満月夜の餞別《ドラゴンスレイ》2
海底に映る丸い月が夏の半宵に深々と飾られる。
寝苦しい夜が運ぶ海風は肌に張り付き熱を帯びていた。
まるで死闘を前にして空気が沸き立つような錯覚に囚われながら、俺は品川第六台場に降り立つ。
数百年前の幕末時、外国船舶から日本を護るための拠点として埋め立てられた人口の弧島。
解放されている第三台場跡と違いここは一般人立ち入り禁止となっているのと、孤島というだけあってマリンバイクで訪れた俺を抜いて人の気配は皆無だった。
聞こえるのは車が駆ける排気音。
なんせこの孤島は東京港連絡橋のすぐそばにあり、視線を上げれば七色に彩られた巨大な吊橋がその存在感を示していた。
そのおかげもあって、照明なんてない島は思いのほか明るく視界はさほど悪くない。
目印も導きもない海岸沿いの砂浜をを勘のみで歩いていると、潮風で錆びた青銅の大砲群が目に留まる。
幕末に攘夷運動をしていた志士が実際に使用していた名残。
しかし、こうして見ると恐ろしいものだ。
たかが数百年で人はあの粗悪な大砲から、海を跨ぐ精緻な吊橋を作り上げるまで進化してしまうのだからな。
妙な不気味さを覚えつつ歩みを進めると、砂浜が平らな石垣の道に変わる。
ちょうど島を半周程回った頃だろうか、その石垣の道に見知った黒のセーラー服に身を包む少女が佇んでいた。
「やぁ……今日はあの日と違って月が綺麗だね」
背を向けた彼女が天を仰いだまま呟いた。
その小ぶりな手が漆喰の鞘に収まる忍者刀を握りしめている。
暗がりの中で時折月明かりでギラつくそれは、今にも鞘から殺気が溢れてくるのではと錯覚してしまう。
「てっきり怖気づいたかと心配したけど、ずぼらな君が時間きっかしとは……よっぽどあの少女が大切だったのかい?」
「……あぁ、昔のアンタと同じようにな」
振り向くと同時に揺れる黒髪を傘のようにふんわりと広げ、竜はその墨黒の瞳をこちらに向けた。
柔らかい物腰から見せる憂いに満ちた表情。
今朝の人物とはまるで別人の、あの頃と寸分違わぬその雰囲気。その瞞物に淡い希望のようなものを抱きそうになってしまう。
いや……
俺は心の中で否定する。
覚悟は……決めてきた。
もうその容姿に惑わされることはない。
「セイナは何処にいる?」
何とか平静を保てている俺は、僅かに上擦りそうになる喉でそう呟く。
すると竜はつまらなさそうにアンニュイな表情を浮かべてから、島の内陸側へ視線を向ける。
木々の中の一本、その根元に夜闇でも輝く金の髪が目に映る。
「……セイナっ!」
思わず漏れた相棒の名前に反応は無かった。
どうやら未だに眠っているらしく、幹を拠り所にする肩はスヤスヤと上下に揺れている。
特に目立った外傷は無い。
それどころか、最近は多忙だった彼女の寝顔は穏やかで、時折口元を緩ませては垂れそうになるよだれに舌鼓を打っていた。
囚われの姫にしては少々品が無いが、お転婆な彼女らしくて安心感すら覚えてしまうのはいかがなものか。
助けにきておいて、我ながら複雑な気持ちにさせられる。
「……君もそういった表情を、私以外の異性へ向けるようになったんだね」
嬉しさと寂しさを綯い交ぜにしたような声。
視線を戻すと竜は漣に掻き消える程の小さな吐息を漏らしていた。
「本当に彼女が大切なのかい?」
「あぁ……」
「君のそれは相棒としてかい?それとも……恋人として大切なのかい?」
「……なんだそれ、嫉妬なんてアンタらしくない」
「はぐらかすな。私の眼を見てハッキリと答えろ」
心を読める隻眼が真っ直ぐこちらを見据える。
墨黒の瞳に魅入られた俺の身体は硬直し、呼吸すら危ぶまれる程に緊張を促す。
冷やかしとかではない、本気で竜はそれを聞いているのだ。
不意に、脳裏を巡る彼女との記憶。
「……俺は……」
たかだか数か月。
長いようで一瞬の、辛く苦くも駆け抜けてきた日々。
背を預けては戦い、笑い、泣き、様々な感情を与えてくれたセイナとの思い出達は、独りだった俺の心に忘れていた感情を与えてくれた。
彼女の前……あの祭りの日はその思いを口にすることは叶わなかったけど……
今ならハッキリと判る。
「俺は……セイナのことが好きだ。その気持ちに嘘偽りはない」
夏の夜風が立ち尽くす俺達の間をすり抜けていく。
虚飾無い自身の思いをそのまま形にした言葉。
だから、眼を逸らすことはしない。
自分の気持ちを、彼女を思う気持ちに嘘はつきたくないから。
どれほどそうしていたか……
気づけば風は止んでいた。
長い……永い間見つめ合っていた俺達は、瞬きすることすら忘れていた。
「もし……その思いを通すために、私や、世界が敵になろうとも、君はその意思を曲げるつもりはないのかい?」
彼女には俺の思いが嘘ではないことを見抜いているのだろう。
そのうえで、俺自身の意志の強固をはかっている。
俺がセイナのことを本気で思っているのか、その真偽を問うために。
なら、逃げることはしない。
たった一歩後ろに、いや、ほんの一瞬でも気を緩めれば今にも首を落とされかねない数メートルの短い距離。
俺にとっては届かない絶望の距離で、竜にとっては片手で物を取るくらいの気休めの距離。
けど、絶対に逃げない。
「曲げない。たとえ世界が、最愛の友や尊敬する師匠が、どんな相手が敵になろうとも……俺は彼女の味方だ。それだけは、死すると判っていても絶対に曲げない、俺はそう……誓ったんだ」
セイナにも……そして、自分自身の意志にも。
僅かに見開く墨黒の瞳と、ほとんど変化のない表情。
桜色の花弁を思わせる唇の端が、ほんの少しだけ口角を上げたように感じたのは気のせいだろう。
「それを……かつての師匠の前で告げるか」
まさか、俺の覚悟がここまでのものとは思ってもいなかったのだろう。
漣にも敗けることのない不退転の叫びに、竜の反応はそっけなくもどこか哀愁すら感じさせる。
「言っただろ。誰であろうと関係ないと」
「師弟関係であり、肉体関係でもあった相手にもか?」
「……昔の話だ。俺は今を生きている。いつまでも過去ばかりに囚われるようなことはしない」
いつも俺は過去にばかり囚われていた。
失敗や苦難、嫌なことばかりを引きずっては、また同じ過ちを繰り返す。
今朝だってそうだ。
師匠の幻影に動揺して、危うく今の自分にとって一番大切なものを失ってしまうところだった。
だからもうやめるんだ。
過去ばかりに眼を向けて、今から眼を逸らすことを。
「そうか、君の覚悟はよく理解した。あとは行動で示して見せろ。己が意思の正しさを……」
忍者刀を胸の前で握り、抜き放つ。
月影を纏いて白銀の刀身が震える。
目標に向けるよう構えた姿は、シャドーと同じ片手正眼。
「言われずとも、そのためにここに馳せ参じたのだ」
対する俺も村正改を鞘から抜き放つ。
半身の身体の前に両手を構えるPeek-a-Booのような構え。
胸元の防御が薄くなる代わりに攻撃力と速攻性を重視した俺独自の構えだ。
脱力した右手には、竜と相反するように逆手に握られた小太刀が月明かりを集めている。
「『月影一刀流流祖』竜、貴様の命、その決意ごと刈り取ってくれる!!」
ずっと、抑えつけられていた殺気が解放される。
真夏の熱気が魔力で屈曲し、石垣の道からはキシキシと歪みを生じさせる。
野性の柳が無風の夏夜に激しく揺れるなか、相対する俺は寸分とも構えを崩さない。
もう、今朝のように怯えることも、逃げることもしない。
静かに右眼を閉じ、深呼吸と共に集中を極める。
滾り、漲る血の鼓動が一度大きく跳ねた。
その力に飲み込まれるのではなく、受け入れるように右眼の器へと流し込む。
焼けるような熱が瞼の淵から溢れるように、紅光の力が瞳に宿るのをこれまで頼もしいと思ったことは無い。
「さぁ告げろ。この刀に刻む、貴様の名を!!」
「…………」
竜巻のように強大な叫びに充てられて俺は瞳を開く。
敵の姿を捉えんと、紅く赫赫しい瞳を黒髪の少女へと向ける。
「我が名はフォルテ、『フォルテ・S・エルフィー』。月影一刀流流派にして、その師を撃ち滅ぼす者なり」
Sは俺が日本で生まれた時に名付けられた苗字から取ったものだ。
あれほど嫌がっていた師匠に付けられたその名は、俺の過去も今も同時に思い出させてくれる、自身を自身たらしめる素敵な名前だとこの時初めて気づいた。
「行くぞ竜ぅぅぅぅっっっ!!!!」
「来い!!その思い上がり、ここで根切りにしてくれるわ!!!」
弾丸のように飛び出した俺と、それを一歩も動くことなく迎え撃つ竜。
二人が激突する様を見る者はいない。
唯一視ていたのは、柳に止まる二羽の鴉。
鴉達は、おそらく自分達が世紀の一戦を目の当たりにしていることに気づいていない。
だが、その黒々とした瞳を放すことは無かった。
それが防衛本能故か、はたまた偶然か、それを知るものは誰もいない。
ただただ打ち響く剣戟の慟哭が、夜闇に染まる大空へと消えていく。
魂のぶつかり合いは、果たして天の月まで届くのだろうか。
その、美しき丸き輪郭を帯びた蒼き星へと。