夏の音(ヴァケーションフェスティバル)10
眼を覚ましたのは三か月後だった。
何処とも知れない部屋の一角。夏の蒸し暑さはすっかり過ぎ去った窓外の紅葉林が美しい秋の匂い。
一体何があったのか思い出すにも一苦労する頭、動かすことすら敵わない他人の物のように感じる棒のような身体。
一応生きているようだが、生きている実感はなかった。
「ようやく眼が覚めたかい?」
知らない人物の声に、振り向くよりも先に腰にぶら下げているはずのホルスターへと手が伸びる。無論、そんなものが未だに装備されているわけもなく、威嚇にしては心もとない状態で声のした方へと睨みを利かせた。
「そう身構えないでくれ、これでも一応君を助けた命の恩人なんだぞ?」
少女の声にしては堂の入った大人びた口調。
鳥羽色のロングコートの上に同じくらい漆黒な長髪を流し、背を向けて座る声の通りの東洋人の少女は湯呑に入れた茶を憂うように啜る。
僅かに懐かしさを感じたのは、彼女の言語が昔聞いた日ノ本のものだったからだろう。
喋ろうとして俺は深く咳き込んだ。
言語どころか声すら忘れた喉が張り付き、呼吸すら苦しい俺へと座っていた少女は手にしていた湯呑を差し出してくれる。
久しく呑んだ暖かい侘茶が身体だけではなく、心まで温めてくれるようだった。
「アンタは……一体?」
記憶の定かでない俺はあくまで警戒を解かずも、その人物が敵ではないと知って口を開いた。
改めてベッドから見た少女は、日ノ本離れした長身に黒を基調としたセーラー服を身に着けていた。余計な脂肪を極限まで削いだ理想的脚線美に身に着けているタイツが妙に艶めかしく感じたが、胸まで薄いところはどこか物足りなさを感じる。
「痛てぇ!?」
頭部に鋭い痛みが走る。
何故かいきなり少女から手刀を叩き込まれていた。
「黙って聞いていれば失礼な奴だな君は」
少女は薄く整った目鼻立ちに皺を寄せた。あまり表情に変化はないがどうやら怒っているらしい。
……それにしても、俺いま声に出ていたのか?
手刀を叩き込まれたことに訝る俺へと少女は呆れたように嘆息を漏らした。
「全く、これから色々と教えていかなければならないというのに呑気な男だ」
「教えていかなければならない?」
一体何の話をしているのか?
そんなことよりも俺には帰らなければならない場所が……
「……グッ!?」
身体に力を入れようとした瞬間、両眼に焼けつくような痛みが脈打つように走る。
それに伴って全身から力が湯水のように溢れ出し、あれだけ重かったはずの身体が紙のように軽くなっていく。
その圧倒的なまでの力に俺は内心で恐怖した。
とても自身の物とは思えない、それこそあの鬼と同じ制御することのできない人外の力に。
視界が紅く染まる。
「拒絶反応か」
異変に気付いたセーラー服の少女が労わる様に背を摩り、何度も何度も落ち着けと言い聞かせてくる。幼い見た目に反して慈母のように暖かい介抱に、深呼吸を重ねて俺の身体はようやく落ち着きを取り戻していく。
気づけば視界も元の色へと戻っていた。
「やはりあれだけ乱雑な契約ではどうしても副作用が出てしまうか……いや、寧ろこの程度で済んでいること考えれば────」
「一体何ブツブツ言ってるんだ……ッ!アンタ、俺の身体に何をした?」
目的が全く読めない不思議な雰囲気と、何もかもを見透かされているような態度。
どこか別世界から来たかのような少女の出で立ちと、感じたことのない激痛とが綯い交ぜになり、未だに何も理解できていない俺は無性な苛立ちを覚えた。
「なんだ、覚えていないのかい?」
少女は心底驚いたように瞳を丸くした。
「彼奴によって孤島に弾き飛ばされ、風前の灯だった君は願ったんだ。『まだ死ねないと』だから私が手引きしてあげたのだ」
その言葉に全てを思い出した。
アメリカ軍として戦い、突如現れた家族の敵に敗れて死にかけていたこと。
そして、誰かが俺に問いかけてきた光景も薄っすらとフラッシュバックされる。
「……一体何の?」
聞きたいことは山のように溢れていたが、直近としての疑問をぶつけてみた。
何よりこの眼の前にいる少女の本質を見極める必要がある。
そんな俺の考えを表情の変化から読み取ったらしい少女は天使のように微笑み、
「魔力の結晶。魔眼との契約さ」
そして、悪魔のように呟いた。
「君は悪魔に魂を売ったんだ。今その身体は人間のように見えて、あくまでその形を保っているだけに過ぎない」
魔力、魔眼、契約、聞いたことも無いような単語の羅列に呆気に取られていた俺へと、少女は一枚の手鏡を向けた。
そこに映っていたのは包帯だらけの一人の青年。
だいぶやせ細っていたが、どうやら俺自身らしい。
だが、運よく傷一つ付いていなかったその顔を見た瞬間、鏡の人物は声を失った。
紅色に煌めく生き血のような双眸。
悪魔の瞳がこっちを見返していた。
「魔術。世間には未だ浸透していない故、そのような反応になるのも致し方ない。だが、これから悠久の時を過ごしていく上では必要不可欠なリ知識さ」
眼の前の少女の言葉が全く頭に入ってこない。
変わってしまった自分の姿にショックを受ける俺に、少女は小さく嘆息を漏らした。
「肉体など魂の殻に過ぎない。ましてや君は五肢のどこも失っていないじゃないか」
少女の言っていることは正しい。
あれだけ粉々だった骨は奇跡的に修復され、両手両足も欠損箇所は無かった。
五体満足の身体の中で変わったのは瞳の色だけだ。
しかし、鏡に映っていた俺の瞳が、まるで悪魔にでも魅入られたかのようにこっちを見たまま離れない。それが酷く恐ろしく、背筋が凍り付くような思いをしているはずなのに、鏡の中の俺は狂ったように笑っている。
まるで、自身の違う人格が具現化したかのような光景だった。
「まあ、騒がないだけまだ良いか。人によっては魔術と聞いただけで拒絶するものも多い。ほら、見てみたまえ」
慄く俺の前で、少女がその大きな黒目の瞳を閉じる。
集中を促す深呼吸に合わせてその中心に生じた風が羽織っていた鳥羽色のコートを弧へとはためかせた。
体格は圧倒的に劣っているはずなのに、その見えない威圧感が俺とこの少女との圧倒的な力量差を明白にしていた。
「改めて名乗らせて貰おうか、少年────」
着衣が靡くことには眼もくれず、再び仰々しく開けた瞳は月光を連想させる蒼白色へと姿を変えていた。
「私の名前は竜。君と同じ黙示録の瞳の一つである蒼き月の瞳の保持者さ」




