそれこそ故郷からめったに出ない人だったわ。随分前に亡くなってしまったけど、ボケてフラフラすることもなかったし。でもどうして?」
「いえ、別に」
ユヴァはそれ以上何も聞かずに階段を登っていく。バスの中からどことなく感じていたひいばあちゃんに似た雰囲気は、目と髪の色、それに異国情緒が見せた幻だったらしい。私は小さくため息一つ付き、その後ろ姿をついていく。
階段を昇りきったら一直線に廊下が伸びていた。一面に窓、もう一面に部屋が並んでいる。ユヴァは階段に一番近い部屋を指差して、
「ここがお客様の部屋。不都合がなければここにお泊まりいただくわ。でもホテルに泊まりたい時はいつでも言ってね」
「タダ宿に文句は言いません」
「ただでも嫌な事ってあるでしょ? 嫌なクライアントとの仕事が終わったというのに、帰る先がすぐ隣だなんて耐えきれないかも」
否定し難い事実だった。大学でシンキア語を専攻していた関係で、多少なりこの国の歴史については学んでいる。それはつまり大陸戦争後のシンキアが歩んだ数十年、様々な大国の間で独立を維持し続けた卓越した手腕の大統領の履歴書でもあった。近所の常連しか相手にしないしなびた床屋のおっちゃんなんかより、打ち解けるのはきっと大変だろう。
「緊張してきた?」
「ーー教科書の人物に会うのですから、多少は」
「良いのよ強がらなくて。実際気難しい人だもの。敵も多いし、面の皮は厚いし、一人じゃ家事も出来ないし。笑っちゃうわよ、国の地政学リスクを知り尽くしている人が、家じゃどこに砂糖をしまっているかも知らないのよ。でも、ーー何の慰めにもならないかもしれないけれど、悪い人じゃないの。まぁゆっくりじっくりと、付き合ってあげて」
前を歩くユヴァは一番奥の部屋で立ち止まる。ノックをする素振りも見せず、ドアノブへと手を伸ばすその直前に、
「その、なんで私なんでしょうか?」
振り向いたユヴァの笑みは、これまでの親しみを感じる笑みとはまるで違ったものに思えた。笑顔、という形を取っているけれど、その裏に見え隠れする感情は決して喜び一辺倒のものでは無く、シワ一本一本に刻まれた感情の深さは千年前の名画の微小のように計り知れない。
「自分の半生を記したいのなら、私より適任はいくらでもいると思います。なぜ他国の、しがない小説家である私なのでしょう」
そうねぇ、と他人事そのものの口調でユヴァは呟く。
「私にも思うことはあるけれど、それはきっと本人に訊ねたほうが良いわ」
そして扉に向かい、
「そうでしょ、あなた」
ドアの奥から、地を這うような低い声が聞こえた。
「陰口はもっと聞こえないところでやれ。最初から丸聞こえだ」
ふん、と鼻を鳴らす音までしっかり耳に入る。ユヴァは「あらあらそれは失礼」と悪びれもなく言い、私の気も知らず扉を開けた。
:::
日の明るさに目を細める。ベランダへと続くガラス戸からのくらむような光の中、その男は茶色の椅子に深く腰掛け、外の景色を見つめていた。短く刈り込んだ白髪が白く反射している。「ほら、お客様よ」と言いながら中へ入っていくユヴァの足元をくぐって、一匹の猫が私に駆け寄ってくる。
「ーー?」
黒猫、に見えたそれは正確に言えば猫ではなかった。猫と同じ姿形、関節を持つそれは無機質な物体だった。足元にまとわりつくそいつの頭に手を這わせると触感は木のようで、持ち上げて感じるズッシリとした重さもまさに木製だ。黒猫に見えたのは、古い木材なのか体中がくすんで黒っぽくなっているせいだ。抱きかかえ、近づけて見ると細かいところは結構違っていて、しっぽは蛇の玩具のように丸いパーツを鉄のリングで組み合わせているし、胴体は継ぎ目がなく猫本来の滑らかさとは程遠い。顔はのっぺらぼうで目も口もなく、だけど頭には何が入っているのかネジ留めされた蓋のようなものが見える。
「あら珍しい、キトが懐くなんて」
ユヴァの言葉に目を向けると、こちらを見るヘルン・エスポと目があった。
ほんの一瞬、息が止まる。
これが、あの。
写真よりずいぶんと老いている。革張りのチェアに、深く腰掛けてこちらを見ている。視線をくすぐったさや居心地の悪さ以前に、『痛い』と感じるのは初めてだ。
「これは?」
強がりでヘルンに訊ねたつもりだったが、答えたのはユヴァだった。
「昔はどの家庭にも一匹はいたんだけど、最近は珍しいわよね。モックアップって言うんだけど、ようは新銘術で動く動物よ。猫なんかはネズミ捕りとかペット、そんなので使われていたんだけど、大きいのだと牛とか、ねぇ。昔はどの家も農業で食べてたから、鋤を引かせて畑を耕したり、荷車つけて荷物運ばせたりとか、まぁそれぞれで色々仕事してもらってたのよ。ほら、あなたのとこなんかどうせ馬とかいたんでしょ? えっらそうな家紋つけた」
ヘルンは吐息ともつかない調子で「あぁ」とつぶやいた。
「いたな。先祖代々のが。家出の時に乗っていったら途中で脚が折れて、連れ戻された時に親父に散々どつき回された」
ヘルンは立ち上がり、私に向かって歩いてくる。シャツやズボンから覗く手足は細くはあっても決して骨と皮だけのものではなく、昔についたであろう筋肉が化石のように固まってその体を形成しているように思えた。真ん前に立たれたら頭二つ分ほどの身長差があって、その顔の厳つさもあって気圧されてしまう。光を背中に浴びて一層大きく見えた体は、私からは影に沈んで見える。
ヘルンは、キト、と呼ばれた木製の猫を私の手から取り上げる。しっぽと足をバタつかせていたキトは、ヘルンの腕の中でただの置物のように大人しくなった。
「自己紹介が、必要か?」
後ろでユヴァが「あなた、言い方」と咎める。私はつばを飲み、その鋭い眼光を精一杯跳ね返す。目をそらした、負けな気がした。
「それが礼儀だと、思いますが」
ほんの一瞬の間があって、
「そうだな、そのとおりだ」
かすかに笑った気がしたけど、単なる表情筋の痙攣かもしれない。それくらい、感情が見えない顔だった。
ヘルンはキトを床に置き、お腹に手を当て、分度器を当てたような正確さで頭を斜めに下げる。
「ヘルン・エスポと申します。この度は突然の依頼にご足労いただき、幸甚の至でございます。大したもてなしは出来ませんが、不都合があれば何なりとお申し付けを」
突然見せられた元大統領のツムジばかり見ていられず、私はこれまでの人生で一番深く頭を下げ、「ローラ・アビーです」
とだけ答える。ヘルンの足元で、目のないキトが、じっとこちらに顔を向けていた。
「ーーで、仕事は引き受けて貰えると言うことで良いのか?」
顔を上げると、ヘルンは背を向けて自分の椅子に戻っていった。ヘルンが座る机の隣には新しい色味の机が置かれており、ユヴァはそれの椅子を引いて「こちらへお座りになって」と言っている。
「ーー仕事を引き受ける前に、さっきの質問にお応えいただきたいです」
「なんで私なのか、というヤツか?」
「えぇ」
ヘルンは引き出しから数冊の本を取り出す。全体がクタクタになったその内の一冊を私に見せる。それは、私が初めて出した本だった。シンキア語訳でも出たはずだが、エイリックで出た原本だ。
「悪くなかった。粗削りだが、才能を感じる。特に情景描写に優れる。見たものを見たままに書いているが、そこにある情緒も内包されている」
「ありふれた才能だと、思いますが」
「俺はそう思わんかった。少なくても、自分の半生を任せてもいいと思えるほど」
ヘルンは私の本を机に置き「以上だ」と言った。そして膝の上にどうにもそれで私への応えを終えたらしい。おだてるにしても嘘を付くにしても、ひどく中途半端だと思った。いつになっても現れ無いコメディアンが憎たらしい。いっそこのまま空港に戻ってやろうか、と思った時、私の足にキトが体を擦り寄せる。木の冷たさをもったその猫は、私の脚の間を八の字を描いて回っている。
「わかりました」
私はキトを蹴飛ばさないように歩き、机に荷物を置く。テープレコーダーと何十本ものカセット。新品のノートに鉛筆と消しゴム。それに、ひいばあちゃんの蝶が挟まった小説。必要なものを置いたら椅子にどかっと座り込み、脚を組む。
「では、早速やりましょう」
「別に明日からでも良い。長旅を終えたばかりのやつに仕事をさせるつもりはない」
「私は、仕事をやりに来たんです。歓迎を受けたくて来たわけではありません」
今更ながらに興味が出てきた。ひいばあちゃんの新銘術と娘は大統領と結婚した、という盲言。目の前の大統領と物言わぬ木の猫。私の後ろでユヴァが相変わらず楽しそうにクスクス笑っている。ヘルンはいかつい顔の口元を、ほんのかすかに歪めた。私もお返しに笑ってやろうと思ったが、うまく出来なかった。窓の外ではけったいな格好をした集団が通りかかり、眼下の黒服は微動だにせず門を守り、日はまだ高く、記憶の中で飛べない厚紙の蝶々が羽をゆったり動かしている。
「いいのか?」
とヘルンは訊ねる。ユヴァは「飲み物が必要ね」と言い、部屋を出ていった。遠ざかる足音を聞きながら、
「長い話になるぞ」
「望むところです」
私はテープレコーダの録音ボタンを押した。