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0−1.私の娘は大統領と結婚した

今日から毎週少しずつ書いていきたいと思います。

よければお付き合いください。

 私のひいばあちゃんはシンキア人だった。つまり髪は黒く、目は緑色、エイリック語は少し訛っていて、魔法が使えた。


 初めて魔法を見せてもらったのは私が六歳の頃だ。小学校に通い出したばかりの私はよく一時間目の休み時間に抜け出して、ひいばあちゃんが暮らすホームへ遊びに行っていた。校庭を囲う鉄柵を乗り越えとうもろこし畑を突っ切って、大昔の戦争で爆撃を受けたまま保存されている修道院を横目に、パブと帽子屋に挟まれた細路地を走り抜ける。すると目の前に、ひいばあちゃんが住むケーキ箱みたいに白くて四角いホームが見えてくる。

 

 ホームにはひいばあちゃんの他にたくさんのお年寄りと、少しのヘルパーさんが一緒に暮らしていた。だけどひいばあちゃんよりしわしわでよぼよぼで、それでいて声が通る人はいなかった。ヘルパーさんを含めても、だ。決して大きな声じゃないのに、ひいばあちゃんの声はいろんな音が溢れててもはっきりと聞こえた。まるで音そのものに羽が生えてて、私の耳まで一目散に飛んで来るみたいに。

 

 私はそんなひいばあちゃんの声が好きだった。その優しい声はいつも私を受け入れていてくれていた。たとえ先生が連れ戻しに来ても落ち付きはらった声で追い払ってくれた。決して多弁ではないからこそ、特別なその言葉は私を救ってくれた。だから家に帰り、母さんから「また抜け出したの」と怒られるとまたひいばあちゃんの声が聞きたくなってまた次の日にホームに遊びに行く。小学校に上がったころはそんな事の繰り返しだった。

 

 そうしていると次第に、周りの大人も諦めてくれた。先生も連れ戻しに来ることは無くなったし、お母さんも私を叱らなくなった。『ひい』が付かない方のおばあちゃんからは、それはとても悲しいことなんだよ、と言われたが、嫌な言葉が減ることの何が悲しいのかさっぱり分からなかった。ホームは優しさに溢れていた。黒板の引き算が出来ずに固まる私に嘲笑を投げる男子も、振られた話を無言で返してムッとする女子もいない。ひいばあちゃんは誰よりもくしゃくしゃの笑顔で私を迎え入れてくれる。


 :::


 ひいおばあちゃんの魔法の話。

 

 その日の私はぼろぼろ泣きながらホームを訪れていた。別に珍しいことではなかった。学校から抜け出す時、もしくは帰る途中で意味もなく泣きたくなることはよくあった。私は他人が当たり前に受け止められる感情をうまく溜めることが出来なくて、何かが揺さぶりをかけられるとあっさりバランスを崩して泣き始める。だけどそれも、ホームに着くまでに途切れるのがいつものだった。私の悲しみは、それが訪れた時と同じように急速に引いていくのが常だった。


 だからその日、サイレンみたいに泣いていた私に、ヘルパーさんも他の入居者もうろたえた顔を浮かべていた。いつも通りの笑顔を浮かべていたのはひいばあちゃんくらいだった。

 

「あらあら」


 ひいおばあちゃんはいつもの優しい声とともに私の頭を撫でた。それでもベッドに顔を埋め泣いていると、ひいばあちゃんはお菓子を包むボール紙に鉛筆で何かを描き始めた。細く長く、そして年の分だけシワを重ねたおばあちゃんの手は一切ブレること無く、ボール紙に蝶々を映し出していく。あっという間に下書きを終えると、今度はその線に沿ってハサミを這わせた。なめらかな手付きに私が見とれていると、ひいばあちゃんはあの独特な訛りで、

 

「良いものを見せてあげるから」


 切り出したボール紙の蝶々に、今度は万年筆を走らせる。だけどペン先からは何色の線も生まれず、ボール紙はペン先の大きさだけ少しへこんでいるだけ。インクの出ないその万年筆で、両方の羽に模様のようなものを刻みつけているようだった。最後に蝶々を二つに折り、私に両手を出すように言った。私は両の手の平を上にして差し出すと、そこに蝶々を乗せ、羽に指先を当てながら、静かに喉を震わした。

 

 それは言葉と言うよりも歌に近かった。唇を閉じたまま不思議な旋律を奏でるひいばあちゃんを、私は口をぽかんと開けながら見つめていた。その歌が終わると、手の平で何かが動くくすぐったい感触が生まれた。


「ほら」


 ひいばあちゃんが手を離すと、ボール紙の蝶々が羽をピクピク揺らしているのが見えた。私は息を呑む。手の上で体を起こし、本物の蝶々がそうするようにゆっくりと羽を動かしている。だけど重さのせいか、体が宙にふわりと浮くことはなかった。

 

「外を見せてあげて」


 ひいばあちゃんは言った。


「え?」

「落とさないように、この子を外に連れてってあげて」

「いいの?」

「だって、せっかく生まれたのに壁や天井しか見れないなんて可哀想じゃない」


 私は頷いて、手の平に蝶々を乗せながら部屋を出た。肩でドアを開け外に出て、日の光を少しでも浴びられるよう頭より高く蝶々を掲げる。蝶々は本当に飛んでいるように、手のひらで優雅に羽ばたいていた。ホームの裏側に回ると、部屋から顔を出したひいおばあちゃんがいた。

 

「すごい、ひいばあちゃんは魔法使いなんだね」

「魔法じゃないよ」


 ついさっき蝶々に命を吹き込んだ時のように、流れるような口調で、

 

「新銘術、っていうんだ」

「しんめいじゅつ?」

「そう、紋を描いて共鳴させているんだよ」


 ふーん、と私は呟いた。その時の私にとっては蝶々がどんな理屈で動いているかより、動いている蝶々その物の方がずっと大切だった。

 蝶々は私が施設を一周してひいばあちゃんの部屋に戻る頃には元のボール紙に戻っていた。だけどひいばあちゃんが再びあの歌を奏でると、蝶々はまた羽ばたくようになった。ボール紙の蝶々は私の宝物になって、その後何度もおばあちゃんの元に持っていっては、旋律のような喉の震えで命を吹き込んでもらった。それはひいばあちゃんがボケてしまうまで続いて、今は本の間に挟まって眠り続けている。


 :::


 いつの頃からかひいばあちゃんはボケが入ってしまい、子供にも分かるような嘘ばかりを口にするようになった。若い頃は女優で百本以上の映画に出ていたとか、娘は大統領と結婚したとか、国家の秘密を知っているから殺し屋が狙っている、とか。

 

 私の事も次第に分からなくなってしまい、自然とホームに行く機会も少なくなった。嫌いになったわけではない。ただ知らない誰かを見つめる不思議そうな顔で出迎えられるのが辛くなったからだ。最後に生きているひいばあちゃんと会ったのは病院で、ほんの数カ月の間に元々無かった肉が更にそげ落ち、骨と皮だけになって眠る姿が脳裏に焼き付いている。


 ひいばあちゃんが亡くなってからは、学校を抜け出すことも無くなった。学校以外は家の中に引きこもり、ただひたすら図書室で借りてきた本を読む日々を過ごした。母さんは母さんで出来の悪い私を外に出すことは嫌がっていたし、私も例えば生誕祭で聖歌を歌うなんてことしたくなかった。ある意味、私の人生の中で一番平穏な日々だった。

 本を読む、という私の趣味はいつしか書くことへと変わり、ノートに撒き散らした妄想を時折一つの物語としてまとめるようになっていた。ふとした気まぐれでそのお話を出版社に送ったのは高校生の頃で、私が大学への入学を決めた直後にその物語が本になることが決まった。若さという武器もあってか当初はそれなりに注目され、父さんがそれまでの人生で稼いだ額とほぼ同じ金額を、私は大学生の間で稼いだ。

 

 大学を出た私は就職すること無く、首都に出て一人暮らしを始めた。両親は止めなかった。むしろその選択を正しいものと思い込んでいた。昔に書き留めた妄想は底を突き、締切だけが決まった次回作は最初の一ページさえ埋められれない事を、私は誰にも話していなかった。

 

 一人っきりの家で筆は進まず、一日の大半を酒を飲んで暮らすようになっていた。次第に飲んでいなくても酔っ払っているような感覚に陥り、意味もなく駅のホームや、ビルの屋上に登ったりした。新しい事を見つけようと、懐かしい何かを思い出そうと意味もなく街の中を歩いた。パタパタと回る電車の行き先を示した掲示板、空の缶詰を置いて路上に横たわる浮浪者、寄宿学校の制服を来た子どもたちにクラクションやブレーキ音がひっきりなしに聞こえる複雑な交差点。

 

 私が暮らし始めた都会は知らない物だらけだった。知らないことは恐ろしく、恐ろしいことを楽しむ勇気は私はなかった。目的地がある人が羨ましく、何百、何千人といる交差点の真ん中で、私だけが行き先もなく歩く日々が続いた。

 

 夜、眠る時によく昔の夢を見た。小学校の教室で、大人になっても引き算が出来ず背中にため息や薄ら笑いを浴びて冷や汗を掻いていた。飛び起きた時は体中汗にまみれ、意味もなく涙が出て、生きているのが辛くなった。


 もうダメだ。

 

 何度目かの夢の時に私はもう耐えきれなくなった。私は汗にまみれた体をベッドから引き剥がし、まっさらな原稿用紙が置かれた机の引き出しからリボルバーを取り出した。大陸大戦の時にジェイマ公国の将校が使っていたというビンテージ品。私はその隣に置いていた紙袋から、法外な値段で買った当時の弾丸を取り出し、弾倉に一つずつ詰めていった。

 

 いつもならお酒を流し込むカラカラの口で銃口を咥え、震える指でどうにかこうにか撃鉄を倒し、引き金に親指をかけた。目を閉じ、鼻から大きく息を吸い込んで指先に力を込める。目前の死に、恐怖で顎を小刻みに震える。銃身に歯が当たってカチカチ音が鳴る。飲み込む唾液と吐き出す吐息が何度もかち合い、まるで歌うように喉が唸った。


 その時、何かがカタリと動く音が聞こえた。


 目を開けると、机の上で本が一冊倒れていた。もう何年も開いていないその本の中には、ボール紙の蝶々が閉じられているはずだった。私はただ呆然と、倒れた本を見つめている。


 カンカン、


 扉をノックする音がして体がはねた。思わず引き金を引いてしまうところだった。


「ローラ・アビーさん。おられますか。特別郵便です」


 私はバクつく心臓を押さえながら銃を机に置いて、玄関に向かった。扉を開けると郵便局の青い制服を来た青年が立っていて、私の顔を見るなり幽霊でも見たかのような、ぎょっとした顔をした。


「なに」

「あ、その特別郵便です。受け取り証明書にサインを」


 そう言って青年は三枚綴りのカーボン紙を取り出す。私はそれを受け取り、壁に押し付けて署名欄に自分の名前を書いた。ミミズがのたくったようなみっともない文字だった。証明書を突き返すと、彼は一枚目をちぎって、手紙と共にそれを私に押し付けた。


「それでは」


 帽子のつばを握って軽く頭を下げる。私は扉を閉じると、薄暗い玄関でその手紙に目を落とした。切手に描かれた文字、押された消印は大学で専攻していたシンキア語だった。だけどその言葉も数年ぶりに見るもので、習った知識を引っ張り出すのにひどく時間がかかった。


 誰から?


 私にはシンキア人の友達も、シンキア語でやり取りするような同学の友人もいない。

 封筒をひっくり返す。古めかしく赤い蝋で封をしている。端に書かれた住所と『ヘルン・エスポ』という署名を見た時、その人が誰かよりも先に、痴呆の入ったひいばあちゃんがよく口にしていた空想が頭に浮かんだ。

 

『私の娘は大統領と結婚した』


 大学の授業で習った。シンキアの歴史、政治、経済、地政学。そのどれもに必ず出てきていた名前。

 大戦後の数十年、大統領としてシンキアを導いた男の名前がそこにあった。

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