Raven
納戸から急いで出て、ドアのロックをかけた。
まさか自分の部屋に有毒ガスが入ってきているなんて、誰が予想できただろうか。
「おい、部屋に有毒ガスが入ってきてる。急いで換気と消毒システムを点けろ」
『ルームスキャン完了。
━━異常は見られません』
なんだって? 有毒ガスが部屋に入ってきているんだぞ。異常がないとはどういうことだ。
仮に有毒ガスではなかったとしても、部屋に煙が上がっている以上せめて換気くらいはするべきだ。
そして何よりも、防火・防煙シャッターが降りているならここは完全な密室同然。
換気が出来ないとなるなら、間違いなくこの部屋は有毒ガスで満たされるだろう。
「異常がないなら換気システムを点けてくれ。あと、シャッターはいい加減開けろ。マスターオーダーだぞ」
たかがシャッターと換気システムを点けるだけで、最高ランクの命令を要請するのもバカげた話だが、背に腹は変えられない。
『AIの最高権限は、現在別所に移譲されています。マスターオーダーは貴方の権限では使用できません』
コイツは何を言っているんだ? 最高権限が移譲された? そんなこと聞いていないぞ。
一体いつ、どこの誰に、どんな事情で?
AIは依然として命令を聞かない。
頭を掻いていると、納戸から入ってきたガスがリビングの方へ微かに入ってきていた。
俺は無意識に近い感じで寝室に戻ると、相棒のテーザーレールガンに今日の戦利品が入っているプレスカーゴ。車のキーだけ取って再びリビングへと戻ろうとした。
だが、ドアを開けた時点でリビングには脛辺りの高さまでガスが充満している。
思ったよりもガスが入ってくるのが速い。
しかし、シャッターはびくともしないし、換気システムは動かないまま。
焦りが俺の思考を徐々に削っていく。
タガが外れて発狂でもしようものなら、そこで俺の命は終わったも同然だ。
辺りを見渡して何か無いかと思っていた、そのときだった。
天井で俺を見下している沈黙した空調を見て、俺の脳裏に電流が走る。
ベッドに飛び乗り、空調の網に手をかける。
自力じゃ外れにくいので、ぶら下がってから全体重をかけるようにすれば、案の定網は音を立てて外れた。
ファンを取っ払えば、予想どおりダクトへの通路がポッカリと開いていた。
ベッドの上にイスを置き、乗ってダクトへとよじ登った先には、細くて暗い一本道が伸びていた。
このダクトにもガスが来るのは時間の問題。ホコリ塗れのダクト内を這って進んでいく。
ホルダーにしまったテーザーレールガンのライトを点けると、通路の先は道が途絶えていた。
すさまじくイヤな予感がする。
ここで先が無かったら、俺は自分の部屋ですらないところで、誰にも知られないまま死ぬ。
冷や汗が、俺の全身を濡らしていく。
意を決してダクトの先。道が途絶えているところへ進んだ。
そうして道が途絶えているところまで来ると、道は確かに途絶えていた。
予想と違ったのは、途絶えていたところは全部屋の空調口が合流し、屋上へと繋がる縦一本道だったのだ。
今しがた通ってきた通路より全然広いそこは、下の方には麦色のガスが充満していた。
落ちれば言わずもがなの結末が待っている。
周りを見ると、メンテナンス用のハシゴがあり、そこから屋上へと向かう。
気が遠くなりそうなほど高く、先は長い。
すでに腕が苦悶の声を上げつつある。
だが、翌日の筋肉痛と死を天秤にかければ、誰だって筋肉痛を取るだろう。
腕から上がる音を無視して、先へと登ろうとしたときだった。
「誰か助けてくれ! 誰か、誰か!」
「どうしてシャッターが開かないの!」
「あぁ、が、ガスが。ガスが! 助けて! 助けて!」
周りのダクトから、部屋にいる住人の悲痛な叫び声が届いてきたのだ。
無論、これらは俺に向けられたものではない。
そんなことは分かりきっているが、部屋にいる人たちより安全で希望のある場所にいる俺は、どうしてもその呵責に苛まれていく。
声を、上げようとした。
「ダクトを登ってこっちに来るんだ」と。
だが、そうする前に四方八方の口から老若男女の泣き声、叫び声が俺を飲み込んで俺の口を閉ざした。
胸の奥にある俺の意思が、ズタズタに引っ掻かれるような罪悪感に襲われる。
あっちからは親子の声。
こっちからは赤ん坊の声。
耳が塞げないから、イヤでも声が耳に入る。
「許してくれ。許してくれ」
無我夢中でハシゴを登る途中、口から懺悔の言葉が止めどなく漏れてくる。
絶え間ない金切り声は滝のように降ってきて、顔面が妙な痙攣を起こしている。
ようやく最上階までたどり着くと、巨大なファンが静かに、堂々と佇んでいた。
動く気配は今のところはない。
格子状の網にメンテナンス兼緊急避難用のデカいモーターレンチを思い切りぶつけて外へと出た。
夜空が妙に綺麗な屋上は、ダクト内に比べて開放的ではあるが危機はまだ去っていない。
屋上の片隅にある避難具へと向かい、若干ネバついた救助袋を展開する。
地上へと落ちる救助袋は、下層に溜まったガスで見えなくなった。
この建物の真下からガスが湧き出た、という感じだ。
避難具の中にあるガスマスクは軽く五十は超えるほどある。
とはいえ、AIの誤作動で部屋に閉じ込められている人たちが、ここまで来れるかと言えば限りなくゼロに近い。
悲観しかない現実を前に、せめて自分だけでもと思った矢先だった。
屋上の出入り口が、内側から激しく叩かれる。
「開けてくれ! 誰かいないか! 誰か!」
生きて逃げられた人がいた。
安堵と驚き。そして俺だけが先に来たことに対する非難めいたものをされると警戒をする。
しかしここでドアを開けなければ、それこそ見殺しにするようなものだ。
激しく叩かれるドアの前まで来るとロックを外し、ドアに隠れるように開いた。
滑り込むように出てきたのは、男の人と思われる人が一人だけだった。
どうして確証を持てずにいうのか? 答えは簡単だ。
出てきた人の体は、肌という肌がグズグスに焼けただれ、筋繊維と骨が露出したひどい有様だからだ。
声もガラガラで女性のような高音と、男性の低音が入り混ざったどっちつかずの声になっている。
有毒ガスがどういうものなのかというのは正直噂でしか聞いたことがなかったが、ここにきてその脅威をありありと見せつけられた。
「熱い……熱い! み、水を……」
目の前で悶えている人に、俺は近づけなかった。
なぜならあの人自身が、今は高濃度のガス源になっているようなものだからだ。
俺の部屋では非常に少量だったからまだ害は無かったが、あの人は今さっきまで全身余すところなくガスに包まれていた。
ガスマスクを付けていても、近づけるのは二分が限度だろう。ヘタをしたらそれ以下だって考えられる。
看取るしかできない俺は、プレスカーゴからボトルに入った水を傍に置いた。
その人は震える手でボトルを持ち上げて、文字通り浴びるように水を飲んだ。
そうして最後の一滴がその人の口に入ると、ボトルをそっと置いて俺の方を見た。
「ありがとう……ありがとう」
小さく微笑むと、その人は深く息を吐いて永遠の眠りについた。
ありがとうだって? 俺は水をあげただけだ。ガスに汚染されているからって近づくことさえためらった。
そんな薄情者にありがとうだなんて、言われる資格なんかあるもんか。
罪悪感ばかりが募っていく中で、開けっ放しの出入り口から大量のガスがもくもくと屋上を満たしていく。
もうここも終わりだ。逃げなければこの人と同じ運命を辿る。
ガスマスクをしっかりと装着し、救助袋に乗り込んだ。
あっという間に屋上から地上へと滑り落ちると、家から離れたところに救助袋の出口があったにも関わらず、目の前は麦色のモヤで覆われつつあった。
脇目も振らず全速力で走る。
まだガスが薄いとはいえ、そんなのは後数秒もすれば瞬く間に濃さを増す。
息が切れ始めるよりも前に、走りながら車のキーを押す。
麦色に染まったガスを切り分けて、愛車のNEXAが俺の元へとやって来た。
動きながら汚染消毒システムで車内外を自動で消毒・換気をし、完了したところを見計らって乗り込む。
遠ざかっていくかつての住まいは麦色の煙に包まれて、建物の姿はおろか輪郭さえ見えない。
見た限りでは、逃げ延びた人が俺以外にいる感じはしない。
やれやれだ。家を失ったのはもはや諦めて受け入れるしかない。
問題なのは、あのクソAIのエラーだ。
存在しないエラーを感知したと言いながら、現実に起きている有毒ガスには一切感知しないとはどういうことだ?
おかげで俺は死にかけて、メンタルがズタズタになる地獄の声を聞いて、見たくなかったものまで見てしまうハメとなった。
それに、最高権限が別のところに移譲されたというのもおかしな話だ。
一体いつそんな話が出来上がった?
何故俺を含めた住人には何も伝えられなかった?
そして、最高権限はどこの誰に渡った?
何もかもが狂っている。AIまでガスにやられたかと思うほどに。
車をしばらく走らせ、俺だけが知る秘密の場所に向かうと、麦色のホワホワした塔が天高くそびえ立っていた。
あの辺り一帯はもうダメだろう。
美樹や智歩ちゃんがいる所には影響がないが、それでも生きた心地がしないはずだ。
今回の一件で、どこにいても大量の有毒ガスの噴出があり得ると証明されたからな。
時間はまだ三時。
生き延びれた安堵と、全力で逃げてきた疲れがドッと体を飲み込んできたのを実感する。
車のロックをかけて、ひとまず休むこととした。
起きたらどうするかは、後で考えよう。
まぶたが重い。
夜空が黒く霞んで、目の前の景色が輪郭を失って、俺の意識も、途絶える。
※
目が覚めると、俺は自分の部屋にいた。
時計は二時を指していて、窓の外はシャッターが降りていて見えない。
胸の奥が、氷水をかけられたように冷たくなる。
夢だった? 俺はさっき命辛々逃げ延びたと思っていた。
だけどそれは夢で、実際は逃げてなんかいなかったのか?
『危険ですので、慌てず落ち着いてお待ち下さい』
無機質なAIの声が聞こえる。
ダクトだ。ダクトを壊して、急いでここを離れなければ。
天井のファンに手をかけて外そうとしたとき、けたたましくシャッターを叩く音が部屋に響いた。
外からは呻き声が聞こえる。まるでゾンビ映画のようだ。
あっちこっちでシャッターが叩かれ、今にも破って来そうな勢いだ。
早く、早く出なければ。
ファンに体重をかけて外したまさにそのとき、シャッターが外側から叩き倒され、外から筋繊維と骨が剥き出しになったガスの犠牲者がなだれ込んできた。
「熱い! 熱い! 水を! 水を!」
「お願い、助けて! 助けて!」
「どうして、どうして助けてくれなかったんだ」
「アンタは私を見捨てた。どうして? 一緒の建物にいたのに、どうして?」
視界の全てが犠牲者で埋まる。
子供も、大人も、老人も、俺に助けを求め、怨み、責め立てる。
やめろ! 俺だって出来るなら助けたかった。だけど出来なかったんだ!
俺は……俺は……。
無数の手が俺に伸びて、体が、グシャグシャにされていく。
※
「ああっ!」
目の前には車のパネルと、窓越しに夜空が広がっていた。
夢だった。恐ろしいほどにリアルで、生々しい夢。
汗でグッショリと濡れた服の冷たさと、ミラーに映ったいつもの俺の姿を見た。
今度こそ夢じゃない。そう分かった途端、俺は年甲斐もなく声を上げて泣いた。
しばらく泣いて泣きまくった後に、席に寄りかかってルーフ越しの夜空を見上げた。
時間は四時を少し回っている。
今はもう寝る気も起きない。寝たらあの悪夢は間違いなく見るだろう。
とはいえ、ジッとしていれば疲労困憊の身であるが故に眠気に襲われるのは必然だ。
車のエンジンを動かして、眠りについた街へと車を走らせる。
※
いくら退廃した世界といえど、動いているのは人間だ。
動くときは動くが、休むときは休む。
生物なら当たり前のサイクルなのだが、こんな時間帯を俺は知らないために新鮮味を感じている。
通りは人っ子一人いないし、路地にいる娼婦や売人は━━商売をしているからというのもあるが━━どこにもいない。
夜明けまではまだある。
俺は車を徐行させながら、しばらく通りを見回った。
静寂の空間が心地よい。
一つ深呼吸をしようと窓を開けたときだった。
沈黙した街でいくつもの足音がハッキリと、方向さえ分かるほどに鳴り始めた。
そこいらのゴロツキや風紀治安会の連中が獲物を見つけて動き出したのだと思ったが、場所が場所なだけに思いもしなかった不安が鮮明に映し出される。
それを裏付けるように、足音の波が俺のすぐ近くにある路地裏まで近づくと一瞬だけ垣間見えた姿に俺の心臓が跳ね上がった。
一人の子供が、五、六人かそれ以上の大人に追われていた。
「智歩ちゃん……?」
鼓動が急に強く、早く脈打つ。
ホイールが白煙を上げる勢いで回転し、通り過ぎていった連中に猛スピードで追い始める。
━━━━━━記者不明 ◇月●日 ▼曜日
※予測不可の偶発的な事故。主に自然災害や過失・ミスによる不慮の事故などは我々ですら対処することは不可能だが、それを計画的に作り出すことは可能だ。
有毒ガスは確かに脅威だ。しかし、全く手に負えないというわけではない。些かの調整は出来る。
下が騒いでくれているおかげで、事は順調に進んでいる。