満月夜の餞別《ドラゴンスレイ》5
普段の彼女らしからぬ断言が魔力に反響する。
何人たりとも入ることを許さない、透明なガラスに血液を染み込ませたような朱い結界。
不意に、風に煽られて落ちた一枚の木の葉が彼女の絶対不可侵領域に触れた瞬間、音もなく細切れに掻き消えた。
その光景に背筋が凍った。竜はその居合の姿勢を崩さないままに……いや、崩していないと錯覚させるほどの超高速で結界に触れた木の葉を砂粒よりも小さくバラしたのだ。
「『絶対斬殺距離』……結界展開後、触れた万物全てを灰燼と化す死の十尺十寸。私はあと三十秒はこれを維持していられるのに対し、君の魔力は残り二十三・六七秒。人の身でこれを破ることは絶対に不可能である以上、私の勝利が揺るぐことは断じてない……」
「……」
惜しかったな……悪鬼は月夜に微笑む。
仮に今ここから逃げ出したとしても、数十秒足らずで竜から逃げ切ることは不可能だ。
「魔眼とはこう使う。君の敗因は己の力に過信して感情に身を任せたところだ。あれほどそれはダメだと教えたのに……悪い子にはキツイお仕置きが必要だね……」
「……」
「そこに直れ、動かなければ楽にその首を斬首して────」
カチャッ────
放り捨てた銃が石垣の上を転がるのを、竜は秀麗な眉を僅かに動かした。
ガダッ……ゴト……!
手榴弾に閃光弾、予備のマガジンにレッグホルスターと、要らない物は全て外していく。
ほんの僅か重力の支配から抜け出した身体が、竜の奥で掛かる橋、その上部で美しく地を照らす満月を見据える。
こんな清々しい気分で月を見たのは、一体どれほど久しぶりか……
絶体絶命であるにも関わらず俺の心は凪のように穏やかで、敵前としては恐ろしいほどに落ち着いていた。
色彩の移り変わりが激しかった視界は白黒で統一化され、鼓膜は竜の呼吸、心音、魔力の流れと全てが彼女の物で独占される。
偶然だった。
三日間に及ぶ暴力と薬物による外的損傷。
仲間喪失、陰謀による心身負荷。
師匠の再来と相棒を奪われた焦燥感と独占欲。
極めつけが限界で使用した魔眼による重度の過負荷。
フォルテ・S・エルフィーという人物は、疾うの昔に己が限界の先に到達していた。
『無心の境域』。
月影一刀流における全ての型に通ずる心掟として竜が定めていたものであり、皮肉なことに師匠はそれを感情を殺すことで顕現していたのに対し、弟子はその真逆、感情を飽和させることで体現して見せてしまったのだ。
「何だい……その構えは?」
右脚を引いた半身の後ろに小太刀を逆手に持った右手をぶら下げる。
丁度、相反する師匠と左右対称となるような形だ。
問うた師匠ですら知らないこの型は、今の自分に一番適していると俺自身が導きだした答えだ。
「まさか、まだこの私に勝とうとしているのかい?そんなボロボロの身体で。一度だって勝てたことのない相手に君は本気で……」
圧倒的不利に晒された俺が敗北を認めるものだと思っていたのだろう。
僅かに咎めるような口調で困惑を露わにする竜の姿を両の眼で捉えていた。
最も、言語などという余計な思考は既に排除されているが故、どれだけ彼女が懇願しようがもう止まることは無いだろう。
『斬る』そのために必要なこと以外は全て捨て、ただ一つ、右手の刃に全神経を集結させる。
すると、一見して隙など皆無とみえる竜の結界にいくつか、僅かながらの歪みを感じ取っていた。
その内の罠として張られている部分を丁寧に取り除いていき、彼女の本当の『隙』を手繰り寄せていく。
まるで、時限爆弾を解除するために何百本もの線からたった一つ正解を探すような気の遠くなる作業だ。
しかも正解だと思っていた線はコンマ数秒単位ではずれへと変貌する。
迫る時間、おまけに少しでも気を緩めようものなら瞬間で首を落とされかねないこの距離で、普段なら小言の一つや二つ漏らしていただろう。が、その感情も捨てていた俺は計算のみに集中しきっていた。
達人同士の戦闘は『動』より『静』が多い。
これは相手との読み合いを制するためでもあり、彼らはその必殺を外すことはすなわち死に直結すると理解しているからだ。と師匠から聞いたことがあったが……
これがそうなのか。
他者から見れば半身に構えたまま動かない両者と見誤るだろう。
しかし、俺達は今この数秒の内に、数千、数万ものやり取りを交えていた。
指先の僅かな動き、視線誘導、動体フェイント、相手の五感のみならず第六感にまで様々な揺さぶりをかけて、眼に見えないほど微細な『隙』を顕在化させていく。否、形成すると言った方が正確やもしれない。
師匠に本来『隙』など存在はしないのだから。
それは、単に竜が強いからという理由ではなく、彼女は一度だって他人に気を許したことがないからだ。
かつての相棒であり、恋人であったフォルテもその例外から外れることなく、彼女は永き年月を重ねる内に、他者というものに気を許すという行為を忘れてしまった生き物なのだ……ということをフォルテ自身は知らない。
そんな少女と睨み合う刹那の刻。
おそらく人生で一番永く感じた数舜の後、俺は絡まった無数の蜘蛛の糸から、たった一本の細く、細い一つを見出した。
僅か一パーセントも満たない今にも途切れてしまいそうな可能性。
普段なら躊躇っていたであろう。
俺は迷うことなくその無に等しき可能性に己が全身全霊を賭ける。
敵が誰であろうとも、たった一パーセント未満の可能性であろうとも……もう逃げはしないと自身に誓ったのだ。
セイナを……大切な人を救うことができるのなら。
刻が『静』から『動』に切り替わる。
先に動き出したのはもちろん俺だ。
ここまで培ってきた布石全てを回収するかの如く、見定めた竜の『隙』目掛けて石垣を蹴る。
バチンッ!と一度夜闇に響いた空気音は、原理や常識を超えた脚力がその一蹴りで亜音速にまで到達していたことを指していた。
月影一刀流『弥生』
弟子が『隙』を突く刺突技で来ることは、師匠の竜も予見していた。
それでも、見せた隙は一パーセント未満に留めた。
万が一が起きない限り竜の勝利は揺るがない。
確信する少女、結界に飛び込んでくるかつての相棒を斬るべく、鞘から刃を走らせようとした寸前。
ズサササァァァァッッッ!!!!
「ッ!???」
その光景に眼を見開いた。
あろうことか、俺が攻撃の途中で急停止を掛け、結界の手前で減速している。
まさか、今更怖気づいたのか?と、決意に満ち足りていた思いを全否定するような行為を、竜は信じられないと様子で見ていた。
その迷いに付け込む。
俺は全力で跳躍と全力で停止しかけたことで生じた運動エネルギーをバネの要領で両脚に溜め込み、結界に触れる寸前で初速を大幅に上回る速度で再加速した。
自身の身体が壊れることさえも厭わない最後の一撃は、音も感情も、勝つために必要なこと以外すべてを置き去りにしていく。
結界内では絶対と謳っていた彼女の斬撃は、反応が遅れたことで全て空を斬り、一度も掠らせることなく俺は飛翔し続ける。
心音すら忘却とした不退転の一撃が触れる寸前────
ふっ────
少女が微かに微笑んだ気がした。