幻影の刺客《シャドーアサシン》7
まるでその人物が来ることを予見していたかのような口振りに、内心で舌打ちする。
さっきの挑発、あれは単に俺のミスを誘うためだけではなく、予め要請していた援軍の到来を引き延ばすための作戦でもあったようだ。
「やってしまえ彩芽!!!!その男を、フォルテ・S・エルフィーを殺せぇぇぇぇぇ!!!!」
彩芽。
公安を抜け、テロリストへと成り下がった少女の名。
最早隠そうともせず叫喚するそれを踏みつけで黙らせ、姿の見えない窓際にいる者へと意識を専心させる。
しかし……これは一体どういうことだ?
外の喧騒とは異なる集中した意識下の静寂で、俺はその違和感に眉を顰めた。
彩芽は確かに身を隠す術を持ち合わせていた。
それは東京タワーの時に食らった俺が一番よく分かっている。
だからこそ、いま眼前に佇んでいるのであろう人物が彩芽の術とは一線を画していると断言できた。
恐らく、セイナはまだそのことに気づいていないだろうが……
彩芽の術は彼女自身の存在を四方八方から感じさせることで本体の位置を擬態させるものであり、例えるならシマウマが群れを成して敵から狙いを定めさせないそれと近しい。
対して眼の前にいるそれは、まるで幽霊のように希薄で存在感がない。
ガラス片を踏んだという事実が無ければ、おそらくその存在に気づかない程に存在感が無い。
何よりクリストファーの呼び掛けに反応しないところが引っかかる。
あの彩芽なら苦言の一つや二つを漏らしていておかしくない。
まるでカメレオンだ。
風景に溶け込み、標的が隙を見せるのを伺っているかのように動かない来訪者。
コイツは誰だ……?
今までに感じたことのない不気味な感覚。
真夏だってのに、頬傷をなぞる汗は鳥肌を立てる程に冷たい。
脳裏に過った推察は、一体どれだけ時間を過去のものとしたか。
タンッ!
その僅かコンマ数秒の沈黙の後、仕掛けてきたのは亡霊だった。
見えないそれが地を蹴り舞い上げたガラス片に、俺は無意識に身体を逸らす。
かつて、レクスの放った不可視の一撃を躱した時のような、理屈も理由も存在しないただの勘。
あまり主義ではないが、思考よりも先に身体が反応したということはそれだけ危機が迫っていたということに他ならない。
「ッ!?」
左へ倒れるように身体を傾けていた俺が背後に見たのは、斜めにズレた世界だった。
俺の身体のあった場所ごと袈裟斬りにしたかのように、斜めに切断された執務室が断層のように崩れていく。
「え?」
何が起きたのか理解できていないセイナと気絶しているクリストファー。
部屋を寸断した亡霊と共に取り残された俺の視界から、彼女達が沈んでいく。
『ちょっとダーリン!何が起きて────』
咄嗟の回避で泥臭く転がった俺は、余計な雑念となる要素を取り払うため、付けていたインカムを投げ捨てた。
コイツはヤバい。
今まで闘ってきたどの敵よりも強い。
ジャブ感覚で振るわれた、たった一撃でそれを理解した。
コイツは彩芽では無いことと、俺がどうこうできる相手では無いということを。
パッ!
八咫烏の内から取り出した閃光手榴弾を宙に放り、亡霊との隙間で起爆させた。
瞼の外で光と音響が生じた後、俺はセイナの方に向かって走り出す。
ぞわ゛ッ゛!!
背に感じた殺気に、俺は二つの意味で驚愕した。
一つはその恐ろしさと寸分違わぬ正確さ。
亡霊らしく、目の前で起爆させたことなどものともしていないらしい。
そしてもう一つは────
「グッ!!」
食いしばった歯が紅い眼光を呼び起こす。
力任せの我武者羅な緊急回避。反撃することも次の策も存在しない。
それでも感覚と勘だけを頼りに銃弾を放つと、ふさりと何かの僅かな手ごたえを感じた。
瓦礫の荒波が銃弾の音さえも飲み込んでいく。
倒れた込んだ執務室が真っ二つから三枚におろされていた。
クソ、何なんだコイツは……!?
頭の中が疑問で埋め尽くされる。
さっきまでの煌びやかだった内装が嘘のように砕け散る光景は、夢の中のように現実味が欠如していた。
いっそのこと夢であればどれほど良かったか……
いや、仮にそうであったとしても悪夢であることに代わりは無いが。
そんな現実逃避が虚しくなるほどに、受け身の取れなかった俺の身体が痛みという現実を知らせてくる。
どうやら俺はまだ生きているらしい。
逃げないと……
起こした身体の背後、舞い散るコンクリートの砂塵の中から亡霊が現れる。
とはいっても、直接奴が姿を晒したのではない。
舞い散る塵芥が視えない亡霊の形を表していたのだ。
サイズは俺とセイナの間、彩芽と同じ程の小柄に分類される体躯。
形は視えていても、未だ実感が湧かないのは奴の技量が成せることだということを俺は看破していた。
何故なら────
「お前だったのか、先日俺に殺気を向けてきたのは」
夏祭りのあの日、セイナと二人で過ごしていた最中に向けられた殺気の正体。
あれはこの亡霊が出していたものだと、三度も殺気を向けられた俺は自身の肌身を持ってしてそれを理解した。
悪い予感というのは即ち経験則、言い換えれば勘からくるものであり、俺のそれが外れることはないと自負しているが……今回ばかりは外れて欲しかったぜ。
まさか、ずっとこんな強敵に見張られていたとはな。
内心で悪態をついては思考をとにかく回す。
何とかコイツを出し抜ける方法を、この灰の煙幕晴れる前に────
「な!?」
開いてはならない左眼ですら丸くしてしまいそうな程に俺は驚愕していた。
晴れた視界に姿を見せたのは一人の傀儡。
先刻放った銃弾が掠め取った深緑色のフード。
同色のポンチョに身を包む漆黒の亡霊。
「どうして……」
見間違うはずのなかった。
その薄気味悪いかつての部下の姿を。
「どうしてお前が……シャドーッ!?」
かつて、風のようにやってきては姿を眩ませた七人目の隊員は、あの時と何一つ変わらない出で立ちで砂塵の渦中に存在していた。
Invisible Camouflage coatに身を窶したその姿は、何処にでも居て何処にもいないという忍者を連想させ、その内に見え隠れする刃は朝日を吸収しては妖艶にぎらついていた。
ただでさえ判らないことばかりだというのに、無口な暗殺者に俺の脳内はミキサーで掻き回したように混乱の渦を描く。
言いたいことは山ほどあったが、要約すれば『何故お前がここにいる?』だが、仲間だった人物に向けられる悍ましい殺気は、口を開くことを許されない。
感情が皆無の殺しに特化した屠殺場の機械のような冷たさは、過去に幾度も模擬戦や任務をこなした外見こそ瓜二つだが、俺にはまるで別人のように感じた。
「────迷いが視えるな」
「え?」
喋った。
過ごしてきた一年間、驚かそうが擽ろうが何をしても喋ることの無かったその人物が、自ら口を開いたのだ。
それも、恐ろしいほどの力量と技量を兼ね備えた剣術から屈強な男性と決めてけていたが、耳に届いたのは真反対の華奢で物静かな少女の響きだった。
その亡霊から発せられたくぐもった声に、ずっと奥底で眠っていた俺のある記憶が呼び起こされる。
「この程度のことで狼狽えるとは────」
フルフェイスのヘルメットをゆっくりと外す。
嘘だ……
「君は相変わらず未熟だな」
流麗な黒羽根色の長髪がコートの上を流れ落ちた。
嘘だ……っ
ひな人形のようにきめ細かな白き肌を持つ大和撫子。
失われた左眼は固く閉ざされ、代わりに墨黒の右眼がこちらを見つめていた。
襲われる激しい動悸に息が苦しくなる。
もう、ポーカーフェイスなんて有りもしない
彼女の降ろしたフルフェイスのミラーシールドには、動転した男の泣き顔が映っていた。
「どうして……よりにもよってどうしてアンタなんだよ……っ!」
それは彼女に対して言ったのか、それとも己が運命に向けて叫んだのか。
ただ一つ言えるのは神様が残酷であるということだけ……いや、やはり神様なんて存在しないんだ。
「竜……!」
噛み締めた唇から漏れ出たその名が自分でも信じられなかった。
もう二度と呼ぶことの無いと思っていた師匠の名を。
「やあ、久しぶりだね。フォルテ」
淡い桜色の花弁を連想させる口元から紡がれた言葉。
その声音は彼女のものであると同時に、無感動で冷たいまま。
とてもじゃないが弟子との再会を喜んでいるようには見えない。
「さぁ構えるんだ。敵を前にして武器を降ろすなど、私は一度も教えた覚えはないよ」
敵。
自身をそう表現した竜は、まるで鍛錬でも始めるような気安さで忍者刀を構えた。
それを機に、彼女の周囲が熱を帯びたように揺ら揺らと陽炎の如き歪みを生じさせる。
それだけでも十分な殺気だが、何より驚愕したのはその質だ。
『死』そのものを植え付けるような淀みの無い殺気。
憎悪や怒気を抜きしても人はこれほどまでに純粋な殺意を向けることができるというのか!?
その威圧感だけとっても、今まで闘ってきたどの敵よりも強いことは明白だ。
元々、俺にとっての師匠のイメージは『負』そのものであり、勝てる見込みは最初から無かったが、どうやら逃げることすらも叶わないらしい。
「どうした、この程度で怖気づいたのか?かつて私が受け持っていた弟子も、仕えていた隊長も、そんな弱腰の男ではないと記憶していたのだけど」
彼女の言葉にかつての温もりは感じない。
まるで死神だ。
「弟子がそんなことできるわけがないだろ……っ!死んだと思っていた師匠に武器を向けるだなんて……」
数十年振りの再会。
しかし、嬉しさなんて微塵も感じることは無かった。
あるのは無性の憤りだけ。
俺にとっての師匠は未だ死んだままという範疇にあるからこそ、眼の前の現実を受け入れることができずにいるのだ。
それを今更出てきて生きていました。おまけに部下の一人に混じっていたとは冗談にしても質が悪すぎる。
故に、俺は突発的な怒りと度重なる疑問で武器を構えることすらもままならないでいた。
それに……仮にどれだけ死力を尽くそうとも、師匠に勝てる見込みなどありはしないのだから。
初めから勝敗の視える詰将棋に一体誰が真剣に向き合えるというのだろうか。
「そうか……なら私から君へ戦う理由も与えてあげよう」
何か考える時に顎先に手を置く何気ない仕草。
何か考えるときに見せる彼女のその癖が、否定したいはずの思いとは別に、その存在を肯定してしまっている自分がいることに気付いてしまう。
「私がここに来た理由は────」
「やめろ……」
……その顔で、その声で、それだけは……
薄々気付いているその言葉を聞きたくないと、懇願する俺の顔へ彼女は微笑んだ。
何年刻を重ねようと変わることのない彼女のその暖かな笑顔は、俺にとって死の具神化のような酷い残酷さを相伴っていた。
「ヨルムンガンドの一員として君を殺しに来た。組織の障害となる君をね」