幻影の刺客《シャドーアサシン》9
「ッ!セイナ逃げろ!!」
その狙いに気付いた俺は、未だその危機に気付いていない相棒へと声を上げる。
「え?何をそんなに慌てているよ?」
倒壊する建物にこそ嫌悪こそ示すが、未だその危機に気付いていないセイナは素っ頓狂な声を上げていた。
あの時と同じだ。
数日前の夏祭りの日。
あの日も殺気を感知した俺は取り乱したが、気付いていなかったセイナは困惑していた。
別にセイナが劣っている訳ではない。寧ろ俺のよりも感受性は優っているくらいだ。
それでも気づけなかったのは、意識的に殺意を向けるべき相手を竜が選別していたのだと、遅すぎる理解が俺の脳裏を過ぎる。
そして、師匠は弟子の愚鈍な思考なんかよりもずっと早く、迅速に目的に向けて行動を起こす。
「きゃっ!?」
小さな悲鳴が上がる。
数メートルを僅か数舜で移動した後、竜はいとも容易くセイナの背後に回り込み、小柄な体躯からは想像もつかない万力のような剛腕で捻じ伏せた。
「セイナ!!」
カチャリッ
その音に、銃を構えた俺は途端に動けなくなってしまう。
金のポニーテール上部、うつ伏せに組み伏せたセイナの後頭部に銃口が押し付けられていた。
シャドーが愛用していた艶消しの黒のS&WM29。そのフォルムに映る、切り裂かれた天井から覗く陽光が光る、電光石火の抜銃。
あのセイナが、油断していたとはいえ瞬きする間に取り押さえられる光景は、悪夢としか形容しようがない。
「竜!!やめろっ!!」
震える指先。
圧倒的実力差を前に弱気になっている心に鞭打つよう張り上げた虚勢。
「アンタ誰よ!!痛っ!」
藻掻くセイナを抑えながら竜は乾いた声で嗤う。
「はは、やっぱりこの娘か。相変わらず君は分かりやすいな。でも、そんな震えた銃口でしっかり狙いを定めることができるかな?」
竜は人の心が読める。
それは比喩でも例えでもない、本当に胸の内を見透かされているかの如く、人の考えていることが手に取る様に分かるのだ。
何でも自らの会話とそれによって生じる相手の内に流れる魔力の反応から、何を考えているか大体読めるという種らしいが、彼女のそれは分かるなんて範疇を軽々と超えている。
最早その領域は予知に達しており、戦闘時もそれを利用し相手の隙を突けるほど、彼女を前にしての考え事や思案は筒抜けに等しいのだ。
が、仮にそうでなくも、今の俺を見れば誰であろうと口を揃えてこう言うだろう。
怯えていると。
「フォルテ何しているの!?早く撃って!!」
銃口を向けられても臆することなく抵抗を続けるセイナ。
その金切り声がくぐもって聞こえた。
普段なら片手で眼を瞑っても当てられる距離が、彼女との距離が恐ろしく遠くに感じる。
両手で構えた銃口は不規則に揺れ、汗で何度も握り直す馴染んだグリップが、まるで初めて使用したかと錯覚するほどにしっくりこない。
ハンドガンというのはこれほど重く感じるものだったろうか。
焦点の合わない瞳を気取られないよう気丈に振る舞ってはいるものの、端から見れば張りぼての城もいいところだ。
「フォルテ……?」
闘う前から心の折れていた俺の姿に、セイナはブルーサファイアの瞳を丸くする。
こんな姿を彼女にだけは見せたくなかった。
悔しさで噛もうとした唇。
それすらも力が入らなかった。
それでも、どれだけみっともない姿を晒そうとも、醜く足掻こうとも、彼女を人質に取られたからには引く訳にはいかない。
感覚のない右手が引き金に力を加えようとした時だった。
「あぐっ!!」
セイナが顔の側面にあった竜の足首に噛みついた。
どれだけ相手が強大で、敵わない相手だったとしても立ち向かう彼女の姿勢は、何物にも勝る不屈の精神だ。
「逃げてフォルテ!!あだじのごとはいいがら!!」
髪が降り乱れることも構わず、たとえそれが極薄の強化装甲に阻まれ意味を成さないとしても、彼女は最後まで健気に立ち向かう。
「はは、フォルテと違って見込みのある娘じゃないか、最後まで諦めない心意気は何事にも勝る勝利への必須材料だよ」
「この……っ!」
セイナの身体が朝日よりも眩い発光を一度促した後、溜め込んだ光の奔流を放つように電撃を解放した。
神の加護を用いた電撃。
多少調整しているとはいえ、あれを食らってまともに意識を保っていられる者はほとんどいないだろう。
それが、あくまで人間であればの話しだ。
「威勢がいいのは構わないが、ちょっと黙っててもらおうか」
高圧電流をモノともせず、何事も無かったかのように振る舞う竜。
強化装甲で多少軽減はしているが、今のは自身の魔力をセイナの攻撃に合わせて同調させつつ体表で受け流したのだ。
それは口で言うのこそ簡単だが、高等技術なんて言葉でも片付けることのできない離れ業。
いま竜は訓練しても非常に困難な魔力操作を、文字通り光の速度で流したのだ。
ケロッとしている竜の姿に、セイナの大きい瞳が限界まで見開かれた。
「な!?あっ……」
死神の穏やかな呟きから放たれた手刀はセイナの延髄をそっと撫でる。
それだけでこと切れた糸人形のように意識を刈り取られてしまう。
「さ、これで静かになった」
力なくグッタリとしたセイナを抱きかかえたまま、他愛無い様子で竜は微笑を崩さない。
事実、彼女にとって人というものを熟知しているが故、たとえセイナや俺が相手であろうとも、竜からしたら赤子の手を捻るようなものなのだろう。
「ん?」
ふと、竜はその美麗な眉を僅かに動かした。
視線を下げた先、引かれたカエルのように伸びていたクリストファーが力なくその足を掴んでいた。
「待て……話が違うじゃないか。どうして彩芽ではなくお前なんだシャドー……それに彼女は……セイナは私にくれるって組織が……」
子供のようにせがむクリストファーの手を竜はにこやかに見下ろす。
「状況が変わった。これより彼女の身柄は私が預かることになった。あぁ、それともう一つ、もう君は組織の人間ではないから」
「なっ……!?」
端麗だった顔から血の気が引いていく。
事実を受け入れられないクリストファーの瞳が動揺を表していた。
「なぜだ……!?私は神の加護を受け継いでいるというのに……なぜ貴様のような凡人風情にそんなことを言われねばならないんだ!?」
「分からないのか?神の加護を所持していてもそれを上手く扱えず、加えてフォルテ程度に敗北するような弱い君は組織には必要ないってことだよ」
ただ事実のみを並べられた語列にクリストファーが息を呑む。
秘密結社に不必要ということは、それすなわち『死』を表しているからだ。
情報を知っている以上、生かしている必要はないからだ。
「安心しろ、君は殺さない。なんたって君が今回の大統領暗殺の首謀者なのだからな。死んでしまっては元も子もないからね」
「まさか……初めからそうするつもりだったのか……?この私に全ての罪を擦り付け生贄にすることが……っ!?」
「人聞きの悪い。フォルテと戦うチャンスを与えてあげたじゃないか。それを生かせなかった君が悪いんだよ」
嘆くクリストファーを見て竜は破願した。
子供の癇癪を仕方なく諭す大人のように。
非の打ちどころのない論破にクリストファーの手が離れたのを見て、竜は再びこちらへ視線を向ける。
「おまたせ、じゃ、殺ろうか?」
理不尽な悪夢が口角を吊り上げた。
「どうして、どうしてそうまでして俺と戦おうとするんだ?」
俺の口から出てくる言葉に覇気はない。
銃口を向けているのはこちらなのに、殺気が無いことを見破っている竜は不思議そうに首を傾げる。
「君は疑問ばかりだな……昔は何も考えない素直なところが狼のように気高く可愛げがあったのに、今はまるで媚びることを覚えた犬のように惨めで情けない。久々に弟子の実力が視れると思っていたのに、正直がっかりだよ」
僅かに嘆息を漏らしては納刀し、竜はその繊麗な痩躯から想像もつかない程の身軽さでセイナを担いだ。
師匠に失望されたことにショックを受けるよりも、セイナを連れていかれてしまう絶望感で俺の胸の内は埋め尽くされる。
気付けば一キロ満たない錘に耐えかねた両腕は情けなくダラリと垂れ下がっていた。
パシュン────キィィィィン!!!!
数千メートルの彼方より到来した一撃が、竜のすぐ近くで耳を劈く金切り音となって弾けた。
月影一刀流 五ノ型『皐月』
月影一刀流の流祖である彼女は、納刀した隙を付いたアイリスの一撃を難なく往なす。
それも、業を完璧に習得できず我流に調整している俺の不完全なものとは違い『皐月』本来の姿である『鞘から抜いたことも、収めたことも見せない』という体を成していた。
業もさることながら、意識外からの必殺の一撃。それをいとも容易く対処できたことに驚きだが、光の速度で体細胞を操作できる彼女にとって音速など、止まって見えるのかもしれない。
「正確無比な狙撃……なるほど、あれががルーカス・N・ハスコックの娘か。流石は狙撃の家系なだけあって、その腕は私よりも遥かに上だろうな」
感嘆する言葉に反して感情を乗せない墨黒の隻眼が、飛来した銃弾の場所を見つめていた。
どうやら初撃でアイリスの居場所も、その容姿までもを捉えたらしい。
「ま、初撃さえ外してしまえば怖くはないんだけどね」
今頃スコープ越しにこちらを捉えているアイリスは驚愕しているだろう。
二キロ先からスコープ無しで焦点を合わせる少女の姿を。
「さて、そろそろ始めたいと思ってたけど、どうやら時間切れのようだね」
狙撃手を慧眼で射殺した竜は、狙われていることなどお構いなしに開けた天井を見上げる。
意図的に切り裂いたこの建物の柱数本が崩れるのを察知して、その天を引き裂く割れ目へと蝶のような身軽さで跳躍した。
「ま、待て、竜!!」
辛うじて出せた静止の言葉に竜は振り返る。
朝日と共にこちらを見下ろすその様は、この場での勝敗を揶揄しているかの光景だった。
「君を弟子に取ったからには、師匠として情けをあげよう」
突き放すような冷徹さと蔑むような視線。
「今日と明日の境目、品川第六台場まで一人で来い。それが君にとっての最期のチャンスだ。何か一つでも破られた時は、彼女の命は無いと思え」
俺はようやく、この人がかつての師匠でも部下でも無いことをハッキリと自覚した。
倒壊に合わせて巨大な窓ガラスの一枚が砕け散る。
俺の心の中にあった竜の笑顔、思い出が粉々になるのと同じように。
「じゃあねフォルテ。期待しないで待っているよ」
竜はセイナを抱えたまま、天井の裂け目から外へと姿を消す。
言い残した言葉が倒壊の波に紛れて消えていくのを、俺はただただ呆然と聞き入れる他なかった。
投げ捨てたインカムから響く断続的呼びかけも、建物の外で騒ぐ群衆の叫喚も、今の俺には届かない。
建物を差されていた最後の柱が音を立てて崩れ落ちていく。
バランスを崩した荘厳な内装に夥しい亀裂が走り、天に昇る朝日が次第に閉ざされていく。
イギリス大使館が倒壊したのは、不審者が現れてから僅か十一分のことだった。