ネモフェラのお告げ4
プロペラを停止させ、扉を開いたセバスに導かれるよう悠々と降り立つベアードは、攻撃的な態度を受けてもその態度は崩さない。
「ベッキー君、君のお父様には色々と世話になっているところ申し訳ないが、生憎すぐに用意できる予算は無い。その手の話しは事が落ち着いたらにしてもらえないか?」
「あ゛゛ぁ゛゛っ!?金が無い??」
ベッキーの頬がジェットコースターの急降下のように垂れ下がる。
『金が無い』その単語を聞いた彼女はまるで、便所の汚物を見るよりも凄惨な嫌悪を隠そうともしなかった。
「おーいおいおいおいじょーだんじゃないぞ。誰のおかげでそうして悠々自適に過ごせていると思ってんだ?私がくれてやったグラースプジャマー(認識錯誤の指輪のおかげで頭に真ん丸風穴開けずに済んだのを忘れたのか?」
『グラースプジャマー』
恐らくはベアードがさっき命拾いしたと言っていた認識を妨害する指輪のことだろう。口ぶりからどうもあれはベッキーが作成した商品だったらしい。
まあまあとロナが宥めようとするが、それでも怒りが収まらないベッキーはさらに食って掛かる。
「こっちは幾つかの商談を蹴ってまでお前を優先したってのに金がない?そりゃあギャンブルで金が無いのと同じだ。話しをする資格も無い。全く、魔術しか興味の無い田舎魔女の言葉なんか信じた私が馬鹿だった」
恨み辛みを吐き捨てながら、あろうことかそのまま帰ってしまおうとするベッキー。
その態度にベアードもアルシェも互いに肩を竦めている辺り、大方こうなることは予見していたらしいが、俺はその身勝手な態度に我慢ならなくなって、ベッキーの手を強引に引き寄せていた。
「痛いな。離してくれないか貧乏人。ここに来るまでの損失を請求しないだけでも、君達は頭を垂れて見送るべきだろう?」
「ふざけるな、少なからずお前は今の事態について説明を受けているはずだ。それが判っているのなら協力するのが────」
「ふざけているのは貴様だ」
手を握られたままのベッキーは、もう片方の手で俺の胸元を掴み引き寄せる。
見た目に反した人の物とは思えない剛腕に抗うこともできず、顔とか顔とが密着するほどの距離まで詰められた俺の瞳に、彼女の無機質な瞳が乱反射している。そこには感情らしいものはなく、あるのは俺という一つの固体に対しての認識のみだけである。
コイツにとって自分以外の他人は、全てがそうした固体としか捉えることのできないような。まるで機械染みた無感動さが不気味だと感じた。
「君の言う通り私は全て聞かされた上でこの場を選んだ。将来に繋がると信じてな。そうして来てみればなんだこの体たらくは?うちは無償で武器を提供するようなボランティア企業じゃないんだぞ。それを緊急事態だから口約束で貸してくれだなんて都合が良いにも程がある。大体、その例の戦艦とやらを追えているのも、そこのアイリス嬢がしっかりお金を払って購入してくれた弾丸のおかげじゃないか」
そうなのか?と、半眼で訊ねると、眠ったままのアイリスは一度お船を漕ぐように頭を揺すった。
「分かったか?私は自分の技術を安く提供はしない。私にとって君達がどのようにしてここまで来たのか知らないように、君は私がどのようにしてここまで這い上がってきたのかを知らない以上。信じられるのは金だけだ。話しをして欲しかったらまずはその純粋な信頼を持ってくることだな。もっとも、これから始まる特需景気に値するほどの額を用意できるとは思えないけどな」
武器を商品とする彼女にとって、戦争が起こることは寧ろ好都合。
あくまで善意における協力は全くしないつもりのようだ。
「このっ……クソ野郎」
「それは商業を営む者に対しては最高の誉め言葉だよ」
その言葉を最後に俺の耳元で舌なめずりして見せたベッキーは、手を振り払ってその場を後にする。
「幾らだ」
「なに?」
澄んだ赤紫の髪がばさりと振り返る。
「幾ら出せば売ってくれるんだ?」
まだ額を聞いていない。
答えによってはまだいくらか救いがあるかもしれないと、そうだなーと呑気に顎をしゃくる少女の姿に僅かな希望らしい何かを抱いてしまう。
「貸し出しでざっと一億だ。秘密保持の制約やら込みにしてな」
「一億……」
「もちろんドルでな」
その思いは完膚なきまでに粉々とされた。
一億ドル。日本円にして三百二十七億七千九百七十二万。
元々の俺の借金、十億と比較にならない額は、眩暈を通り越して卒倒してしまいそうなほど強烈だった。
しかし、セイナを救うためには手段は選んでいられない。
「分かった。どうにかしよう」
「はっ?どうにか?私はつまらない嘘が嫌いなんだ。できないことを安請け合いするもんじゃないよ」
「いや、約束する。借金でもなんでもして必ず返済する。必要なら、この命を担保にしたって構わない」
「ダーリンそれはっ」
「何言ってるんだ君は!?」
そう言い切ると、ロナとアルシェがその愚行を引き留めるように同時に声を上げた。
自分でも馬鹿なことを言っていることは理解している。
「ふーん、君の命を?」
尠少ながらも興味を抱いたらしいベッキーは、小動物のような気安さで近づいてはマジマジと俺を観察する。
「うーん。やっぱダメだ。君の体質は特殊だが、だからといってうちの社の人間の生活には代えられない。私一人の口約束ではいはいと返事するわけにはいかないんだ。ま、君が私の犬になるというなら、もうちょっと譲歩してあげても構わないけど……」
「いいよ。何すればいいんだ?仕事か?それとも他の何かか?」
なりふり構ってられない俺は、ロナ達よりもさらに小柄な体躯を掴んで引き寄せる。
その食い気味の態度に、やや気圧されたベッキーの頬に球粒の汗が流れた。
「じゃ、じゃあ……まずは私の脚でも舐めて忠誠の証でも────って、ちょ!?」
きっと、彼女も本気にしていなかったのだろう。
大統領などの観衆が見守る中でそのような倒錯的行為に及ぶことなどできないと踏んで、わざと意地の悪い注文を付けたのだろう。
しかし、言い終える前にしゃがみこんだ俺が躊躇なく黒いニーソックスに包まれた細脚に舌を立てようとしたことに、流石のベッキーも動揺して後退る。
「しょ、正気か君は!?こんな観衆の前でどうしてそんな躊躇なく……」
「決まっているだろ。助けたい仲間の為に必要なことだからだ」
セイナを救わなければならないというある種の本能衝動に駆られる俺に、もう周りの静止は聞こえない。
借金に追い詰められた者の末路は、醜く、悲惨だ。
でも、そうするしか手段が無いのなら、俺はもう迷うことはない。
その覚悟は、師匠に誓ったのだから。
「全く……君のような考えなしの思考は予測できない。どうしてそう他人に入れ込むことができる。本当、私には理解できない感情だよ」
「なんとでも言えばいい。そのアンカースーツを貸してくれるのなら。今の俺ならこの世界だって敵に回して見せる」
睨む少女に俺の慧眼が鋭く迎え撃つ。
プロペラの風圧も止んだ広場に照り付ける太陽の下、互いの意志をぶつける様に睨み合った末。
「あーやめやめ興ざめだ」
先に折れたのはベッキーの方だった。
「私がそんなこと考えるなんてどうかしてる。そもそもこんな悪ふざけは興が乗った悪癖に過ぎないし、見たかったのは君が慌ててる惨めな姿だ。私が人前で動揺した様を目撃したことに対して金利を取らないことに感謝するんだな」
呆れた様子で今度こそ彼女は本当にその場を後にしようとする。
「あ、あぁっ!!」
突然、あざとい悲鳴と共にロナが倒れ込んだ。
投げ出されたノートPCが平地を転がる様に、俺はおろか、ベアード以外の全員が怪訝顔を浮かべていた。
「し、しまったー。ダブルヘキサグラム社の不正を纏めているノートPCを、誤って落としてしまったー」
「なに?」
きっと撮影監督が居たのなら殴られているであろう棒読みの台詞だが、やり手の女社長を呼び止めるには十分な効力を発揮していた。
「私達に不正なんて有り得ない。統括しているのがこの私である以上、そのようなことは断じて────」
「そう、ベッキーの会社には無かった」
食いついたことに、ロナの表情が小悪魔のようにほくそ笑む。
「でも、お父様の会社はどうなのかな?」
「っ!」
痛いところを突かれたことに、ベッキーの表情が青ざめる。
「ダブルヘキサグラム社におけるアメリカ合衆国契約条項六の十二節『本国に対し敵対している国家、及びそれらに加担する可能性のある国家への輸出を禁ずる』さっきの電波ジャック放送から既に聞き及んでいるでしょうけど、あの映像の中には親会社であるアメリカ支社が敵対国家に加担した不正が紛れている。気づいていない者も多いと思うけどね。だからこそアンタはここにやってきた。大事な商談をキャンセルしてまでね。もしもの口封じためにわざわざこんな最新技術まで用意してくるなんて、流石は経営者の鏡だよ」
「……解せないな。そこまで分かっているなら、どうして初めからその話しを出さなかった」
隠し通せないと判断して開き直るベッキー。
不正を認めた決定的証拠だ。
しかし、ロナはそれを喜ぶことなく銀のツインテールを左右に振る。
「こうして脅すことは簡単。でもロナ達が求めたいのはあくまで協力だよ。ベッキーの事情も、その上でこの技術がどれほど大切なことかも重々理解している。でも、どうか今回だけは────」
「ふん、幾ら繕っても。脅している事実は変わらない。だが分かった。私の事情を理解していると言ったからには後でキッチリ金は請求させてもらった上に、この件の火消しにも付き合ってもらうぞロナ・バーナード」
会社を盾にされた瞬間、梃子も入らないほど簡単に折れたベッキーにロナは大きく頷いた。
「もちろん。この技術をお貸し頂けるのであれば喜んで。その為の資料も既にこのノートPCに用意してある」
さっきまでずっと弄っていたノートPCを渡すと同時に、ベッキーは素早くスクロールしては中身を確認し、それが納得に値するものであると判断してすぐさま閉じる。
「つまり……この兵器は使用してもいいってことか?」
「鈍いな君は。本来は先払いでしか引き受けないのが私の主義だが今回はことが事だ。後払いで応じよう」
ベッキーは手をひらひらと振って降参降参と嘆く。
女社長を僅か数回の会話で懐柔してしまうロナの腕前には驚きだったが、何よりその抜け目無さは流石と言わざるを得ない。
「そうか、悪いな……」
「何故謝る?」
「だって、コイツはお前にとって子息のように大事なものなんだろ。それを借り受けるんだ。断りぐらい入れるさ」
この兵器について語る彼女の表情は、体躯に似合わない母性のような温かみが滲み出ていた。
それは決して、ただの商品に向けられるものではない。
もしかするとこの少女にとって兵器は……
「……所詮はただの兵器さ。人を傷つけることを目的に作られたね」
深い溜息が夏空に入り混じる。
「さっさと持っていけ。そこのCIA副長官様の言う通り口封じとして持ってきたんだ。あの戦艦に対抗するだけの装備はたんまり積んである。全く、バカ親父の負の産物とはいえ、こうして身内の不始末を対処しなければならないとは……」
家族というものはつくづく因果で煩わしいものだ。ベッキーは独り言ちる。
その物言いに対し、疑問を抱いた俺は眼を眇めていた。
「親父の負の遺産?なんのことだ?」
「うん?あぁ、そうか。君達はあの戦艦がどうやって生み出されたのか知らないんだったな」
西の空。今まさに戦時空域と化した日本海上空をまるで故郷でも見つめるような哀愁を向けた彼女は、それと同時に醜態に抱く怨嗟の味を忌まわし気に口の上で転がした。
「あの飛空戦艦『ヨトゥンヘイム』は。不肖、私の父が作った最高最悪の神器さ」