↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

辻堂家三代の罪、千代の恵

憐みのゆくえ5 虫けらたちの福音 二

掲載日:2019/03/13

 僕の妻は、僕と結婚する前、辻堂綾子といった。彼女は、いわゆるインカレの一年先輩だった。

 四年生になった頃の僕は、淑香を亡くしたばかり。無気力だった僕を、ぐいぐい外へ引っ張り出してくれたのは彼女である。

 知り合ったころ、綾子はその外向的な口調もあって、9月には早々と就職先を決めた。ただ、そこに至るまでに、彼女は母親との大きな確執のきっかけとなった出来事があった。この時の出来事を含めて、僕は綾子と母悦子との両方が攻撃的な性格であり、肝心の父親は無気力という状況を理解するべきだった。

_____________________________


 盛夏の路面は、アスファルトの溶けた臭いが立ち込めることがある。中央線沿いの道も、そんな昼間のにおいがようやくおさまる頃だったろうか。綾子の母、悦子は、市ヶ谷駅近くの法政大学で開かれたシンポジウムに、夫の泰造とともに参加した。母、辻堂悦子は教育界ではよく知られた教授で、マスコミにも露出する機会が多い。


 この日、悦子はこの大学の四年生になった娘綾子の内々定を、知り合いの教授の伝手で知る。彼女は、早速、内定先の会社にお礼の電話をかけることにした。あいにく、娘の綾子は不在だった。

 悦子は、普段から、無気力な夫や、思い通りにならない子供の不甲斐なさを我慢しなかった。本人たちには頓着せずに自分だけで結論し、思い立った時に直ぐに行動するのが常である。

 その悦子の携帯電話に、綾子からの呼び出し音がなる。その心持ち控えめに鳴ったように感じられた電話を取ると、悦子の耳に綾子の心配そうな声が聞こえた。


「お母さん、私の教授から内々定を伝え聞いたと思うけど、あちらの会社には絶対に電話したり訪問したりしないでよ」

「何を言っているの。お世話になるんだから、辻堂悦子たる私がご挨拶するのは当然でしょう」

「困るわ、そんなことされちゃ」


 悦子の隣であった辻堂泰造もさすがに心配し、控えめに口を出す。

「綾子がせっかく獲得してきた内々定だよ。電話するのはあまり良くないのではないかな?」

「そんなことはないわ。この私がお声をかけることが大切ですよ。名前をご存知いただけている方々に対して挨拶をしないことこそが、相手様に失礼でしょ」


 悦子にしてみれば、親であればお礼をするのは当然である。夫も、子供たちも、権威ある母親がどのような地位にあるかを全く分かっていないと考えた。しかし、娘にしてみれば迷惑千万なことである。

 悦子にとって、そんなことは些細なこと。綾子に内々定を出したばかりの会社に、早速電話をかけた。


「いつもお世話になっております。毛野物産株式会社です」

「もしもし、わたくし辻堂悦子と申します。今度、娘がお世話になるそうで」

「はい?」


 営業の人間に、採用の話がわかるはずもなく、電話口の担当者は混乱する。実は会社にはこれだけでも迷惑千万な話なのであるが、悦子はそんなことはお構いなし。混乱に拍車をかけるようなことを言い始めた。


「私の娘がお世話になるということで、お電話を差し上げたのですが?」

「はあ?」

 悦子は電話口の相手が要領を得ないと感じる。彼を、自分の名前を知らない世間知らずと考え、世間の常識を教えてやろうと考えた。

「わたくしの名前ぐらいは聞いたことがあるでしょ?。辻堂悦子という教育者よ」

「どのようなご用件でしょうか?」

「私の娘、辻堂綾子がお世話になる、と申し上げましたが……」


 こうなると、綾子の言葉の調子には、相手へのいささか侮蔑の印象が含まれる。電話口の相手は、それを感じたのか上司に相談している様子。しかし、悦子にしてみれば、総務や営業の現場、組織のあり方を知るはずもなく、ただマスコミで少しは知られた自負だけが善悪を決める根拠だった。


「もしもし、上司の朝倉と申します。この度は部下の教育が不行き届きで申し訳ありません」

 上司まで出てきたことに、悦子はいささか面倒臭さを感じる。このまま電話を切ろうかと考えたところに、課長の声が聞こえた。


「あのー、間違いでしたら申し訳ありませんが、採用のお話ですか?」

 課長の朝倉の脳裏には、モンスターペアレントという言葉が浮かんだ。周りを困らす有名人が、子供の内々定を受けて挨拶しにきたらしい。課長の朝倉の態度は、慇懃無礼なものになる。

 プライドの高い悦子は、相手の口調に無礼を敏感に感じとった。こうなると、常時強気な悦子は侮蔑のニュアンスを強める。


「そうですよ。そのために、私が電話をしているの!」

「それでしたら、人事部長へつなぎます。初めからそちらにおかけになったらよかったと存じますが……。こちらは営業の一支店の無学な人間に過ぎませんので、あなた様のお名前など存じ上げませんでした。申し訳ありません。大変お手数ですが、そちらへお話をしていただけますか」

 こうして人事部長へ繋がれた。しかし、現場を混乱させただけでも、会社にとっては大きな迷惑である。そのうえ、人事部長に対応させたとなっては、内々定の段階に過ぎない綾子の印象が悪くなるのは、当然のことだった。



 次の日のこと、綾子は久しぶりに実家に帰った。内々定をもらったことを、ともに喜びたいと考えてのことである。彼女が実家に帰り着いた頃、ちょうど毛野物産からの電話が来た。

「はい、辻堂です」

「もしもし、電話口の方は辻堂綾子さんでよろしいでしょうか?」

「はい、辻堂綾子は、私です」


 電話に出た綾子の表情は、困惑から怒り、そして決意を秘めた表情に変化する。


「お母さん、毛野物産へ電話したのね」

「そうよ」

「何を言ったの?」

「私の娘なのでよろしく、とね」

「うーん、なんで電話したのよ。今、人事部長さんから、苦情があったのよ。要は、お母さんが現場に邪魔な電話を寄越して、『私の名前を知らないのか』とごねて、業務妨害になったということでした!」

「私がちょっと挨拶をしたのが間違いだとでもいうのかしら。そんなことがあってたまるものですか」

「そう、間違いよ。今、内々定は取り消しだと言われたのよ」

「そんな……。わかりました、私から毛野物産の社長に電話しましょう。確か、新年の賀詞交換会で名刺をもらったことがあるわ」

「だから、それがでしゃばり過ぎなの!」

「いいえ、電話しましょう」


 これを聞いた泰造は、遠慮がちに口をはさむ。

「綾子はまだ採用していただけるかどうかの不安定な立場だし、社長さんに苦情を言ったら、会社の部下の人たちはどう思うだろうかなぁ。やめたほうがいいと思うけど……」

「そんなことはありません。取り消しの理由の妥当性を確認すべきですよ。そもそも、私の名前をご存知の方にご挨拶するのは当然だし、また単にお世話になりますとお願いするだけで、なんで迷惑なのよ」

 悦子は言い出したら聞かない性格である。


「いい加減にしてよ。お兄ちゃんが死んだ時も、その調子だからお嫁さんがさっさと出ていったのよ。 二番目の兄さんも家出して戻ってこないじゃない?」

 こんなやりとりがあったが、たとえ社長に電話したとしても取り合ってもらえるはずもない。内々定は取り消されたに違いなかった。


 このことがあってから、綾子は、就職活動について両親に一言も言わなくなった。また、悦子の知り合いである教授にも口止めを依頼する。

 その後、綾子は新たに保険会社の内定を取り付ける。しかし、綾子の就職活動の詳細は、悦子や泰造が知ることはなかった。もともと、泰造は知らされるまではて関心を払わない。しかし、悦子は何かにつけ綾子にしつこく聞き出そうとし続ける。

 綾子はそれを嫌って、内定をもらった保険会社にインターンシップなどというアルバイトを得て、黙って家を出ていってしまった。


 驚いたのは悦子である。

「綾子が帰ってないわ。部屋も片づいていて、コンピュータとか専門書が運び出されているわ。」

 泰造も驚いたものの、彼にとってはある程度予測していた事態であった。

「そうかい。まあどこへいったのかわからないから、連絡を待つしかないと思うよ」

「待つなんて呑気なことを言って! 呆れるわ」


 悦子は知る限りの綾子の友人たちに電話をかけ。しかし、彼女たちはみな異口同音に引っ越し先を知らないといい、実際知らされていなかった。どうにかできると考えた悦子であったが、彼女にできることはなかった。



 その次の年の春、卒業と同時に、僕の希望もあって、僕と綾子は実家に結婚を控えての挨拶に行った。この時に僕が目の当たりにした光景は、忘れられない。それは、周囲の人間たちを全く考えない、妻と彼女の母親との間の激しい軋轢だった。


「お母さん、お眼鏡に叶うとは思いませんが、真面目な人です」

 僕を哨戒する綾子の言葉。造は宏を一目見て、申し分ない、いや娘には過分な相手であろうと見立てる。しかし、悦子は、全く別の価値観で接した。


「田山宏さんといったわね。大学は?」

「綾子さんと同じ大学の法律学科を卒業する予定です。その後は、エヌディーアイ総合保険相互会社で働ていく予定でいます」

「そう、堅実なところにお勤めするのね」

「あ、ありがとうございます」

「私のことはご存知?」

「あ、あの、辻堂悦子さんと伺っております」

「まぁ、それはありがとうございます」


 悦子はこれで上機嫌だった。綾子もホッとした顔をする。その様子を見て、今度は泰造が遠慮がちに僕に聞いてきた。

「あなたのご両親は何をなさっているのですか?」

「両親はいません。ただ、父の遺産のような家で暮らしています」

「お一人で生活なさってきたのですか。それは結構なことですね」


 僕は確かに、両親はおらず、施設で育った。通常であれば、両親のない子供は施設で暮らし、高校卒業と共に就職する。でも、僕は、死に際の父に合えたし、その教えや財産を基に、GMARCHの一角を卒業した。そのことは、泰造も綾子から聞いているという。

 その後、泰造は、綾子と僕にもう少し何かを話したい様子であり、悦子は再び何か不満な様子だった。s上げましたが……」


 こうなると、綾子の言葉の調子には、相手へのいささか侮蔑の印象が含まれる。電話口の相手は、それを感じたのか上司に相談している様子。しかし、悦子にしてみれば、総務や営業の現場、組織のあり方を知るはずもなく、ただマスコミで少しは知られた自負だけが善悪を決める根拠だった。


「もしもし、上司の朝倉と申します。この度は部下の教育が不行き届きで申し訳ありません」

 上司まで出てきたことに、悦子はいささか面倒臭さを感じる。このまま電話を切ろうかと考えたところに、課長の声が聞こえた。


「あのー、間違いでしたら申し訳ありませんが、採用のお話ですか?」

 課長の朝倉の脳裏には、モンスターペアレントという言葉が浮かんだ。周りを困らす有名人が、子供の内々定を受けて挨拶しにきたらしい。課長の朝倉の態度は、慇懃無礼なものになる。

 プライドの高い悦子は、相手の口調に無礼を敏感に感じとった。こうなると、常時強気な悦子は侮蔑のニュアンスを強める。


「そうですよ。そのために、私が電話をしているの!」

「それでしたら、人事部長へつなぎます。初めからそちらにおかけになったらよかったと存じますが……。こちらは営業の一支店の無学な人間に過ぎませんので、あなた様のお名前など存じ上げませんでした。申し訳ありません。大変お手数ですが、そちらへお話をしていただけますか」

 こうして人事部長へ繋がれた。しかし、現場を混乱させただけでも、会社にとっては大きな迷惑である。そのうえ、人事部長に対応させたとなっては、内々定の段階に過ぎない綾子の印象が悪くなるのは、当然のことだった。



 次の日のこと、綾子は久しぶりに実家に帰った。内々定をもらったことを、ともに喜びたいと考えてのことである。彼女が実家に帰り着いた頃、ちょうど毛野物産からの電話が来た。

「はい、辻堂です」

「もしもし、電話口の方は辻堂綾子さんでよろしいでしょうか?」

「はい、辻堂綾子は、私です」


 電話に出た綾子の表情は、困惑から怒り、そして決意を秘めた表情に変化する。


「お母さん、毛野物産へ電話したのね」

「そうよ」

「何を言ったの?」

「私の娘なのでよろしく、とね」

「うーん、なんで電話したのよ。今、人事部長さんから、苦情があったのよ。要は、お母さんが現場に邪魔な電話を寄越して、『私の名前を知らないのか』とごねて、業務妨害になったということでした!」

「私がちょっと挨拶をしたのが間違いだとでもいうのかしら。そんなことがあってたまるものですか」

「そう、間違いよ。今、内々定は取り消しだと言われたのよ」

「そんな……。わかりました、私から毛野物産の社長に電話しましょう。確か、新年の賀詞交換会で名刺をもらったことがあるわ」

「だから、それがでしゃばり過ぎなの!」

「いいえ、電話しましょう」


 これを聞いた泰造は、遠慮がちに口をはさむ。

「綾子はまだ採用していただけるかどうかの不安定な立場だし、社長さんに苦情を言ったら、会社の部下の人たちはどう思うだろうかなぁ。やめたほうがいいと思うけど……」

「そんなことはありません。取り消しの理由の妥当性を確認すべきですよ。そもそも、私の名前をご存知の方にご挨拶するのは当然だし、また単にお世話になりますとお願いするだけで、なんで迷惑なのよ」

 悦子は言い出したら聞かない性格である。


「いい加減にしてよ。お兄ちゃんが死んだ時も、その調子だからお嫁さんがさっさと出ていったのよ。 二番目の兄さんも家出して戻ってこないじゃない?」

 こんなやりとりがあったが、たとえ社長に電話したとしても取り合ってもらえるはずもない。内々定は取り消されたに違いなかった。


 このことがあってから、綾子は、就職活動について両親に一言も言わなくなった。また、悦子の知り合いである教授にも口止めを依頼する。

 その後、綾子は新たに保険会社の内定を取り付ける。しかし、綾子の就職活動の詳細は、悦子や泰造が知ることはなかった。もともと、泰造は知らされるまではて関心を払わない。しかし、悦子は何かにつけ綾子にしつこく聞き出そうとし続ける。

 綾子はそれを嫌って、内定をもらった保険会社にインターンシップなどというアルバイトを得て、黙って家を出ていってしまった。


 驚いたのは悦子である。

「綾子が帰ってないわ。部屋も片づいていて、コンピュータとか専門書が運び出されているわ。」

 泰造も驚いたものの、彼にとってはある程度予測していた事態であった。

「そうかい。まあどこへいったのかわからないから、連絡を待つしかないと思うよ」

「待つなんて呑気なことを言って! 呆れるわ」


 悦子は知る限りの綾子の友人たちに電話をかけ。しかし、彼女たちはみな異口同音に引っ越し先を知らないといい、実際知らされていなかった。どうにかできると考えた悦子であったが、彼女にできることはなかった。



 その次の年の春、卒業と同時に、僕の希望もあって、僕と綾子は実家に結婚を控えての挨拶に行った。この時に僕が目の当たりにした光景は、忘れられない。それは、周囲の人間たちを全く考えない、妻と彼女の母親との間の激しい軋轢だった。


「お母さん、お眼鏡に叶うとは思いませんが、真面目な人です」

 僕を哨戒する綾子の言葉。造は宏を一目見て、申し分ない、いや娘には過分な相手であろうと見立てる。しかし、悦子は、全く別の価値観で接した。


「田山宏さんといったわね。大学は?」

「綾子さんと同じ大学の法律学科を卒業する予定です。その後は、エヌディーアイ総合保険相互会社で働ていく予定でいます」

「そう、堅実なところにお勤めするのね」

「あ、ありがとうございます」

「私のことはご存知?」

「あ、あの、辻堂悦子さんと伺っております」

「まぁ、それはありがとうございます」


 悦子はこれで上機嫌だった。綾子もホッとした顔をする。その様子を見て、今度は泰造が遠慮がちに僕に聞いてきた。

「あなたのご両親は何をなさっているのですか?」

「両親はいません。ただ、父の遺産のような家で暮らしています」

「お一人で生活なさってきたのですか。それは結構なことですね」


 僕は確かに、両親はおらず、施設で育った。通常であれば、両親のない子供は施設で暮らし、高校卒業と共に就職する。でも、僕は、死に際の父に合えたし、その教えや財産を基に、GMARCHの一角を卒業した。そのことは、泰造も綾子から聞いているという。


 その後、泰造は、綾子と僕にもう少し何かを話したそうだった。しかし、隣の悦子が再び何か不満な様子を現わすと、彼は黙る。その後に僕が目にした光景は、忘れられない。それは、周囲の人間たちを全く考えない、悦子と綾子の母娘の間の間の激しい軋轢だった。


「綾子、あなた、戻ってこないの?」

「同居する気は無いわ。」

「何言っているの。あなたに何ができるの?。まだあなたには、私たちから吸収しなければならなことがらがあるはずよ。」

 綾子は怒りの表情をあらわにした。

「今そんなことを言い出すの?」

「そうよ……そうでないと、フィアンセにも失礼だわ……あなたは、ただ反発するだけ……見通しもなく、その場その場の思いつきで動くだけじゃないの……自分の目標に向かう姿勢も、忍耐もない……今にそれがあなたを自滅させるわ」

「うるさい」


 綾子と僕は、悦子との諍いをしたまま家を出た。ただ、綾子は駅まで見送りに来た泰造には、台東区黒門町にアパートを借りて 住んでいること、結婚後も底へ住むことを伝える。


。この二人のやりとりから、母親と娘の両方が攻撃的な性格、肝心の父親は無気力という状況を理解するべきだった。しかし、その時の僕にはそんなところまで気づく鋭さはなかった……僕は、強い口調の綾子を頼もしく眩しく感じた。綾子の勤め先の生命保険部門は、そこから一駅隣の秋葉原であった。

 僕は、深い観察も考察も欠いたまま、卒業前に綾子と結婚した。


 僕は激務で父親代わりの山形牧師に挨拶に行く暇もなかったが、帰りの早い綾子が作って待っていてくれる夕食があり、日曜日の短い公園巡りや美術館巡りが僕の心を癒してくれた。その生活で充分であると考えていたし、このような生活が綾子にも良いものだと思って疑わなかった。


_____________________________


 結婚して数年がたち、子供も生まれた。僕の仕事は相変わらず激務で夜も遅い。そんなある夜の帰宅時のことだった。

 寝静まっているはずの部屋の中から、カサカサと音が聞こえた。

 二月にもなると、春の猫たちがうろつく。そんな猫が入りこんだのだろうか? それとも、空き巣だろうか? 灯りは消えている、ということは起きている者はいないはずだ。


 僕は、街灯の冷たい光を頼りに、室内をうかがえそうな場所を探す。ドアの外から郵便受け越しに室内が見えた。かさかさという音は少しも止む気配がない。

 僕は、意を決して音を立てないように室内へ入り込んだ。トイレの前を過ぎ、リビングと隣接するキッチンへいきつく。左手には、暗闇に白い冷蔵庫が浮かぶ。


 常夜灯を取り出し、その光を音のする方向に向ける。その光の中に、大きな椅子を運ぶ小さな詩音が浮かび上がった。

「うんしょ、うんしょ……」


 やがて、小さな椅子も運んできた。彼女はそれらを冷蔵庫にくっつけ、漸く冷蔵庫の高い位置まで手を伸ばす。しばらく覗き込んでは一生懸命に漁る。しかし、冷蔵庫の中にはほとんど何もなかった。


 僕は、そっと彼女の背後に近づき、夜食の助六寿司を彼女の目の前につり下げる。詩音は思わずそれに飛びつく。と同時に、持ち主をマジマジと見上げた。


「パパぁ!」

「どうしたんだ……綾子は?」

「お母さんは、帰ってからまた出かけちゃった……踊りを踊って見せたけど、お母さん、出かけちゃった……」

 詩音はそう言って欠伸をする。ずいぶん長い間待たされたのだろう。


 以前は、泣き疲れて畳の上に寝ていたり、僕に泣いて訴えた。最近はすっかり母親を諦めた様子で、僕にとても甘える。そんな時は、必ず彼女を抱きしめ、寝かしつけながら自分も眠った。


 僕はしばしば遅くまで残業する時期がある。この四ヶ月間も僕は遅くまで残業だった。今夜も家に帰り着くと、中で詩音が一人で待つ。

 綾子が早く帰っているはずだったのだが、これで十回目になる。


 綾子は、以前にもこんなことが続いた。

 綾子は僕と同じ保険会社系列の保険営業職である。夜のお出かけは、生命保険の契約を取るために必要なことらしい。僕よりも拘束時間の短い勤務のはずなのに……それでも、僕は結婚した時から夕食準備以外を担当し、綾子を応援した。僕よりも有能でしっかりした先輩なのだな、と感心したからだ。


 結婚前にも、夜に出かけていくことや帰りが遅くなることがたびたびあった。詩音が二歳のころには、僕の職場近くに居た妻を見かけ、今日は早くお出迎えなのかなと思ったこともあった。しかし、その日保育園から呼び出されたのは僕だった。その後も保育園から何度も呼び出しが続いた。綾子は夜のお出かけをいつやめてくれるのだろうか。



 次の日の夜、綾子の実家から僕の職場に電話がきた……義母の悦子である……どうやら詩音が義父母の家に電話をしたらしい。

「綾子は帰ってくるのかしら?」

「まだでしたか? とにかく今から帰ります」


 僕は慌てて自宅へ帰る。玄関のドアを開けると、詩音が駆けてきた。自宅には、既に義父母の辻堂泰造と悦子がいた。


「お父さん!」

 詩音が僕に抱きつく横で、義母の悦子は僕に再び質問を浴びせる。


「まだ綾子は帰っていないけど?」

「まだなんですか?」

「母親が子供を置いて、夜になってから出かけるなんて」

「彼女によれば、生命保険の契約のためだそうです」

「夜に?」

「頑張っているんだと思います」

「宏さん、おかしいとは思わないの? 綾子は私の娘だけども、綾子の生活パターンはおかしいと思っているのよ。幼い子供を置いて夜に出かける母親がどこに居ますか? 昨夜だって、詩音を暗闇の中に置いてきぼりだったようだし」

「でも、彼女はちゃんと夕食は用意してくれているし」

「ちょっと、その言い方はおかしいわよ! 勤務時間の短い彼女が食事を用意しておくことは、当然よ! それが詩音は、昨日もパパの助六を食べたって言っていたわ」

「確かに最近はあまり用意してくれてないですね。でも、仕事が忙しいから仕方がないし、僕が我慢すれば」

「何を言っているのよ! 貴方のことを心配しているわけではないのよ。貴方は大人であの娘の夫でしょ! それなら、自分の家庭や妻のために身を削ってでも家庭を守るものよ! 私が言いたいのは『子供に我慢をさせるの?』ということです。この事態はとんでもないことよ! 親なら、特に母親ならば、子供のひもじそうなところに直ぐに気がつかなければいけないわ」


 義母の悦子は、娘と同様に気の強さが前面に出る……しかも、悦子の言うことは、正義感と自信に満ちていて周りに反論を許さない。


 詩音を寝かしつけてしばらくすると、深夜一時となり綾子が帰ってきた。ほろ酔いのせいか、やや上機嫌な綾子だったが、悦子の姿を見て途端に顔を曇らせた。


「なにしにきたの?……」

「貴女はこんな時間まで何をしていたの?」

「うるさいわねえ……契約を取るためよ」


 悦子はそれに被せるように大きい声を出した。

「なにをいっているの。午前一時までの営業ってなに? 水商売じゃあるまいし」

「うるさいわね。知らないわよ。みなさん忙しいからこの時間になっちゃうのよ」

「説明になってないわよ。じゃあ、今日のお客さんでどんな人なの?」

「うるさいわねえ、いちいち。なんであなたにそんなことに言わなくちゃいけないのよ。それに、個人情報だから言えませんし、ね」


 この夜の綾子の答え方は、いつもの皮肉にくわえて、僕のみたことのないほど激しいもの。母親を相手にすると、いつもより強い口調で反発する。母親も、鋭い指摘と叱責で、綾子を追い詰める。父親はというと、あまりに無気力で僕の視線にも応えず、介入などしようともしない。


「へぇ……それなら、この匂いはなんなのさ……この家のシャンプーとリンスとは違う臭いよね……宏さんも気づかないの?……」

 母親の悦子の剣幕とにらみつける綾子とに挟まれて、僕は控えめに答えざるを得なかった。

「そういえば、違う臭いですね」


 この言葉に悦子は溜息をつき、声のトーンを落とした。

「貴方は、綾子の夫なのよ。この匂いを嗅いで何か異変に気づかないの?」

 悦子は憐憫とも諦めともいえない表情を浮かべた……綾子は、僕の喜怒哀楽が壊れていることを知っているためか、また関わって欲しくないと言いたいのか、目を泳がせながら僕の顔を一瞥する。

 しかし、彼女の目の動きは、僕の中の歯車のズレを多少復元させた……


「確かに、こんなに遅くなるのは、行き過ぎではないかと思います……」

 この言葉に綾子はビクッとした様子である。僕が何かに気づいたと思ったのかもしれない。それに重ねるようにして悦子が冷たく言い放つ。


「貴女のやっていることはすべてわかっているのよ。やはり、貴女はしっかりと御言葉に聞く必要があるわね。あなたぁ、あれを持ってきて!」


 リビングの奥で、義父の泰造が静かに待つ。悦子が顎で泰造に合図をすると、泰造は僕に向かってにこりと微笑みながら、ギデオンと呼ばれる会社の本を、綾子の前にそっと置く。

「はいよ……綾子や……この本は貴女の道を照らす灯よ……迷い出ているなら、戻ってきなさいね……」


 綾子は反発する。

「何よ、そんなもの……なんでいちいちあなた方の言うとおりに動かなくちゃいけないのよ……」


 悦子は綾子の態度が当て付けだと見切っているかのように、無表情に本を突き出した。綾子は渋々それを受け取る。それを見届けると、義父母はリビングへ戻った……彼らの目をうかがいみると、彼らは明らかに綾子のしていることをわかっている……しかし、僕の頭は靄っていて、綾子のしていたことをまるで洞察できなかった……ただ、何か悪いことが起きそうな予感がして、場違いな言葉をかける。


「綾子、銭湯へ行っていたのかな……まあ、家だと子供と一緒だから、たまには大浴場でのんびりしたいよね……ご苦労様でした……」


 綾子もその言葉に合わせるように、言葉を添えた。

「銭湯のお湯はいいわよ……広々として……のんびりできたわ……」

 悦子はこのやり取りを見て、僕を呆れたように見つめる。しかし、もうなにも話そうとはしなかった。多分、色々追求することが孫の詩音の幸せを壊すことになると思ったのだろう。


 翌朝早々に義父母は帰る。その際、詩音は名残惜しそうに泰造に抱きついた。

「おじいちゃん、いい匂い!」

 彼のコロンの匂いが、詩音の鼻と心をくすぐったのだろう……詩音は泰造の横にいて、なかなか帰らせなかった。


 綾子の方は、義父母が帰宅する前に既に仕事へ出かけたあとだった。その様子から、僕はゴミ箱を漁る。やはり綾子はあの本を捨てた。それも、生ごみの上に。その情景をまるで見せつけるように、また当て付けのように。


「なんてことを……」

 僕はそれを拾い上げた。それは亡き父の愛したものと同じ名前の本、バイブルであった……


 詩音が小学一年生になる年の一月になると、綾子の実家、辻堂家と完全に縁が切れた。


 この頃になると綾子は、夜遅くまで帰って来ない毎日となる。僕が我慢できずに一言でも言うと、『仕事よ』と言って開き直ることが多くなった。

 綾子は壊れた。今までそんな態度を僕に対して向けたことはない。しかしこの数ヶ月の綾子の態度は、母親に向けた当て付けと同じ調子だった。


「あなたも前から知っていると思うけど、外商は大変なのよ」

「でも、詩音はもう直ぐ小学校へ入学する準備もあるし、日曜ぐらい休めないのかな?」

「ごめんね……日曜もお客様と約束があるのよ」

「じゃあ、得意の調理ぐらいはできるよね。一旦帰ってきているのだから、詩音や僕のために作りおきしてくれる暇はあると思うんだけど」

「うるさいわね……詩音だってもう六歳なのだから、自分で自分の面倒くらい見られるわよ」

「でも、その結果がこれだぜ……」


 僕は詩音の入学前検査の結果シートを叩いた……「各栄養素、特にビタミンミネラルの不足。要検査」だった……

「まあ、そのぐらいならいいのよ」

「なにがいいんだよ……」

 綾子のあまりな言い草……僕は思わず怒る。彼女はその口調に戸惑ったのか、ようやくやってくれると言う有様だった……しかしそれも長続きはしなかった。


 その年の二月、綾子は早く帰宅する毎日となった。彼女の夜の営業は、結局契約が取れずに損したらしい。僕も不動産運用部門の係長になり、物件査定の仕事に異動する。

 夫婦二人とも、仕事が忙しくない時期。久しぶりに三人が揃い、詩音の笑顔……毎晩三人一緒に夕食をとった。多分、三人にとって最も幸せな時期だった。


 毎日の掃除や洗濯の山、食事後の洗い物。僕にとってはなんでもなかった。ただ、綾子には、日曜の三食や毎夕食を作ることだけでも負担だったのだろう。再び僕の帰宅時間が遅くなり始め、毎日の掃除、洗濯、洗い物は遅くなりがち。綾子は耐えられなかったらしい。


 桜が散り始めた頃のある日。綾子は暴発した。

「今日はもう食事を用意する気になれないわ」

「何で?……」

「もう作るのは負担なのよ」

「ええ?!……作るのは君の役だろ?……僕はやっているじゃないか」

「あなたは、最近寝坊して片付けや洗濯、掃除が遅くなっているじゃない……」

「僕は、最近仕事が溜まるようになって忙しいんだよ……少しぐらい休みながらやっても良いじゃないか……」

「そんなのおかしいわ……私は食事を作り続けてきました……それなのに、あなたは自分のことを棚に上げて私を責めているわ……」

「責めてなんていないよ……」

「もう嫌よ……もうやらないわ……」


 綾子の反発……これは明らかに当て付けである。次の瞬間に、彼女は僕をぶちのめす。久々に殴られた僕は、茫然自失。いつの間にか綾子の母親への反発が、僕に向かった。


 綾子は僕の尊敬する先輩。その点も含めて、僕は彼女の扱い方にほとほと困った。しかし、いつまでも妻にかかわるわけにもいかない。次の日曜には、僕はまた会社に行かざるを得ない。そして帰宅した夜…自宅には誰もいなかった。


「なにやってんの! 早く戻ってきて家族の夕飯を作ってくれよ。それが君の役目だろ!」

 僕が電話口で少しばかり彼女を咎める。それが気に入らなかったのか、それともずいぶん前から決心していたのか、綾子の口調は淡々とした冷たい口調にかわった。


「もう繰り返さないわ。あなたも私も仕事をしているの。それなのに、休日の今日も、わたしが朝からご飯を作っているのに、あなたは洗濯も後片付けも遅れ気味じゃないの」

「また蒸し返すのかよ。僕の朝の後片付けの仕事が遅いのは睡眠不足のためだよ。僕の方が拘束時間が長いし、その分忙しいんだよ。昨日だって深夜12時過ぎの帰宅だし。それでも、夕食にありつけなくても、僕は食器洗いだとかの後片付けをしているし。僕は君に文句を言ったことはないよ。それなのに君は自分のことを棚に上げて、命令するだけじゃないか。特に昨夜は疲れていたから、15分ほど休んだけど、そのあとはいつものように後片付けをしているじゃないか。何でもう少し待てないのかな……任せてくれないのかな」

「そんなの、言い訳にも理由にならないといったはずだわ。私は休まないで、直ぐに早く終えてねと言っているの。話し合いはもう意味がないから、これでおしまいね。それとも、もう一度ぶちのめされたいの?」

「わ、わかったよ……」


 それっきり綾子は戻って来なかった、詩音を連れ出したまま……。空っぽの室内を前にして、僕には何が起きているのか、さっぱりわからなかった。

 次の日、改めて湯島の自宅アパート内を調べる。通帳も何もかもが持ち去られている。僕の手許に残ったのは、僕のカバンと財布だけだった。

「どうしてだよ……………」



 僕は、保険会社を辞めて引きこもった。無気力で孤独なままの生活。そんな僕を心配して、昔関係した不動産会社が雇ってくれた。が、職場は見知らぬ人ばかり。それでいい。誰にも関わりたく無かった。


 新しく住むところが欲しかった。探したのは、三河島。就職先で安アパートがあると聞いて、その辺りを探し歩く。

 もう若葉が萌えいでる季節。空の青と街角の色彩が僕の目に痛い。僕は文無しだったゆえ、相場より安めの物件でも高すぎた。定休日の火曜日にも会社に出て物件を探しあるく。


 日暮里の事故物件。それは月二万円程度のアパートである。次の日に契約したのだが、僕の横で先輩が「成約したのか」と驚いた。

 そのアパートは、日暮里中央通りを南に行く途中、右に二つほど折れた日陰にある。自殺者の怨霊が入居者を祟るという曰く付きのところ。それにしても家賃月額二万円は破格だった。荷物のほとんどない僕は、その日のうちに寝袋一つでそこに入居する。


 二か月たった。会社と銭湯と自室の間を移動するだけの生活。自室近くの日暮里駅はアクセスがいい。また世話になるお花茶屋の教会や足立の施設には、直ぐに行けた。電話はない。自室はまるで音のない深海、僕はそこに潜む深海魚である。


 しばらくすると、僕の状態を見透かすかのように、僕の会社におじちゃん、山形牧師が訪ねてきた。おじちゃんは、親のいない僕にとっては親がわりだ。大学から保険会社へ採用された時には、保証人になってくれた。

 そのおじちゃんの十数年ぶりの訪問と、心配顔の言葉である。僕は心が痛かった。


「ずっと、お花茶屋に顔を見せていなかったよね。会社からざっと事情は聞いたよ。どうしているかなって、心配になってきたんだよ」


 僕は、かっこ悪いところを見られたようで、おじちゃんの顔を見ることができなかった……

「宏。保険会社を辞めたと聞いた時には、心配したんだぞ」

 おじちゃんを前にしても、僕の頭の中の感情が何かに塞がれて出てこない。泣き言も出ない。しかし、おじちゃんは、怒ることも、励ますことも言わなかった。


「一度でもいいから、お花茶屋に顔を見せろよ」

 ただそういって、おじちゃんは帰って行った。

_____________________________


 夏になり、秋になった……もう、明日は万聖節……殺風景な室内に木枯らし一号が響いてくる……


 十月はひどい月だった……以前からの戸建て団地の大規模開発で多忙繁忙である。この四、五日は朝早く起きることはできなかった。そして、今夜のひどい耳鳴り。体はぼろぼろだった。


 夜中、締め切ったはずの部屋の暗闇に若い女が立った。それは忘れもしない淑香の姿。しかし、僕はこの時になっても、感情を、恐怖さえも表に出すことができない。

 女は無言のまま僕の前に立つ。彼女は無表情のまま、僕も無言のまま。彼女はいつのまにか消えた。


 再び目覚めると、また彼女が僕の前に立った……何回も何回も……しかし、僕の感情は死んだまま。唐突に呼び掛けられた。


「田山宏さん……」

 僕はその女の他人のような言い方に、怒りを覚える。しかし、僕は無言のままでその女を睨むのみ。

「独りよがり……」

 そう言って女は消える。その影に向かって、僕は珍しく力を込めて言い返した。

「そうさ、どうしたらいいかわからないのに。父親としての愛も夫としての愛も、わからないよ。愛する人への愛も、わからないさ……だって、君は僕を残して死んでしまったんだよ……」

 吹き出すような想い、そのままの言葉……僕自身が壊れたように感じられた……その言葉に、女は驚いたようにまた現れた……


「私があなたの恋人だったというの? 私には覚えがないの」

「そうかよ。それとも、君は淑香じゃあなかったのか? やっぱり淑香は死んでしまったんだ……君には悪かったな」


 女は消え、しばらくたってからまた現れた。

「貴方は何にこだわっているの?……求めるのは愛する対象なの?……」

「さあてね……今では忘れてしまった……」

 投げやりな言葉だった……彼女は消えた。


 僕は、意識して平然を装う。

「当然だろうね」


 僕は上を仰ぐ。

「愛したのは妻と娘さ。でも、捨てられた。その前には、妹、恋人を愛したが守りきれなかった。僕は拾われて愛されたさ。だから愛した。でも僕の知っている愛は父親代わりのおじちゃんのものさ。女の愛し方なんて、それじゃわからなかった。妻は出て行き、恋人は守りきれなかったから、こんな孤独になっているのさ。僕に愛を教えてくれよ。それとも、僕にはそんな資格も能力も無いのかもしれないね。だから、僕は叩かれて当然なんだ。 僕はやっぱり虫けらだよ」


「娘は連れ去られた。でも、声が聞こえる。あそこにいるんだ」

 女は僕の顔の前に再び現れた。

「その娘は大きな罪を犯した男の三代目。父なる方の教えを否む者なれば、三代四代までもその罪を問う。貴方は、将来、その娘を父の愛の形で愛し、その上で恋人の愛、夫婦の愛を以って救う。そのためには夫婦の愛も、恋人への愛も、子供への愛も、学ばねばならない。全ては根源的に愛されているから、愛するのだ、ということを知らねばならない……私たちはそのために貴方の側にいた、今までも、これからも……」

 そう言って、その女は立ち去ろうとした。彼女に僕は思わず呼ぶ。


「淑香!」

 彼女は振り向いた……なぜか彼女が僕との昔を思い出したように見えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。