8.気をつけた方が良いよ
シィ、と言っていたか。
次の朝、目が覚めた時、俺はふとそんな事を思い出した。
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全身クタクタのまま帰った部屋でのんびり待っていたヴァンも、次の日講義室で片手上げて挨拶したハティも、これっぽっちだって悪びれちゃいなかった。むしろ、あの後ーー熊に追われた俺が駆け出した後に何があったか、とか、白狼とどんな事を喋った、とか、そんな事ばかりを聞いてきた。何だコイツラは、とは思ったが不思議と怒る気にはなれなかった。朝起きてからというもの、頭の片隅で白狼の微かな笑顔がちらついていた。
俺は聞かれるがままに昨日の夜の事を話した。嘘はつかなかったが話さなかったことはいくつかあった。シィという名前で森林保護官だと言っていた事とか、泳ぐ弾丸で熊を追い払った事とか、コラブとどこか親しそうに話していた事とか。それに、お茶よりもコーヒーが好きな事も。昨日の夜は森の中で熊と出会い、白狼とその飼い狼に助けられて一人で帰った、それで終わっていた。
「しっかし白狼ちゃん、えらい美人だったね」
ハティは頬杖ついてそう言った。講義が始まる前の朝の一時。窓の向こうには平原が広がり、その先により濃い緑の森が見える。昨日の夜、あそこにいたことが嘘みたいに思えた。
「ホントだねぇ」
他人事のようにヴァンは言う。そしていつもと変わらない微笑みを浮かべながら、
「また今度遊びに行く?」
「懲りろ。今度こそ食われるぞ」
「大丈夫だよ。またヘルンと白狼に助けてもらうから」
「もう逃げ回るのはごめんだって」
「立ち向かって貰っても全然問題ないんだけど」
ジトッとした目で睨むとヴァンは「ごめんごめん」と楽しそうに言った。
「でも冗談抜きで、またお会いしてみたいね」
ヘルンを見ながらヴァンは言った。ヘルンはそっぽを向き、ハティはうんうんとうなずきながら、
「きっと良い友達になれるよ」
と言った。
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ルオストの基地には三階建ての図書棟がある。講義室などの教育機関が入っている研究棟郡と、兵士たちが実務をこなす一連の兵科棟郡の間に建てられているその建物は、ぱっと見異様な雰囲気を放っている。耐熱レンガの赤白さは浮いているように見えるし、中洲のようにぽつんと立っている立地もどこか場違い感がある。それに基地内だというのに四六時中番兵が入り口の前に立っているの物々しい。
基地的にど真ん中にある立地のため、図書棟回りに人の往来はそこそこある。だが中にはあまり人気はない。そもそも保管されている本は学術書ばかりだし、入るにしたって一々番兵に身分証を示さないといけない。来るのはほとんど研究棟に勤める人間ばかりで、そいつらも目的の本を借りたらさっさと出ていってしまう。
ルオキャンプの生徒、という身分でも利用はできる。だけどそれを誰かから説明されるわけでもないし、きちんとした説明があっても来る奴はほぼいないだろう。読書家、というような奴は少数だし、静かにしなければいけないという空気を好むやつはほぼ皆無だ。そんな従順な奴はそもそもルオキャンプ送りにはならない。飲食物を持ち込んだら怒鳴られるし、昼寝してたら叩き起こされるし。
少なくとも俺以外にここに来るやつは見たことがなかった。
カウンターでは軍服を着た事務員の男がなにか書き物をしている。歴史、文化系の本が納められているこの部屋は特に人気がないのか、俺以外には誰もいなかった。
俺は『民族』の棚から本を抜き出してテーブルに座る。タイトルは『シンキアにおける神話と民間伝承』。出版はエイリックのロックウェル大学出版。読みかけのページを開く。昨日からちょうどルオストの章に入っていて、ここらへんに伝わるという空想動物の説明が書かれている。
どれくらい経っただろうか。
ふと、床を靴の底で擦りながら歩くような足音が聞こえた。世間一般の変なやつは妙な歩き方をするやつが多い。ルオキャンプに限って言えばそんな奴ばかりだ。生徒もそうだが、研究者もそうだと思う。つまりここではそんな変わったことではなく、俺は構わずにページをめくった。
足音はどんどん近づいてくる。そして乱暴にドアが開けられ、俺も思わずそっちに目を向けた。座る俺とほとんど顔の位置が変わらない、子供にも見える女がいた。
知っている顔だった。
こちらを見ていた。
俺は本に目を落とした。
女はこちらへと近づいてくる。床を擦る足音、視界の端に肩まで伸びたボサボサの髪の毛が映る。着崩した軍服の下には襟元が伸びたティシャツ。そいつは俺の前に座ると、俺が読んでいる本を無理やり上げてタイトルをじっと睨みつけた。
「なにこれ? なにが面白いの?」
甲高い声。子供の口調にそのままふてぶてしさだけが加わっている。初めて言葉を交わすというのに随分フランクすぎる物言いだった。
返事する気も失せ、俺は無視したまま本に視線を戻す。そいつは頬杖をついて貧乏ゆすりを始めた。
「ねぇ、私のこと知ってる? 知ってるでしょ、こんな難しい本読んでるんだから、ねぇ」
俺はページをめくりながら、
「キュラ・スヴァーユ」
キュラが、にっ、と白い歯を見せつけて笑うのが分かった。
「正解! 数少ないルオキャンプの同期生だもの、そりゃ当然覚えてるわよね」
同期生全員を覚えている訳ではないがキュラは別だ。一六、一七くらいのやつが大半の中に精々十二くらいにしか見えないガキがいたらそりゃ目立つ。黙って座っていれば、まぁ良家の子女と言われても不思議ではない、可愛げのある顔をしている。だけどだらしない服装と雑草のように放置された髪を見れば、話さずとも色々察しがつくものはある。
「ねぇ、いつも昼休みここに来てるの? 一人で? 友達いないの?」
なおも無視していると「ねぇ聞いてる? ねぇ、ちょっと、馬鹿じゃないんだからさ、ちょっと、ねぇ」と身を乗り出し、更には本を押さえつけ尚も語りかけてくる。俺は盛大にため息一つ、キュラに向きなおり、
「ここは落ち着くんだよ。教室みたいに、甲高い声でキーキー喚くやつもいなかったから」
「へー、暗っ。私知ってるよ、ヘルンって政治家の息子なんでしょ? 大丈夫なん? それ。家、継げないじゃん」
皮肉を込めたつもりなのにキュラは一つも堪えた様子もない。上半身をテーブルの上に乗せて乗り出し、椅子に乗せた脚はバタバタせわしなく動かしている。
「お前には関係ないだろ」
「いやないっちゃないんだけどさぁ。まぁ、うん、確かに」
俺は本を閉じ「それで」と切り出す。
「なんなんだ? 俺に、一体何の用だ」
「そう! そこよそれ、まさに」
キュラが更に顔を近づける。まんまるの目の中に、反転した俺の顔が見えた。俺はキュラの額を押し返し、体を椅子にまで戻す。
「白狼に会ったんでしょ? 昨日の夜」
一瞬思考が止まる。なんでその事を、と言い出す直前、朝の会話を思い出す。
「盗み聞きしてたのか」
「聞こえたんだし、誰かさんたちがふつーに喋ってるから」
キュラは椅子を前脚を浮かして船を漕ぎ始める。両手で机を持ち、ゆらゆら体を揺らしながら、
「知ってる? あいつ、セルプのスパイだよ」
は?
思わず腹から声が出た。
「白狼って森に住んでるんでしょ? 変な新銘術使うでしょ? あとコラブともやたら仲良くない?」
思わず黙り込んでしまい、それがそのまま肯定になってしまった。俺の顔を見て浮かべた、キュラの得意げな笑顔がやたらと腹が立つ。
俺は小さく咳払いをし、
「なんでお前がそんな事知ってるんだ?」
「えー、内緒」
「そもそもそれと、セルプのスパイってのは関係ないだろ」
「あるよ! だって怪しいやつはたいていスパイだって、本にも書いてあったし」
「本?」
「怪傑スピカ。読んだこと無いの?」
あるわけ無いだろ。首都で流行っている絵本じゃないか。
「つまり、スパイってのは決めつけってことか」
「私の勘によれば確実よ」
「それを決めつけっていうんだよ」
「そんな言うならヘルンが証拠見つけてきてよ」
「なんでそういう話になるんだよ」
「それでさ、ちょっと森から引きずり出してきて。それとついでに、『キュラ・スヴァーユがお前を待っている。正々堂々、ズルッこなしに勝負しろ』って伝えてきて。分かった?」
俺が反論する前にキュラは脚で椅子を蹴って立ち上がる。
「いい? 分かった? ちゃんと銃を持たせて、私の前につれてきなさいよね。キュラ・スヴァーユって言えばわかるから。絶対、絶対わかるから」
「おい待て」
俺の言葉も聞かず、キュラは猫のように走りながら部屋を出ていく。と、直後にまた戻ってきて、俺の前に立ち、
「後さ」
一際トーンを抑え語りだす。
「コラブはマジで怪しいから、気をつけた方が良いよ」
「それもお前の勘か?」
キュラは肩を竦め、
「過去の経験、ってかんじ。ーーんじゃ、よろしくね!」
そう言うと部屋を駆け出していった。カウンターの男がようやく出ていったと言うような顔をして開けっ放しのドアを見つめている。キュラの擦れる足音が段々と遠のいて、消えていった。