神々の領域《ヨトゥンヘイム》16
「ウソ……そんな……アタシは、アタシは……」
しかし、それが良くなかった。
認識と理解は似て非なることであるように、セイナは優れた状況判断から『自分がフォルテを刺した』という情報だけを強く認識してしまい、何故そのような状況に陥ったのかを理解することを放棄してしまった。
だから俺と彩芽とは違って今の彼女には『自分が仲間を後ろから刺した』という残酷な真実を突きつけられた状態に等しく、それに動揺しない人間なんて居るはずが無かった。
「いや……いや……いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
セイナの悲鳴が閑静だった街並みに響き渡った。
普段の気高さなど微塵も無い年相応の少女らしい悲痛な叫び声に合わせ、手にしていたコルト・カスタムがスルリと地面に落ちる。
「セイ……うッ!」
髪を振り乱して錯乱するセイナへ声を掛けようとした途端、凄まじい激痛が走った。
(さっきの叫びで喉が……っ)
張り裂けた喉では声すら発することもできず、ましてや動くことすらままならない俺は、痛々しい少女へ弱弱しい視線を向けることしか叶わない。
「違う、違うわ!違うの……だからそんな眼でアタシを観ないで!!アタシは、こんなつもりじゃぁ……」
何度も何度も否定を繰り返し、セイナは贖罪を求める様に泣きじゃくる瞳を血で濡れた両手で覆い隠す。
その耐えがたいその現実から逃げ出してしまうように。
最大の希望が、最悪の絶望へと移り変わった瞬間だった。
もう今の彼女にこの状況へ抵抗する気力など残されてはいなかった。
「全く……驚かせてくれたよ」
そう言って軽い嘆息を漏らしたのは彩芽だった。
いつの間にか彼女の手には黒いハンドガンGlock26が握られていた。
「まさか私のコネクトを破るとは……でも────これで全部終わり」
彩芽はそれを折れていない右手で無造作に突きつけた。
俺の眉間に走るポリマーの冷たい感触。
まるで玩具の銃のように現実味の薄いこの銃は、Glockシリーズの中でも最軽量の部類に含まれている。
とはいえ、これほどの至近距離で銃弾を浴びれば流石の俺でもひとたまりもない。
彩芽はセイナのように躊躇ったりはせず、容赦なくトリガーに指をかけた……
ここまでか……っ
「────なーんてね」
人を誑かすようにそう言って、彼女はトリガーを引き切る前に銃口の向きを切り替えた。
跪く俺ではなく、その後方で錯乱状態に陥っていた少女へと────
「……!?やめろッッ!!」
パァンッ!!
俺の静止など聞かず、むしろそれを合図として彩芽は銃を撃った。
まるでその引き金がスイッチであるかのように、迸る火薬、発生したガスでブローバックするスライド、そして……銃口から放たれた一発の銃弾。排莢された空薬莢に掘られた英記表示の細部まで、俺が観ている世界の全てがゆっくりと古いフィルムのように流れていく。
「……え?」
長年の訓練からか、セイナはその聞き慣れた音に対し、感情を差し置いて身体の方が反応してしまった。
涙でぐちゃぐちゃになっていた彼女は視えていなかったのだろう。
無警戒に上げた額を護るものは何もなく、ただただ真っ直ぐに飛ぶ鉛の弾が吸い込まれて────
「……ッ」
僅かな血が宙を舞い、頭の中が電源を切られた機械のように真っ白になる。
朱い軌跡だけ残して、少女は俺の背後でバタリッと倒れた。
俺はその瞬間を直視することができなかった。
呆然とした視界へ代わりに映っていたのは、硝煙が燻る銃口を恍惚に満ちた表情で見つめる悪魔のような少女。
「あーあ、死んじゃった。もうちょっと駒としては使えそうだったのに」
壊れた玩具にがっかりするような子供みたいな態度。
本来であれば激昂して然るべきその様相に、今の俺は何も反応することができなかった。
腹部から湯水のように溢れていたそれが、俺の活動限界を知らせている。
もう自分一人の意志でこの肉体を動かすことはできないだろう。
……右腕が焼ける様に熱い……
視線を向けた先に映ったのは、朱い朱い斑紋。
さっき右腕に張り付いたそれには、彼女の熱がまだ残っている。
これがセイナであることを……俺は誰よりも知っていた。
「でもいいか。お前をこうやって窮地に追い込んでくれただけでも、十分成果があったと言えるかな」
そう告げた彩芽は、焼けるように熱いGlock26の銃口を俺の額に押し当てる。
鼻腔を掠める焦げるような臭いを伴って、銃口の触れている個所の皮膚が次第に炎症を起こしていく。
でもその程度、右腕に感じる彼女の熱に比べたらどうということは無い。
元より彼女に対する『 』を受け入れることが出来ず、外界からの情報全てをシャットアウトしてしまった俺の身体には、五感にまつわる部分が完全に機能を停止している。
唯一必要最低限の処理能力が残っていた脳内には、否定と肯定だけが渦巻いていた。
これは彼女のものではない。
いや、この温かみは彼女のものだ。
何度も何度も、何度も何度も何度も何度も同じ否定を繰り返しては、同じ肯定を繰り返していた。
条件が変わらないのだから、何度やっても答えが変わるはずが無いことは理解している。
それが判っていても何度も繰り返してしまうのは、その答えを受け入れてしまったら最期、本当にセイナの『 』を確定させてしまうことに他ならないからだ。
師匠を失ったあの時のように……
「さっきから黙ったままで面白くないな。もっと命乞いしてみなよ。そこで額を撃ち抜かれた女のようになりたくなかったらさ。それとも血を流し過ぎて本当に壊れちゃったのかな?」
「────────」
夕暮れ時のような虚ろに染まった俺の紅眼を、彩芽は覗き込んだ。
「まあ別にそれでも良いけど、でも本当に壊れているのか確かめてあげるねッ!」
「……っ」
彩芽が履いていた鉄板入コンバットブーツの鋭い蹴りが、貫通していた俺の腹部の傷へと突き刺さる。
微かに苦悶の表情を見せて倒れ込んだその姿を見て、彩芽は歓喜と狂気を綯い交ぜにしたような悦を口から漏らしながら、容赦なくその傷を痛めつける。
「ほら、ほら、ほら、ほらぁ!!もっと泣き叫べ!!その悲痛の声を私に聞かせてみろ」
べちゃッ!!ぐちゃッ!!
「父と母を利用して!!弟だって死ぬまで扱き使ってぇ!!」
べちゃッ!!ぐちゃッ!!
「私が今日までどんな気持ちで生きて来たかお前に判るかぁ!!」
べちゃッ!!ぐちゃッ!!
彩芽の心に秘められた憎悪が何度も俺の心を蹴りつけた。
その靴裏からは、まるで泥沼を踏みつけたような音が幾度となく発せられる。
黒かったはずのブーツは真っ赤な残骸で彩られ、黒いドレスから伸びる色白な脚にもその斑紋を飛び散らせた。
「はぁ、はぁ、こうまでしても悲鳴を上げないか」
柄でもないのに憎悪に任せて感情をを露わにした弊害か、彩芽は肩で息をしながら冷静にそれを分析する。
もう俺がロクに反応することが出来ないのは、単に喉が擦り切れ、血を流し過ぎたことで身体機能がマヒしているからだ。
いや、それは言い訳をしているのに過ぎないかもしれない。
まだ指先一つまで動かなくなったわけではないし、声だって擦れてはいるが痛みさえ我慢すれば出すことだってできるはずだ。
だが彼女を喪ったことで、それらを動かすための意志が折れた以上、肉体の状態に限らず俺の気力は削がれていた。
肉体的にはまだ死んでいない……だが、精神的観点で俺は完全に彩芽に殺されてしまったのだから。
「あぁ、いいことを思いついた」
しかし彩芽は何を思ったのか、見当違いも甚だしい思い付きで、持っていたGlock26を俺ではなくその背後にもう一度向けた。
「こうすれば嫌でも反応するでしょ?」
閉じかけた瞼の隙間に再び映った眩い硝煙の光。
彩芽はあろうことか、倒れて動かなくなっていた彼女の肢体を撃ち始めたのだ。
パァンッ!!パァンッ!!パァンッ!!パァンッ!!
パァンッ!!パァンッ!!パァンッ!!パァンッ!!
地面に仰向けに倒れた少女の身体がその音に合わせて僅かに上下する。
「……や……め……」
俺に対しての痛みなら幾らでも耐えてやる。
だからセイナには手を出すな。
そう思っていても声が出ない。
羽虫のようにか細い音は、火薬の音で掻き消されていく。
あっと言う間に銃弾を撃ち切った彩芽は、当たり前のように新しい弾倉取り出して再装填した。
「ほらほら、早く止めないと穴だらけになっちゃうよ?」
ワザとらしく銃を俺の目の前で弄ぶ彩芽。
それを奪おうと何とか伸ばしたその手を、彼女は軽く弾いてからケラケラと下卑た嗤いを漏らした。
「いやー驚いたよ。それだけの血を流しておいてまだ動けるなんて。でも、頑丈なのも考えものだよね」
鉄板入りのブーツが俺のことを再び蹴り飛ばす。
横たわっていた俺の身体は、血だまりの中で百八十度向きを変えさせられる。
その視界に映ったのはボロボロになった彼女だった者の無残な姿だった。
白かったブラウスには幾つもの焦げた弾痕が残り、黒いプリーツスカートとニーソックスは所々擦り切れていた。
そこから覗く真珠のような肌にも痛々しい傷が増えており、額からもツゥーと血の跡が残っている。
きっと、痛かったに違いない。
苦悶に歪んでいるであろう表情は、幸いなことに黄金色の前髪に隠れているが、俺はそれ以上その姿を直視することができずに視線を背けようとする。
「逃げるな。よく見ろ」
彩芽はそれを俺のこめかみのあたりを踏みつけることで阻止してくる。
「これが、お前が護ろうとした者の末路だ」
そう言って彼女は再び堰を切ったように嗤い出した。
まるで悪魔に取りつかれたように、閑静な街並みにたった独りの嘲りだけが支配する世界。
非現実的とも呼べるその空間で、俺の思考は倒れたセイナのことでいっぱいになっている。
初めて出会ったその時から今日までの記憶が走馬灯のように駆け巡る。
愉しかった時、悲しかった時、苦しかった時、嬉しかった時。
数か月とは思えない思い出の数々。
そんな喜怒哀楽に満ちた少女の末路が、こんな呆気ないものであっていいはずが無い。
無残な姿を晒す必要も、痛めつけられる謂れだってない。
こんなところで彼女は、セイナは『死』んでいいような奴じゃない。
そう認識してしまった瞬間、変化はすぐに訪れた。
────────ドㇰン!
鼓動が一つ、大きく脈を打つ。
『俺』と定義されていた部分が暗転し、ずっと内包されていたものが表出する。