幻影の刺客《シャドーアサシン》3
その日は星一つ見えない曇天に覆われた夜闇に覆われていた。
人の寄り付かない最果ての平野。
そこに佇む一本の退紅の桜下、倒れた人物へと悪鬼は刃を向けていた。
────クソ……ここまでか……
桜に凭れ掛っていた俺は朦朧とする意識の中、残っていた右眼で自身の身体を見下ろした。
左半身が真っ赤に染まっているのは、なにも左眼が切り裂かれて張り付いた血のせいというわけではない。
数十年共に過ごしてきた左腕が、あんなに無造作に地に転がっていることからそのことは理解できた。
『何があっても、一人で奴と対峙してはならない』
俺は今日、竜と出会ってから初めて彼女の教えに背いた。
復讐を望む相手との数十年ぶりの対面のチャンスを得た俺は、それをふいにしないためにも彼女に嘘を告げてここまでやってきた。
だが、どうやらそれは罠だったらしい。
眼の前に佇む悪鬼は、深く抉られた胸元を抑えようともせず、俺を憂懼の瞳で見下ろしていた。
今までと違う、俺を一つの個として認識するような眼差し。
竜と分断して各個撃破するための陽動は、コイツにとっての俺は竜と同等の危険因子として認識していたということらしい。
だがそれも瞬きの間隙。
自身の身体の一部を犠牲にした諸刃の一撃を食らったことへの畏怖は、俺に勝ったことへの悦びで上塗りにされた。
その表情が、有無を言わさぬ死のイメージを濃く連想させる。
だがそれがなんだというのか。
あれほど手も足も出なかった相手にこうして一矢報いることができたのだ。
この数十年間の骨身を削る努力は決して無駄ではなかったと、不思議と後悔はなかった。
────強いて言うなら、最期にアイツの声を聞きたかったな。
師匠から相棒。
いつしか恋心のようなものすら抱いていた少女を、風前の灯と化した思考の先に思い描く。
本当のことを言えば、彼女に嘘を付いたのは復讐を優先させたいからでは無い。
護りたかったんだ。大切なあの人を……
まぁ、結果はどうあれ、数か月は治らないような傷を負わせたんだ。
あとは彼女がどうにかしてくれるだろう。
振り降ろされる曇天の中で輝く白刃に、思いの丈を胸の内に宿した俺はその終焉を受け入れた。
「こちらフォルテ、そろそろ始めるぞ」
『ロナちゃんはいつでもオッケーだよ!』
『アイリス了解』
無線越しの呼びかけに各々が返事する中、千鳥ヶ淵公園の茂みから僅かに顔を上げる。
道路を挟んだ向こうに教会のような荘厳な建物が聳え立っている。
駐日英大使館。
日本領地内にあるイギリス国土であり、その周辺は国土の境目として厳重な鉄檻のゲートに囲われている。
夜明けの太陽に照らされ銀燭に翳るシルエットが、まるで城を連想させた。
こうして、わざわざ作戦時刻を早朝にしたのは色々と理由がある。
クリストファーの所在が明確である時間。
仕事始めと終わりは気が緩みやすい。
などなど。
挙げればキリがないが、何より遵守したのは派手さだ。
怪我の療養中というエリザベスには申し訳ないが、民衆の注意を引くような過激さで徹底的にクリストファーを叩き、協力関係にある彩芽を誘き出すというのが今作戦の一番の狙いだ。
クリストファーが襲われたともなれば、その情報流出を抑えるために必ず助けに来るだろう。
もし来なかったとしても、その時は直接クリストファーに聞けばいいことだ。奴が俺にしたように……
「────アンタ、こんなところで何してんの?」
不意に背後から、聞きなれた少女の呆れ声が投げかけられた。
意志や矜持の現れた凛々しき響き。
なんだ、セイナか。
「何って、今から襲撃するんだよ。あの建物」
俺は聞きなれた声に振り返ることなく、匍匐しながら単眼鏡で建物の様子を観察する。
「……あのさ、それってアタシに教えちゃっていいことなの?」
「別にお前だからいいだろ」
何をいまさら────ん?
あれ、セイナ?
セイナってセイナだよな。
あーセイナか……
「って!?セイナ!!???」
食い気味に背後に振り返ると、腕組しながらジト目で見下ろす相棒の姿がそこにあった。
最後に会った四日前のドレス姿と違い、白いキャミソールに黒いプリーツスカートの見慣れたいつもの私服姿だ。
「ど、どうしてここに!?」
極度の集中といつも隣にいて当たり前という認識から気付くのに遅れた相棒の姿に、俺は心底驚いていた。
ロナの話しでは、確か今も療養中となっているエリザベス三世の傍に付きっきりということだったが……
「どうしても何も……あれ、あそこに止まっているバン、いつもロナが機材積んでるやつでしょ?」
セイナが建物沿いの道を指さす。
そこには清掃会社の塗装が施された一台の白いバンが停車している。
「あれ見てアンタの場所を探ったら、まさか本当に居たなんてね」
優秀なんだか間抜けなんだか。
盛大に溜息を漏らされた俺はやや乱暴に無線に呼びかける。
「おーい、ロナァ?セイナに気付いてどうして連絡しなかったんだ?」
今の会話ですら無線越しに聞こえているはずが反応のないロナに言及すると、しばらくして、『アハハハ……』とやや躊躇うような乾いた笑いが返ってきた。
『いやー、作戦直前で見かけたから、言おうか迷っちゃって……』
「ったく……つーかアイリス、お前も気づいていただろ……なんで言わなかった?」
『……?敵以外の情報も必要だったの?』
遠方のビルよりこちらを見ていた少女は、俺以上に集中していたせいか、そんなズレたことを言ってきた。
こいつら……
「え、アイリスもいるの?全員揃って人の領地を襲撃だなんて……一体どういう了見?こっちはずっと連絡なかったから心配してたってのに……」
「え、心配……?」
「してないわよこのバカ!大バカァ!!」
食い気味に否定しては三白眼で凄むセイナの姿に、俺はどこか安心感すら覚える一方、僅かに焦りも感じていた。
なんせこれから彼女の母国組織を叩こうとしており、同時にそのことを話してしまった。
普通に考えればそんな愚行を許すはずがない。
「で?どうしてイギリス大使館なんて襲撃しようとしているの?」
「いやーこれには深い事情が……」
「そんなことは分かってるわよ」
何とか言いくるめることが出来ないかと言葉を濁した俺に対し、セイナの言葉は意外にも寛容だった。
「アンタはバカで自分勝手で、アタシのような華奢な身体に欲情するようなただの変態だけど。それでも無意味にそんなことする奴じゃないことは理解しているわ」
真剣なブルーサファイアの瞳が真っ直ぐに向けられる。
数か月とはいえ、死線を幾重も乗り越えてきた相棒との信頼は並大抵のものではない、
彼女の眼差しはそう物語っていた。
────その余計な前口上がなければどれだけ良かったことか……
とはいえ、ここで呑気に立ち話をしている暇はない。
褒めてくれたことに(セイナのみがそう思っている)「そうかよ」と短く返事してから、俺達は離れていた間に有ったことについて話し合う。
幸い周囲に人が少ないこともあって、茂みにさえ隠れていれば別段目立つことはない。
そんな俺達の様子を、近くに聳えるソメイヨシノで翼を休める二羽のカラスが見下ろしていた。