グッバイフォルテ《Dead is equal》21
「……ふふ……そっちが……ねッ!!」
足の小指に引っ掛けた糸を引っ張ると同時に、仕込んでいた大仕掛けが動き始める。
急に息を吹き返した私にチャップが訝るよりも先に、その変化は瞬時に訪れた。
シュンシュンッ─────バシュゥゥゥゥゥッ!!
私の周囲に張り巡らされた触手達が、一瞬で乱切りの如くバラバラに砕け散った。
「な、な!?」
有り得ない。そう言語化することすらできないほど動揺を表したチャップの眼前に、一人の少女が降り立つ。
四つん這いから揺ら揺らと状態を起こし、獣のように口角を上げ、獲物に狙いを定める猛禽のように眼光を走らせる姿は、とてもじゃないがか弱いとは形容し難い。
「─────」
私は怯え切った獲物を前にして、にんまりと頬を緩ませた。
あれ、結構いけるじゃん。
どさ……ッ!
余裕に満ちた表情に何を思ったのか、眼の前のチャップが恐怖で尻もちをつく。
すぐに立ち上がろうと試みてはいるものの、がくがくと震える足腰と中途半端に脱がしたズボンが絡み合い、思うように身体を動かせないらしい。
「ふっ……くっ、この……ッ!」
その無様な姿を誤魔化すように、乱雑に振った手の合図を受けて、私がさっき切り裂いた六十八本以外、残り三百九十二本の触手が一斉に飛び掛かる。
さっき私を捕らえた時と全く同じように。
その光景を前に、溜息が漏れそうになった。
「お前の趣味嗜好は嫌って程分からされたけど」
指抜きグローブすら着けていない右手を無造作に振るうと、八方から襲いかかっていた残り触手達全てが瞬きする間にバラバラと砕ける。
「もうそれ……見飽きたから」
断面から巻き散る薄茶色のオイルが雨の如く降り注ぐ。
それに対してもう片方の手を翳すと、雨は眼には見えない円形の空間内にいる私を避けるように艦橋内へ滴っていった。
「そんなバカな……っ!第四世代のナノウルツァイト加工フレームだぞ?!ダイアモンドよりも硬い触手達がそんな簡単に斬れるはず無い!!いや、それ以前に貴様に武器なんて一つも残っていなかった……なのに、なのにどうしてそんな不可能なことを……」
さっきまでの威勢はどこえやら、虚勢が暴かれたチャップの姿に私は思わずクスリと笑みを浮かべてしまう。
「そうギャーギャー騒ぐことも無い、簡単な話。全部斬ったの。足元に転がってたこの糸でね」
無邪気な子供のように、尻もちをついたままの立てないチャップへ両手を伸ばす。
その両手の平の上。流れ星が走るようなキラキラとした煌めきは、私がいつも使っている隕石の糸に他ならない。
いつもと違う点を挙げるとすれば、糸を格納していあるはずの指抜きグローブが無いことと、チャップ自身言われるまでそこにあると気づかないほどか細い形状であることだ。
「だ、だとしても不可能だ。さっきまで貴様は触手一本にすら苦戦を強いられていたというのに、そんな簡単に切り裂けるはずが無い!大体その糸は、グローブが無ければ使えないほど扱いが困難な代物だったはず……なのにどうやって、この触手群を防げるほどの糸を集めることが出来たんだ!?」
「だからそんな難しいことじゃないってば。ほら、これ」
へっ?チャップは私の行いに言葉を失う。
視線誘導で示した右脚。
その小指付け根のあたり、糸が食い込んで鬱血した跡を見せつつ私は口を開く。
「私が使っているこの糸はね。実は何百本もの糸を束ねた撚糸として使っているんだ。そうしないと切れ味が鋭すぎて指が墜ちちゃうだよ。でもね、やろうと思えばほら、こうやって全てバラバラの一本としても使うこともできるんだよ」
「それをお前は……小指一本でやったというのか……?絶体絶命の中、保護具も使わず、足の指先一本だけでそんな曲芸染みた離れ業を……?」
あれ、ちゃーんと懇切丁寧に説明してあげたのに、チャップの表情はどんどん青くなっている。
何か悪い夢でも見ているのかな?
「そ、そんな簡単に不可能を可能にされてたまるか!い、一歩でも間違えば指先全部落っこちてたかもしれないんだぞ?恐怖は無いのか?」
全く、これだけハッキリと説明してあげたというのに、未だにチャップは信じようとしていないらしい。
流石の私もこれには嘆息を漏らさずにはいられなかった。
「無いよ。あるわけないじゃん」
不良のように腰を下ろし、にひっと頬を吊り上げた笑みを私はチャップへと突きつける。
服装こそ下着一枚を身に着けただけの可憐な少女の姿を保ったままだったけど、その雰囲気はさっきまでの華奢なイメージとは一線を画していた。
理由は至極全う単純明快。
これが私にとっての本性なのだから。
さっきまでずっとそのことを勘違いしていた。
ロナとロア。
これは私の中に存在する二つの人格であると、生まれてからずっとそう思っていた。
だけど本当は違かった。
ロナが主でロアが別人格なんじゃない。
ロナの被虐性もロアの加虐性も、どちらも正真正銘の私なんだ。
それをずっと判っていたはずなのに、私はその愚かな私を心のどこかで否定し続けた結果、ロナとは違うロアという人格を演じていただけに過ぎなかった。
数か月前のあの日、アメリカでセイナと一緒にアルシェを追跡していた時、地下鉄の車両間に飛び移ろうとしていた彼女の手をしっかり掴まなかったのも、本当はロアの真意だけじゃない。
私の中の意地汚い思いが、フォルテを取られて嫉妬していた私情を優先しただけに過ぎなかった。
更にはそれを認めたくないがために、私は汚いものに蓋をするようにロアへとそれを圧しつけ、見えないようにその事実を遠ざけていた。
けど、神様はしっかりその事実を見ていたからこそ、ベトナムで大の大人達に辱められたのも、ここで数時間も恥辱の限りを受けたのも、結局のところはロアのことを認めることができず、他人はおろか自分自身まで騙していたことへの罰だったのだろう。
でも、おかげでこうして改心することができた。
私はロナとして、ロアという自分の隠したい側面も受け入れ、一人の人間として生きていく。
そう思うと、不思議と恐怖は無かった。
あぁ……なんて気持ちが良いんだろう……っっっ
あれほど畏れていた自分の殺意も、認めてしまうとこんなにも気持ちが良いものだなんて知らなかったし、自然と口角が吊り上がることを止めることが出来ない。
この姿をもっと見て欲しいと、私はさらにずいっとチャップへと詰め寄った。
「いつまで認めないつもりだよ?」
その問いかけに応答は無い。
私の瞳に映るこの男は、目の前で起こっている事象をどうやっても受け入れようとしないらしい。
まるで昔の自分自身を見ている気分だ。
天才であるが故に、自身の思い通りにならない事象を認めようとしない。
過ちも、後悔も、その全てを否定し続けてきた哀れな自分。
「確かにお前は色々と計算していたかもしれない。私の武器の性能や能力、全て網羅した上で百パーセントの揺るがない自信があったのかもしれない。けどね、なっちゃったんだから仕方ないよね?例え一パーセントにも満たない確率でも、失敗すれば自損する可能性があったとしても、こうやって成功しちゃったんだからさ。それはリスクヘッジできていなかった自分が悪いよ」
「そ、そんな言い方で、雷に一日二度打たれるよりも低い確率が通ったことを黙認しろと?冗談じゃない!!そんな不運を私は絶対に認めない。認めてなんてなるもんかぁッ!!」
あぁ、そっか。
コイツまだそんなことに気づいてなかったのか。
「不運?違うよ。お前は今まで幸運過ぎたんだ。私のように悪いことをして罰を与えられる訳もなく、ただのうのうと生かされていただけのね。そしてその皺寄せが今日になってまとめてやってきただけ。決して不運なんかじゃない」
大好きな人は取られ、その人のためにとっておいた純潔も、二度に渡って食い散らかされた私と違い、世界を陥れようとして、散々権力に胡坐をかき、なのに一度も痛い思いをしてこなかったことがそもそもおかしかったんだ。
そのことにようやく気付いたのか、チャップは視線を俯かせて心情を漏らした。
「私を……殺すのか?」
震える喉でか細く命乞いをする。
自らのその声に感化され、チャップの身体が小刻みに震えだす。
「これまでの恨みや、不運だった自分の憂さを晴らすために、ここで私をここで殺すのか?」
正直な話、ちょっと迷った。
今の昂った感情のまま、そこの地面に転がっている愛銃《ベネリM4》でコイツをミンチにしたら、どれだけ愉しいだろうか。
きっと、今まで感じたことの無いエクスタシーを味わえるかもしれない。
けど、
「……別に、お前をここで殺すことが私の目的じゃない」
それをフォルテに私はなんて伝えるのか?
誰も殺すことなく任務を遣り遂げたと、またそうやって自分を誤魔化すのか?
多分隠蔽することもできるし、フォルテにバレることもないだろう。
でも、結局は自分自身にまた嘘を付くことになる。
清廉潔白なロナを表で演じ、裏の穢らわしいことは全てロアへ押し付ける。
それじゃあ、いつもの状態に逆戻り。
だから私は殺さない。
みんなに嫌われたくないし、フォルテにだってそうだ。
大体、私はまだ彼を諦めたわけじゃない。
ちょっとセイナに負けているからと自暴自棄になったところで幸運は訪れない。
私は私で、虎視眈々とチャンスが訪れるのを待つんだ。
だから、フォルテに嫌われるようなことはしない。
それに、ここに来た目的はもっと別にあるのだから。
「ここの魔術防壁、解除するにはどれを操作すればいいか教えて」
「私を……殺さないのか?」
思わぬ言葉にチャップは目尻に溜めていたものを溢れさせんばかりに聞き返す。
「殺すかどうかはお前の返答次第。その命はいま、お前の物じゃなくてこの私の手中にあるんだから」
左手で右の手のひらを指す。
そこから伸びる半透明の糸は、文字通りこの部屋における活殺を握っていた。
「お前は私以外にも迷惑を掛けてきた。その人達全てにお前を捌く権利がある以上、私が独り占めする権利はない。だから私の気が変わる前にさっさと教えて?」
「そ、そこの盤だ!お前の背後にある、側面の位置のやつがそうだ」
軽い脅しにチャップが早口にその場所を指示したので、私はニコッと軽く微笑んでから背を向ける。
思った通りあれだったか。
人生史上最高速で回っている私の思考もなんとなくその目星をつけていたけど、それでも確認は重要だ。
言質でそれも確認が取れたことだし、あとはチャチャッと解除しちゃいますか。
「最期に教えろ」
呑気に伸びする私の背後から、そんな呼び止めの言葉が投げかけられる。
「お前は本当にロナか?それともロアなのか?」
「さぁ、どっちかな?」
振り返ることなく足を止め、銀髪の後頭部へ手を回す。
お道化るような口調はロナで、色気の無いガサツな仕草はロアそのものだった私は、特に考えることなく思っていたことを口にする。
「それってさ、そんなに重要かな?」
思わず口元が緩む。
今まで散々そのことにこだわっていたとは思えない。なんて勝手で清々しい回答なんだと。
「結局ロナもロアも私にとってはコインの裏表。どっちであってもコインはコインなんだよ。だからどちらであってもその本質に差異は無いっていうのが正解かな?ね、対して重要じゃないんだよ」
「そうだな……確かにそんなことは私にとって重要じゃない─────」