満月夜の餞別《ドラゴンスレイ》1
────昔々、あるところに、一人の青年が居ました。
彼は家族を奪った鬼を追って、永き旅路に身を投じてきました。
何度も挫けそうに、心が折れそうになりながらも、青年は最後まで諦めません。
その努力が実を結び、長い年月を経て、遂に家族の仇を取ることができたのです。
しかし、青年は何一つとして喜ぶことができませんでした。
何故なら……実った果実は甘くも苦くもなく……味気など存在しないものだったからです。
視界は雲の中にでもいるかのように靄が掛かかり、平原を歩く足は棒のように重く、失った腕と瞳が酷く痛みます。
とてもじゃありませんが『鬼の首を取った』とはなりません。
何よりその心が一番の傷を負っていました。
大切な人を護れなかったことに……
悠久ともいえる冷雨に打たれ、彼は途中で足が縺れて倒れ込みます。
花草の生い茂る地面に投げ出された身体は、もう立てる気力も労力も残っていません。
あるのは後悔だけでした。
あぁ……俺は何で誰一人護ることができないんだろうな。
独り呟いた言葉が身体の熱を、青年の生きる意味を奪っていきます。
雨音に沈んでいく意識が最後に呼んだのは、大切だった家族、友人、そして師である少女の名前でした。
『不要』
『皆無』
『孤独』
『過ち』
『何故そうまでして求める』
『失うばかりで何も得ないというのに』
闇の中を響くことなく声が浸透する。
『過去も現在も未来も』
『後悔しては繰り返すというのに』
心から染み出た言葉が肉体を蝕む。
それが世界の理であり、疑うことのない事実であるように。
それでも……それでも俺は首を振った。
『まだ足掻くか?』
『定められた運命だとしても?』
頷いて手を伸ばす。
もしそれが、神が定めし宿命であったとしても。
俺はアイツを……
「────っ」
「────テっ!」
混濁する意識の中。
「フォルテっ!!」
「────はっ!?」
呼び掛けと共に揺すられていた身体が眼を覚まし、俺は勢いよくベッドから身体を起こす。
照明以外は夜闇に沈む見慣れた風景から、ここが千代田区の隠れ家でありことはすぐに理解した。
「あぁ……良かったぁ!眼が覚めて」
何度も呼びかけてくれていたのか、傍に控えていたロナが掠れた涙声で抱き着いてくる。
治療してくれたのだろう。ほぼ半裸の俺の身体に巻かれた包帯が嫌な汗を多分に吸い込み、冷たく肌に張り付いていた。
どうやら、ずっと寝込んでいた内に思い出したくもない過去を見させられていたようだ。
今更どうしてそんなものを?
答えは簡単だ。
「……セイナは……どうした?」
眠っていたことで頭が冴えたらしい俺の問いかけにロナが押し黙る。
暗い空気に呼応するように、部屋を彩っていた夕日が赤黒くトーンを落としていく。
「大使館は、あの後どうなったんだ!?」
「倒壊したよ」
そう応えたのはロナではなくアイリスだった。
戦闘後だというのに彼女にしては珍しく起きており、その琥珀色の瞳は窓外へと向けられていた。
あれから数時間は経っているはずの手には未だ、愛用するリボルビングライフルが握られている。
警戒態勢が解かれていない証拠だった。
「意識が朦朧としていて覚えてないかもしれないが、建物に取り残されたフォルテを車で待機していたロナが何とか救出してくれたんだ」
倒壊の波に吞まれる寸前、意識を失いかけていた俺を誰かが引っ張り出してくれた記憶は僅かばかり残っていた。
インカムこそ放り捨てていたが、おそらくアイリスからロナに情報伝達してくれて何とか瓦礫に埋もれる前に救出してくれたのだろう。
「そうか、済まなかった……クリストファーはどうした?」
「一緒にロナが助けたよ、でも、流石にここに連れてくる気にはなれなかったから、これまでの証拠と一緒に警視庁に捨ててきちゃった。おかげで夕方の話題はその話しで持ち切りだよ」
クリストファーは情報を抑えるために警察や政治家の一部を買い取っていたようだが、それも含めて今頃は大スキャンダルとなっているだろう。
下手をすれば戦争にも発展しかねない事情故に一部情報規制が入るとは思うが、今それを確認しようとは思わなかった。
「そのあとイギリス大使館は倒壊した、運よく死人は出なかったそうだけどね。でもセイナは……奴に連れ去られたままだ……」
「「……」」
夏虫の鳴き声がやけに煩く聞こえる。
感情の昂りと併さって聴覚が過剰に反応してしまっているのだろう。
「ロナ、今の時刻は?」
「えっと……二十三時を回ったくらいだけど」
ほんの少し躊躇う様に告げたロナに俺は眼を見開いた。
ここから約束の場所までは三十分以上掛かるというのに、俺はこんなところで何をやっているんだ。
「時間が無い、野暮用で少し出てくる!」
逸る口調で二人に告げてから、適当な衣類を纏おうと立ち上がる。
「ぐっ……」
が、思う様に身体が動かずベッドから転げ落ちてしまった。
アドレナリンで誤魔化していた三日三晩の拷問傷がここにきて悲鳴を上げている。
視界が歪み、荒れる呼吸は未だ身体が立てる状態ではないことを告げる警告だった。
「ちょ、フォルテ!?まだ安静にしてないとダメだってば!」
駆け寄るロナを片手で制す。
「これくらい、なんてことない……それよりも早く行かないと……」
クソ……クソッ!!言うこと聞けよクソ身体……ッ!!
抱き起そうとしてくれたロナの手を振り払いつつ、俺は無理矢理立ち上がって見せる。
「……やっぱり、行くんだね……」
含みを帯びた問いが淡い照明の照らす部屋に反響する。
「……知ってたのか」
俺と師匠とのやり取りのことを。
「ごめん……スマホの盗聴と、アイリスがスコープ越しに読唇してたから……」
「そうか」
本来なら咎めるべき部分を俺は何も言わない。
今はそんなことを気にしている余裕も暇もないのだから。
くいっ
袖が引っ張られる。
視線の先には涙目に感情を堪えるロナの姿があった。
「どうして……どうしていつもそうやって無茶するの?身体だってボロボロなのに、そんな状態じゃあシャドーになんて勝てっこないよ……」
「……」
「もう諦めよ?犬死するくらいなら尻尾巻いて逃げた方がマシだよ」
行かないで……と、泣きじゃくるロナは、小さな両手で俺の背を掴んで離さない。
ここでの別れが今生の別れになるかもしれないことを理解しているのだろう。
それでも俺は……
「此の世には『絶対』なんて無い……」
振り返り、ロナの頭に手を置く。
「どれだけ無謀でも、勝てる可能性がほぼ皆無だったとしても俺は諦めない」
あの時は久しく相まみえた竜に狼狽えたが、今は違う。
倒すべき敵。
幸か不幸か、セイナを奪われたことでその認識を固めることができた。
「アイツは……セイナは大切な仲間だ。絶対に見捨てることなんてしない。仮にもし捕まったのがロナやアイリスだったとしても同じだ」
そうさ。
こいつらは俺にとっての護りたいものなのだから。
「仲間のために命を張るんじゃない。命を張るからこそ仲間なんだ……」
俺はもう、誰一人として失いたくないんだ。
師匠やアキラのように……
それが叶うのなら、身体の外傷なんてものは正直どうだっていい。
動くなら文句はない。痛みなんて幾らでも耐え抜いて見せる。
だけど心に刻まれたこの傷だけは……セイナを奪われたこの疼きだけは、自分自身で抑えることができそうになかった。
「だからごめんな。ロナの頼みは訊いてやれない」
薄く微笑むと、俺の背を掴んでいた小さな両手は力なく離れていた。
納得したというよりかは、もう何を言っても無駄ということに気づいたような。
少女は桜色の唇が鬱血するほど噛み締めては、言葉にならない声で呻いた。
滂沱が頬を濡らす少女の肩を一度抱いてはそっと離し、窓際で外を警戒していたもう一人の少女に目配せする。
ロナのことは頼む。
感情の起伏の乏しい少女はコクリっと頷いた。
死ぬなよ。
琥珀色の瞳から鼓舞を受け取り、俺は二人に背を向けて家を飛び出した。