混沌が始まる日8
「……ッ」
両手をテーブルに突いて勢いよく立ち上がったことにより、腰掛けていたオフィスチェアがガチャリと倒れて皆の会話を遮断した。
あっ……
そう思った時には既に周囲の注目を集めてしまった。
「す……済まない、何でもない」
一体何に対して謝罪したのか自分でも分からないまま椅子に座り直す。
本来所持していることはおろか、使用するべきでない核を軽々しく使うと言ったことに対してか。
それとも撃破することに躊躇の無い川野氏に異議でもあったのか。
どうして反射的に身体が動いてしまったのか、自分でもよく分からなかった。
そう、分からないのだ。
セイナを救いたい。その気持ちに偽りはない。
でも、どうやって……?
場違いな態度で途切れた会話の代わりに向けられる様々な視線、その中でも皆の事情を把握しているロナが見せた、憐憫にも似た憂いが一番痛かった。
「……一つ訊きたい」
思わぬ人物が最初に声を上げる。
場の雰囲気など気にも留めず、問いただすような冷徹な口調を響かせたのは川野だった。
元々威圧的な顔つきで仕方のない、睨むような正眼が俺を射抜く。
その合間に鼓膜を刺激する、アナログ針の時計の音がうるさい。
しばらくそうして値踏みを済ませた川野がようやく言葉を紡ぎ始める。
「今回の件、アメリカからのヨトゥンヘイムに関する情報提供は感謝している。だが、その見返りがどうして金や条約といった直接的なものではなく、その若造を本件に関与させることのみだったのだ?」
「え?」
その内容は驚嘆に値するものであった。
よって、最初その意味が自身へと向けられていると気づくまで数秒を要してしまう。
「え?じゃないだろ。お前自身が望んだことではないのか?ベアード殿からは情報と引き換えにそれら協力する権利求められたからこそ、私はずっと超法規的処置などの手続きに追われて都内を駆けずり回っていたのだぞ?」
詳細を聞いても理解できず、関与あるベアードの方を見やる。
彼は瞳を閉ざしたまま、俺にだけ分かるほど小さく口の端を緩ませた。
まるで『お膳立ては澄ませた』と言っているような表情だった。
「とにかく、私はまだお前がここにいることを認めてはいない。どんなに実力があるとベアード殿や総理が提言しようとも、お前自身の明確な意思が伝わらない限りは直接的協力をすることはできない。これは防衛大臣としてではなく、川野小太郎一個人として問いかけている」
途中、宥めようとした総理すら手で制して言いきった川野氏。
そこまで言われてようやく気付いた。
彼が言わんとすることを。
初老の顔に似合わぬ若者のような眼下の隈。恐らく数日は眠っていないのだろう。
彼の機嫌が悪かったのは、マスコミ相手の無用な仕事に振り回されていたからだと勘違いしていたが……どうやらそうではなかったらしい。
自分でも気づかなかった俺の動揺を彼はいち早く見抜いていたからだろう。
超法規的処置。
聞くだけなら簡単だが、国としてそれは本来起きてはならない法を無視した行為。
『君の人望が君自身をここまで連れてきたんだ』
さっきのアイリスの言葉が脳裏で再生される。
俺がこうしてヨトゥンヘイム攻略の最前線に居られる手筈も、皆が整えてくれたものだ。
勿論それは俺のことを知っているロナやベアードのみならず、眼の前にいる川野氏のような面識の無い人物も数多く含まれているだろう。
さっきの当惑は、そうした俺という人物を知らない人達に対する想いを踏みにじる行為に他ならない。
彼らは俺のことを信じる者に説得され、間接的に俺のことを信頼しているのだ。
そうまでして連れて来られてここに何をしに来たのか、決して会議を邪魔するためでない。
もう、覚悟は決めたじゃないか。
『どんなことがあっても彼女を護る』
数時間前、師匠に誓った思いが胸の内で呼び覚まされた。
「囚われた仲間を救うためだ」
初めて漏らした私情に、川野氏の獰猛な顔つきはピクリとも動かない。
激情を露わにすると思っていたが、最後まで話しを聞いてくれるようだ。
なら躊躇う必要はない。
それから俺は、今までひた隠しにしてきた事実も含め、全てぶちまけるつもりで口を開いた。
イギリス政府に頼まれて神器を回収する契約を結んだこと。
ヨルムンガンドと呼ばれる神器に関与を持つ組織と敵対したこと。
日本でもアメリカでもそれに纏わる依頼を少なからず受けていたこと。
そしてそれは……相棒である少女のことも含まれている。
「あそこに囚われているセイナ・A・アシュライズは、エリザベス三世の実娘であり、リリー王女の実姉でもあるイギリス王室の王女様であるが。そんなことはどうでもいい。俺は彼女を一人の相棒として救いたい。ただそれだけのためにここに来た。そのためならどんなことでも引き受けるし、邪魔するのなら……」
「もういい」
最後の言葉を待たずして、川野氏は長い証明に終止符を打つ。
唐突な暴露は少なからず動揺めいたものを皆に与えてしまったが、俺一人が秘密を暴露した責任を負うことで、誰かがいがみ合う結果とはならなかった。
「……」
しかしだからこそ、俺へと向けた川野氏の言葉には険があるように感じた。
正眼に睨まれ、最悪の事態も危惧して身構えるなかで彼が口にしたのは、深い深い溜息だった。
「口から漏らした言葉は死んだ後も責任を持て。私の座右の銘だ。色々と物申したいこともあるが……」
そう言って彼が最初に見たのは俺ではなく、端の席に腰掛けて紅茶を優雅に頂くセバスだった。今の話しを聞いて一番ドギマギすべき人物は一切の動揺を見せていない。まるで、そうなることを予見していたように。
「とにかく、今ここで宣言したことには責任を持て。途中で曲げたと私が判断したら、その瞬間から日本は君の敵となるだろう」
つまりそれは裏を返すと、裏切らない限りはセイナ救出に協力してくれるということらしい。
一番堅苦しい人物がそう折れてくれたことで、会議室全体がどこか胸を撫で下ろすような一体感で包まれる。
「それにしてもまさか、リリー王女に双子の姉がいたとは……」
「確かに、時折彼女は人が変わったように淑やかさが抜け落ちて雄々しく振舞うことが何度かあったが、そういった事情があったのか……」
驚嘆に値する秘密を前にして、感慨深く意見交換する国のトップ同士。
色々と思い当たる節があったようだが……まさか姉が時折入れ替わっていたなどゆめ思わなかったらしい。きっと、セイナの偽装が完ぺきであったのだな……と、いうことにしておこう。
「それはそうと、作戦上は難度が格段に上がったことに変わりない。ヨトゥンヘイムは撃墜することはおろか、接近さえ難しいんだぞ?フォルテ、救いたいと思う気持ちは立派だが、何か手段でもあるのか?」
「それは……」
現実主義なジェイクの言葉に、俺は押し黙る。
三国の意思が一つに纏まったが、それは話しが進んだように見えて実は、味方同士で争うマイナスからようやくスタートラインに立ったに過ぎない。
ゴール地点は見えていても、そこに到達するための手段を俺達は持ち合わせていなかった。
「────いや、一つだけある」
再び訪れた沈黙を引き裂くようにして、一人の人物が会議室の扉を開けた。
「お前は……!?」