真意の嬌飾《リアマスク》2
「あむ……ん……『時間とは最強の名医』と、よく言ったものだな」
「どういう意味だ?」
俺の作ったカレーを咀嚼していた竜が、唐突にそんなことを呟いた。
「どうもこうも、そのままの意味だよ」
手頃な岩にちょこんと腰掛けていた彼女は、その傷一つない細足の上に空になった皿を置く。
「初めの頃は調理器具すら触れたことの無かった君が、まさかこんな美味しい料理を振る舞えるようになるとは夢にも思わなかったよ」
「そう言ってもらえて至極光栄……とでも俺は応えとけばいいのか?」
地べたに胡坐をかいていた俺は皮肉交じりに肩を竦める。
まだ負けたことを引きずっており、とてもじゃないが素直に喜べなかった。
それを誤魔化すようにへの字に曲げた口にカレーを放り込む。
スパイスを利かせ過ぎたのか、欧風カレーのくせに妙に辛く感じた。
「覚えているか?この旅を初めてまだ間もない、今からちょうど十二年三か月前のことを」
「そんな昔のことなんて覚えてねーよ」
「そうか?私はつい昨日の出来事のように思い出せるのだが」
思い出に浸る竜が含み笑いを微かに頬へと浮かべた。
『昨日のように』というのも膨張抜きにして、彼女の記憶力をもってすれば例え百年前だとしても思い出すことは造作も無い。それは、当番日に出した料理の間隔が短いと『十一日前に食べた』と、日付も合わせて文句を言うところから嫌というほど知っている。
(おかげでこうして料理の種類が増えたわけだが)
最初はそれも適当に言っていると思ったが、五年前に訪れたとある街のお祭り、その時屋台で食べた料理の種類や店員の人相までを写真という証拠と共に全て言い当てたところから嘘とは言えなくなってしまった。
「旅を始めて最初の一年、君は私に手も足も出ずに倒れたまま動けなくなってしまうことが多かった。二年目、ようやく稽古を終えたあとでも何とか倒れなくなった君はその時初めて料理をした。作った料理は今と同じカレーだったが、あの時の味や見た目と言ったら……くっ……」
耐え切れなくなって竜は口元を抑えた。
そのことは、記憶力関係なしに当人である俺が一番よく覚えていた。
当時の俺はいつも美味い料理を出してくれる竜に少しでも恩返ししようと慣れない料理を振る舞ったのだが、結果は大失敗だった。
カレーは見たこともないサラサラしたスープ状になってしまい、味に関しても最悪。火の通っていない具材の食感は今思い出しても吐き気を催す程、とてもじゃないが食えた代物ではなかった。
その失敗をよく覚えていたからこそ思い出したくなかった。
「あぁ……ごめん、別に君の作ってくれた料理が不味かったから、こうして笑ってた訳じゃないんだ」
「いまハッキリ言いやがったな……お前」
一番言われたくなかった言葉に睨め上げた俺の視線をものともせず、竜は愉快な調子崩さずに続ける。
「確かにあの時の君の料理は、刺激的という言葉では片づけられない程の味だった。でも、同時にとても嬉しかったんだ。まさか堅物だと思っていた君が、私のことを少しでも慮ってくれていたことにね……だから、今でこそ美味しいこの料理も、あの時食べた君の料理も、私にとってはどちらも嬉しいことに変わりはないのだよ」
竜はそう言ってカレーをおかわりする。
あの日、初めて作った俺の料理を何も言わずに食べきってくれた時のように。
「心外だな。お、俺だって、命を救ってくれたアンタには感謝しているさ……って、なんだよその眼は?」
言葉にするのは妙にむず痒いその思いを、竜は何故か不服そうなジト眼を向けてきた。
「そう思うなら、少しはどうにかならないのかそれ」
「それってなんだよ」
「名前だよ名前」
言われてもピンと来ていない俺を見て、竜は呆れて溜息を漏らす。
「いつまで経っても君は私のこと、名前で呼んでくれないじゃないか。師匠はさておき、普段はお前、アンタと、ちっとも私に対して敬意を感じないぞ」
「そんなの今更だろ……たくっ……前にも話したが、アンタの名前は昔の俺の名前と似ているから、ちょっと呼びにくいんだよ……それにアンタだって俺のこと、君だの弟子だのと好き勝手に呼んでるじゃねーか」
「そこだ、私が一番言いたかったのは」
まるで教鞭を振るうかの如く竜は人差し指を向ける。
「君の名前だ、確かに長生きすると色々な名前が際限なく付与されることは分かる。だが、せめて名乗る時の物は自分の中で一つ決めておかないと、やがて己という概念を見失ってしまうぞ?私が竜としか名乗らないように、名前とは自身を現世へと繋ぎ止めていくための鎖だ。何本もあるのは確かに便利だが、それは同時に一本一本の強度を削ぐということになりかねない」
「つまり……自分の名前を明確にしろってことか?」
長い高説を要約して訊き返した俺に、竜は「うむ」と大きく頷いた。
確かに竜の指摘した通り、俺は名前どころか自分自身に関しては無頓着となっている節がある。
でもそれは……
「それこそどうだっていいだろ。俺は自分の復讐さえ果たせればいいんだからな」
あの日、竜に救われてベッドから目覚めたその瞬間から、俺の生きる意味はその一点でしかない。
その目的の為なら俺は自分のどんなものでも犠牲にするつもりだ。例えそれが、自身の命だったとしても……
そんな使命に駆られた人間が、名前などという下らないしがらみを気にするはずがない。
それを判ってくれていると思っていた師匠は……
「それでは……君の辿る末路も、あの鬼人と同じものになってしまうじゃないか」
俺の決死の覚悟を聞いて、どこか寂しい、愁いを帯びた表情で眼を伏せた。
普段から余裕に富んだ彼女は、俺に対してたまに憂慮や懸念といった態度を見せることがある。それは単に弟子のことを心配しているともとれるのだが、彼女のそれは明らかにその範疇を越えている。とてもじゃないが数年そこらの人間に対して見せるものではない。
まるで……何十年、何百年も共に歩んできた相棒に対して向けるような。
どうしてそんな顔で俺を見る?
俺はこの少女のことをほとんど知らない。
これまでどんな人生を歩んできたのか、一体いつからその魔眼を持つことになったのか、竜という名前以外、俺が彼女の過去で知っていることはほとんどない。
なのに、どうしてお前はそんな悲しい眼で俺を見るんだ?
それを聞いたところで、きっと竜は何も答えてはくれないだろう。
だって俺達は、あくまで互いの利害の為に旅をしているに過ぎない。
それ以上でもそれ以下でもない相手に、余計な詮索や情は抱く必要はないし、抱かせる必要も無いのだから。
「────君は、その力を復讐のために使うのかい?」
ふと、竜はそんな言葉を口にした。
流れた木枯らしに消えてしまいそうな、独り言とも取れるその問いに、俺はハッキリと頷いた。
「あぁ……俺は復讐のために強くなったんだ」
改めて自身の思いを告げた。
例え誰が何と言おうと、俺の気持ちが変えることは無い。
「確かにその眼はキミに力を与えてくれるだろう……だが、復讐のためだけに戦うようではいつか自分の身を滅ぼすよ」
「構わない、俺から何もかも奪ったあいつに復讐できるのなら、悪魔にでも化物にでもなってやるよ……」
それは判っている。
復讐したからといって俺の気持ちが、ましてや死んでいった人達の思いが晴れるはずもない。そんなことは理解している。
だからといって、おちおち逃げ隠れて生きていくなど断じて有り得ない。
奴に一矢報いる。
例え、辛酸、苦渋を何度啜ろうとも、この身を幾度も傷つけられたとしても、その思いは決して変わらない。
それがようやく伝わったのか、
「そうか………」
竜は伏せた瞳をゆっくりと開けた。
納得したというよりも、どこか諦めたといった眼つきだった。
「キミがそこまで言うのなら止めはしない……だけど、これだけは約束して欲しい」
「約束?」
孤独の多かった俺には馴染のないその言葉に、今度は竜が大きく頷いて見せた。
「復讐を果たしたのなら、どれだけ時間がかかっても構わない。キミの護りたいものを探して欲しい」
「護りたいもの?」
「うん、例えばそれが友人や恋人でも、街や国でも、文化や歴史でもなんでも構わない。君が護りたいと思うものを見つけて、そのためにその力を使って欲しい」
失うばかりだった俺の人生に、そのような力の使い方をする場面が果たして訪れるのだろうか……
そんな半信半疑の思いが形となったのか、
「師匠にはあるのか?護りたいもの?」
俺は竜に訊き返していた。
「わ、私か?」
豆鉄砲くらったように竜が両眼をパチクリと動かす。
単に竜には護りたいものがあるのかと思っだけなのだが……彼女にしては珍しく動揺するような仕草に、どうやら少し意地の悪い訊き返しとなってしまったらしい。
それでも彼女は揚げ足を取られたことには一切文句を述べることはなく、自身の言葉を己に投影するように一度深呼吸をした。
その内に一体どれだけの時間が、竜の過ごしてきた歴史が過ぎ去ったのか。俺程度には想像すらつかない。何百、あるいは何千と生きてきた少女は、いつの時代も変わることのない青空を見上げては、固く引き結んでいた口をようやく開いた。
「……色々あった、それこそ数えきれないほどにね……」
数々の追憶を空に描いていた竜はゆっくりと視線を戻す。
「実は、最近もう1つ護りたいものが増えたんだ」
「へぇ……そいつは羨ましいね……」
その視線が何に向けられていたか、俺は気づかなかった。
「なあにキミにもすぐ見つかるさ」
それでも竜は、鈍い弟子に向けて破願して見せた。
「だと……いいな」
「うん、だからそれが見つかるまでは復讐で簡単に死ぬなんてことするなよ?」
「分かったよ。約束する……」
約束……か。
心の中で何度もその言葉を反芻させてみるが、いまいち実感が湧かない。
この時もっとその意味を考えていればと、後悔することになるなんて、当時の俺は知る由もなかった。
「と、いうことで、さっそく君のちゃんとした名前を決めちゃおうか」
「………は?」
一体なにが、『と、いうことで』なのだろうか?
食べ終わった皿を岩の上に置き、勢いよく立ち上がって見せた竜による何の脈絡もない提案に、開いた口が塞がらない。
「むっ?なんだいその顔は?」
反応の悪い弟子に竜が眼を眇める。
「いや、今の話しと俺の名前、一体何が関係あるんだ?」
「まだ分からないのか?君が君として護るべきものを見つけるためには、まずは自分自身のことを念頭において考えなければダメだ。そのためにはやはり、君自身の名称をハッキリさせておかなければ、君と言う存在がぼやけてしまう。そういう話しをしていたのではないか」
そんな話しだったか?
あれ……俺が聞き間違えていたのか?
「そうだ、私が決めてあげよう。君の正式な名前を……そうだな、前の名前被りが嫌だと言っていたから、ベースは今の名前にするとして『フォルテ・S・エルフィー』というのはどうだろうか?」
「いやちょっと待て、なんでアンタが決めているんだという点は百歩譲って、そのSはどっから来た?」
日本からアメリカに飛ばされ、身寄りのない子としてエルフィー孤児院に拾われつけられたフォルテという名前は、俺が一番長く使っていた名前の一つだ。
それにわざわざそれに『S』をつける意味が分からない。
「『S』は君の日本の苗字からとったものだ、頭文字のSを取って『フォルテ・S・エルフィー』我ながら完璧の名称ではないか?」
「却下だ、そんな餓鬼が考えそうなネーミングセンス、前から思っていたがアンタのセンスは最悪だ」
趣味の悪さに片手をひらひらと振って見せる。
そもそも、動きやすいからと年甲斐もなくセーラー服を常時着ているような人物のセンスには、名前を任せる気には到底なれなかった。
「ほぅ、弟子の分際で師匠のセンスを疑うとは……いい度胸じゃないか……っ」
一切合切を否定され、竜の言葉に力みが生じる。
そのおでこに掛かる黒髪の下で、昼の陽気には似合わない邪悪な笑みが浮かぶ。
「ふふ、いいことを思いついた」
口の端と目尻が同時に吊り上がる。
彼女が悪いことを考えている時にいつも見せる顔だ。
こういう時、いつも碌なことにならないことを知っている。
「ならこうしよう……どんな方法でも構わないから、今後もし君がたった一度でも私に勝つことができたのなら、名前を変えることを許そう。だが、それができるまでは一生その名前を名乗る。これでどうだい?」
「分かったよ、それで構わない」
思っていたよりも好条件だったことに、俺は二つ返事でオーケーした。
なんせどんな方法でもたった一度勝てばいいだけのこと。
一日に何十回と鍛錬をやっているのだから、いつかは勝てるだろう。
そう高を括っていた俺は知らなかった。
師匠が一度として俺に本気を見せていなかったことを。
その日以降の数十年間、俺は勝利どころか、たった一太刀すら師匠に浴びせることができなかった。