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7.他の人には秘密ですよ

 闇の中を走っている。夜に沈んだ世界を猛烈な速さで駆け抜けている。どうやって木々を避けているか検討もつかない。通り過ぎた瞬間に自分が身をぶつけたかもしれない木の存在を知る、そんな時間がもう何時間も何日も続いているように思えた。ふとした瞬間、心を支配していた本能的な恐怖が遠ざかっていることに気づき、逆に、どこともしれない森の中を走っている事への不安が大きくなる。

 俺はモックアップの首に抱きついていた腕を剥がし、たれた手綱をぐっと引き寄せた。途端、歯車に棒を突っ込んだようにモックアップは急停止する。前のめりになり、殺しきれなかった慣性のままに俺は前に投げ出された。空中で体がぐるりと回り背中から木に激突する。


「ーーっ!」


 痛みは熱になって背中から体中を駆け巡る。声も出せず、木の根を滑るように地面に転げる。空に枝を伸ばす木々の隙間から星の光が見えた。今日は災難だ、と俺はとことん思う。朝も夜も痛めつけられてろくに呼吸も出来ない。馬を止めて木にぶつかる人間も俺くらいではないか。

 顔を横に向けるとモックアップが微動だにせず直立していた。楽譜に書かれた通り、持ち主の命令を待機している。

 あれは何だったのだろうか、と疑問が湧き上がる。

 熊がこちらに遅いかかろうとした瞬間、俺は何も出来なかった。なのにモックアップは一目散に逃げ出した。無意識に手綱を操作した可能性も無くはないが、それにしてもあれだけデタラメに走って木にぶつからなかったのも不思議だ。いくら軍馬として優れたチューニングが施されていても、森の中を勝手に避けながら走るモックアップなど、聞いたことがない。

 まるで、生きているようだった。


 木々が擦れる音が聞こえた。


 はっ、とその方向へ目を向ける。モックアップは俺が投げ出した体勢のままだ。その音は確実に俺の方に近づいている。無理やり体を起こそうとするが、背中の痛みがヒドくて動こうとすると鋭い痛みが走る。畜生、と胸のうちで悪態をつく。逃げたはずの恐怖がケツから痺れるように湧き上がってくる。

 草むらから影が飛び出す。

 狼だった。

 微かな星の光に照らされたそいつは灰色と黒の毛に覆われていた。真上に尖った耳、突き出た鼻と口。そいつは俺の姿を捉えると体勢を低くして立ち止まり、舌を出しながら荒い息を繰り返す。こちらを見据える目よりも更に鋭い牙が見えた。


 食われる。


 そう思った。直後、狼が現れた草むらをかき分け、更にもう一体出てくる。いや、もう一人、だった。そいつはボルトアクション式のライフルを構えながら現れ、地面に寝ている俺を見るとそれを下ろして負い紐を肩に通し、すぐ目の前にしゃがみこんだ。狼もまたそいつの隣でお座りをする。


「ーー何してるんですか」


 呆れ気味の口調で、白狼はそういった。朝見たときと同じ、長ズボンとボタンがたくさん着いたベスト、髪は丸くまとめている。


「朝の仕返しに来たんだよ」


 苦し紛れに言った言葉は切れ切れにしかならなかった。白狼は俺の体を起こして木に寄りかからせる。


「立てますか?」


 無言のまま立ち上がろうとするが、やはり背中の痛みがヒドくて無理だった。折れてる程の激痛ではないが、まだ痛みが引くまで時間がかかるだろう。


「あなたがヘルン・エスポさんですね」


 思いがけず出てきた名前に俺は驚く。

 白狼は続けて、


「ハティ・ライさんとヴァン・タンペさんは先に森を出てもらってます」


「なんで名前を知ってるんだ? もしかしてお前ら、俺をはめてたのか?」

「はめる? 私はついさっき森の中で会っただけです。ルゴが熊を追い払ってあなたが駆けだした後、早くここから逃げるように伝えたんです」


 そう言って狼の顎を撫でる。ルゴ、というのがこいつの名前らしい。


「伝言を預かったので、皆さんの名前はその時に聞きました」

「伝言?」

「『先帰ってるね』と」


 ルゴの荒い息遣いが沈黙を埋める。


「分かった。とりあえず、変な疑いをかけてすまなかった」

「いえ」

「それで、あの熊は何なんだ?」

「ルオストの森に生息するルオホラアナオオヒグマです。成体の体長は二メートルから二.五メートルほど。雑食で基本的に木の実や山菜を食べますが、あの子はお肉のほうが好みみたいです。前に鹿を食べるところを見たことがあります」


 自然と顔がひきつる。白狼は大きな目で俺をじっと見つめ、


「大丈夫です、人を食べる所は見たこと無いので」


 ひと呼吸遅れて「まだ」と付け加える。


「で、お前は何をやってるんだ」

「あの子は好奇心が強くてたまに森から出ようとします。ルオホラアナオオヒグマはシンキアの保護動物に指定されていますが、人に危害を加えようとする場合は容赦なく撃たれます」

「熊を森から出さないようにしてるのか?」

「それが私の仕事でもありますので」

「仕事?」

「森林保護官としての、仕事です」


 冗談を言っているようには見えなかった。

 森林保護官という見せかけだけの役人が置かれていたのは、まだセルプ連邦がセシア帝国という名前で君主政治を行っていた時代の話だ。セシア帝国の強い影響に置かれていた時代のシンキアが、国境線の監視のために置いたのがルオスト国立公園であり、それを管理するという名目で配置されていた国境監視員が森林保護官だ。セシア帝国が解体されセルプ連邦となった時、すべて軍に成り代わったはずだ。


「ちょっと待て、お前はつまりこの森の中で正真正銘、本物の保護官をやっているということか? それは趣味とかではなくて、仕事として。軍の人間、か? それとも、役所の管轄なのか。いや、そもそも年だって俺とそう変わらないだろう。なのに保護官って」


 右手で額を抑えながら思いつくままに疑問を並べる。と、その時ルゴが立ち上がり、どこか宙の一点を見つめる。白狼もルゴと同じ方向を見て、ライフルを両手で構えボルトハンドルを往復させた。


「お話は後にしましょう」


 俺は雰囲気に飲まれて息を飲む。ルゴが闇を睨みつけて喉を鳴らし、白狼は立ち上がって二歩、三歩と近づく。星明りの下で張り詰めた空気を纏う白狼は中々絵になっていて、身に迫った危険を一瞬だけでも忘れてしまった。こんなことを考えられる程度に、俺は白狼の存在を頼もしく思っているらしい。


「熊が来たのか?」

「分かりません。ーールゴ、伏せ」


 そういった途端、ルゴは俺を押し倒す。「おい、ちょ……」と反論するまもなく、不格好のまま、俺の上にルゴが多かぶさった。


「どういう事だこれ」

「熊は鼻がききます。動けないあなたを見つけたらきっと食べてしまうでしょう。人の味を覚えたらもう森には戻れません」

「俺を助けるためにこうしている、という解釈でいいんだな」

「結果的には」


 先程まで聞こえなかった何かが走ってくる振動が、地面ごしに伝わってくる。


「何をするんだ」

「驚かせます。この先が危険だと分かれば、あの子も森の奥へ帰ってくれます」

「驚かせるって、ライフルで怯む相手か」


 白狼は直立不動のモックアップに触れる。その途端、足を折りたたんでその場に座り込んだ。どうやったかはわからないが、モックアップに座るよう命令を下したらしい。白狼ちらりとこちらを見やり、ほんの微かに、笑った。唇を少しだけ持ち上げ、切れ長の瞳をごく柔らかく緩めた。可笑しいというより、どこか自慢げな笑みに見えた。


「他の人には秘密ですよ」


 振動は激しさを増す。鳥が夜空へ逃げ込み、静かな森をかき分ける乱暴な存在は草木の揺れとして徐々に近づいてくる。白狼はライフルを構え、音の根源に向けてその銃口を向ける。そして引き金に手をかけたその時、歌うのが聞こえた。

 歌には言葉もリズムもなかった。雨の音のように微かな響きの集合体、それが白狼の喉から発せられている。精神降下だ、と思った直後、何に対して? と自問する。彼女の手はただライフルだけに触れている。偽物の命を宿す作り物は、どこにも見当たらなかった。


 白狼が引き金を引いた。


 銃声。

 銃口が火を吹く。暗闇の中で赤い光がぱっと灯り、吐き出された弾丸が夜を駆け抜けていくのが確かに見えた。弾丸は白く燃え、信じられない事に自分から木を避けながら闇を突き進んでいる。網膜に弾の軌跡が蛇行を描く白線として焼き付く。そして一瞬の後、森の奥で爆発した。その瞬間にすぐ近くまで迫っていた熊の巨体があらわになる。熊が動きを止め、その場で立ちすくむ姿だ。

 俺の理解を置いてけぼりにしながら、白狼は二発、三発とたたみこむ。すべての弾丸は自分の意思を持っているように森の中を飛び、熊の元で光を散りばめながら弾けていく。弾丸から遠ざかるように逃げていくクマの姿が照らされる。


 白狼が構えを解く。 

 ルゴがのそりと俺の上から降りた。

 俺は呆然と、


「今のは、どういう事だ?」

「曳光弾のことですか? 夜に動物を追い払う時に使っています」

「違う! そうじゃなくて、弾が魚みたいに動き回ってーー」

「言ったでしょう、秘密と」


 俺はなおもくい下がろうとした時、


「おい」


 遠くから声が聞こえた。同時にランプを掲げているようなぼんやりとした明かりが近づいているのに気がつく。


「あ」


 と白狼がつぶやき、そして初めて狼狽するような顔をした。そして唇に人差し指を当て、


「静かにしといたほうがいいですよ」


 そして白狼は光の方へと走っていく。後ろをついていくルゴが、俺が言いつけを守っているか確認するように一瞬振り向き、また白狼の後を追う。木々の向こう側、ほんの数歩先でランプの主と白狼が対峙する。明かりに照らされたその顔を見た途端、俺は思わず声を上げそうになった。


「シィ、何をしてるんだ」


 コラブ教官だった。

 授業も終わっているというのに軍服を着ている。腰にはいつもどおりサーベル差している。俺は星明りから逃れるように後退りした。シィ、と呼ばれた白狼は、


「あの子がまた森から逃げ出そうとしたので、また追い払ってたとこ」


 俺と話していたときより幾分か砕けた口調の白狼に違和感を感じた。コラブは頷きともため息とも取れる吐息を吐き出して、


「今日は時間がかかってるな」

「中々思い通りの所に行ってくれなかったので。大丈夫、もう怖がってもらったから、寝床に行くと思います」

「何かあったか?」

 

 白狼は一瞬だまり込み、


「別に、なにも」


 コラブの視線が泳ぎ、俺がいる方を見て止まった。そのまま五秒ほど、長い沈黙が続いた後、視線をそらし、


「そうか」


 とだけ呟いた。


「あまり遅くなるな。俺は先に戻る」

「わかりました」


 コラブは巨体を隠すように、森の奥へと歩き去っていく。その明かりが木々に隠され見えなくなるまで、俺も白狼も、そしてルゴも身動き一つしなかった。やがて白狼がため息一つ、こちらへと戻りモックアップに手を触れた。蓋を開け、中の共鳴機に手を触れ何か精神降下を行っているようだった。


「行った、よな?」


 近寄ろうと体を動かした時、痛みもだいぶ引いてきている事に気がついた。立ち上がり、モックアップへ近づくとちょうど精神降下を終えた白狼が蓋を閉じたところだった。


「行きましたよ」

「質問ばっかりで申し訳ないがーー」


 白狼は俺の言葉を遮って「早く出ないと、夜が深くなるので」と言った。


「この子に森を出るまでのルートを教えました。私はまだ仕事がありますので、気をつけて帰ってください」


 モックアップが立ち上がり、あるはずのない目で俺を見るように顔を向けた。

 再び白狼に見ると、肩を竦めて「どうぞ」と言った。今更になって疲れが体中を支配してくる。体の痛みや汚れも気になるが、今はただただ、ベッドが恋しかった。


「あぁ」


 と俺はつぶやき、モックアップに乗る。手綱を握ると白狼が言ったとおり、一人でに歩き出した。俺はふとふりかえり、


「今日は、すまなかった」

「いえ」


 白狼は少し間を置いて、


「無事で何よりです」

「ところで」

「はい?」

「お茶は、好きか?」


 何を言っているんんだろう、と自分でも思う。疲れた頭の端っこで、これで終わりにするなと警鐘を鳴らしていた。余計なお世話だと言うのに。


「ーーコーヒーのほうが」

「そうか。俺もだ」


 そして、


「また」


 モックアップは速度を早める。風を切る音が徐々に耳を塞ぐ中、白狼がなにか言った気がした。発した言葉はわからない。だけど、最後に見た白狼の顔は少しだけ笑っているように見えた。

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