夏の音(ヴァケーションフェスティバル)9
ぞわりッ……
今まで感じたことの無いような悪寒にも似た殺気だった。
「ッ!?」
「きゃッ!?」
反射的に、いや、ほとんど無意識と表現してもおかしくな速度で俺はセイナを庇うように身体を入れ替える。
セイナの悲鳴など耳には入らず、殺気のした位置、暗霧の紗が掛かった浜辺に鋭い紅い瞳を向ける。
どこだ……どこだ……ッ
「フォルテ?」
「ッ!」
どれだけの極限状態でも、しっかりと聞き取れたセイナの声に俺は振り向く。
位置が入れ替わったことで見下ろす位置にいた少女は、血走った俺の瞳に困惑を見せていた。
「急にどうしたの……そんな怖い顔して?」
「殺気がしたッ……!浜辺の方角から」
「浜辺?」
周囲の気配を探るためにセイナが瞳を閉じるも、すぐに顔をブンブンと交互に振った。
「そんなもの感じないわ」
呑気に答えたセイナのを見て、俺の興奮が怒りへとすり替わる。
「分からないのかッ!?これだけのさっ────」
そこまで言いかけて、感じていた殺気が欠片も無くなっていたことに気づいた。
呆気に取られて瞳から魔力が抜け落ちる。
黒く戻った視界に映っていたのは、打ち付ける虚しい波音のする浜辺だけだった。
「ごめん……」
自然と俺の口からそう零れた。
果たしてそれがセイナに乱暴を振るってしまったことか、殺気を勘違いしたことか、それともさっきまで二人でしようとしていたあのことに対してか……どれのことか、はたまたそれら全部か、自分でもよく分かっていない謝罪の言葉にセイナは小さく首を振って薄く微笑んで見せた。
「うんうん、ちょっとびっくりしちゃっただけ、怪我もしてないから……だから、そんな顔しないで?」
きっと、相当酷い顔をしていたのだろう。
頬に手をやって慰めてくれる彼女の優しさが、今まで受けてきたどんな傷よりも痛かった。
そして、何とか取り繕うとして見せた中途半端な苦笑を見逃す彼女ではない。
「ほーら、元気出しなさい。誰にだってミスくらいあるわよ。パフェでも食べて元気出しましょ」
落ちていたスプーンを袖口から取り出した白綿のハンカチで拭きつつ、セイナは白い歯を見せて笑ってくれた。
コンクリート足場の淵に腰掛けては、二人してパフェを突っついていると花火が打ち上がった。毎年恒例で祭の終局時に打ち上がるそれを、皆とは違う角度で見上げるセイナ。
そんな暗雲に描かれる色彩の花々に瞳を煌めかせる少女と違い、俺は物憂げな表情を浮かべていた。
先刻感じた殺気が脳裏にこびりついて離れない。
果たしてあれは本当に勘違いだったのか?
思い違いであるならそれでいい。だがもし誤りでないとしたら、相当な手練であることには違いない。
あれだけ近くにいたセイナが気づかなくて、俺だけが感じた殺気。
まるで何かメッセージの込められているような……そんな気がしてならないのだ。
何より俺の魔眼が無意識に反応したことが、その疑念を払うことの出来ない一番の要因である。
この眼は俺のどの部位よりも力に正直だ。
その眼で隣に座る少女を見やる。
俺の心配などいざ知らず、ちょうど打ち上がった特大花火を瞳の内に収めようとする少女。
何度も見たことある俺と違いない、今までこの光景を目の当たりにしたことのなかったセイナはすっかり魅入ってしまっていた。
何処にでもいる普通の少女のように。
一体誰が今の彼女を見て、普段の武器を構える姿を想像できようか。
それくらい今の彼女は無邪気で、繊麗で、何より可愛かった。
そんな彼女の表情に救われて、うじうじ考えることを止めた頃には花火も終わっていた。
もっと打ち上がるのを期待していたセイナは、花火と祭りの終了を促すアナウンスを遠巻きに聞いて、やや物足りないといった表情を浮かべた。
「そんなに気に入ったのなら、また見に来ればいいじゃねーか」
「他にもあるの?」
ブルーサファイアの瞳を空の星々のように瞬かせるセイナに、俺は呆れた嘆息を漏らした。
「花火なんてこの時期なら日本の何処でも見られるさ。それに来年になれば、またここで同じ花火を見ることができる」
来年…か。
いつまでこの状態が続くかも分からないのに。
「そうね、また来年…」
意図せずそう告げた自分の言葉を、セイナは反芻するように呟きつつ愛々しい笑顔を見せてくれた。てんやわんやだった今日が終わりを告げるように、再び静寂に包まれる太平洋。その波打ち際で見せてくれたその笑顔だけで、奔走した甲斐があったと心から思うのだった。
そろそろ帰ろう。
セイナに告げようとした時だった。
ポケットに突っ込んでいたスマートフォンがバイブしているのに気づいたのは。
表示を見て僅かに眉を寄せつつ、セイナに一言断りを入れてから電話に出ると。
『一体どういうことよ!!』
しんと静まっていた夜の帳を裂くように、雷鳴が一撃落とされる。
開口一番、鼓膜が破れんばかりの女性の金切り声に、反射的に電話を遠ざけた。
「お母様……?」
隣にいたセイナがキョトンと瞳を丸くするのに対し、俺は苦笑を浮かべつつ恐る恐る電話を耳に近づけると、
『ちょっと聞いているの!?ねえフォルテ、しっかり説明しなさい!!』
「一体何をどう説明しろってんだ、エリザベス」
今しがた聞いた花火が小音と感じるほどの怒声に、俺は眉間に皺を寄せる。
『決まっているでしょ、私の愛しのセイナのことよ!』
当たり前と言わんばかりに喚き散らすエリザベス。
取り乱したら手が付けられないのは、親も子も同じらしい。
『誕生日を祝うために私が何度も電話を掛けているのだけど、あの子一度も電話に出ないのよ。フォルテ、アナタ何か知らないかしら?』
何だ、そんなことか。
電話の理由に嘆息を漏らす。
お互いに多忙で難しい立場な故、直接会うことの叶わなかったエリザベスがセイナに連絡したが、電話を置いてきたことで一度も繋がらなかった。ということか。
今頃店に置いてきたセイナのスマホは着信やらメッセで埋め尽くされているに違いない。
「俺は詳しく知らないが、きっとアイツも反抗期で親の電話なんて鬱陶しいのかもしれないな……」
「な……ッ!??」
虚を突かれたかのような突飛な悲鳴。
冗談で告げた一言だったが、どうやら向こうにも落雷を堕としてしまったようだ。
「そんなウソ……ウソ……有り得ないセイナがそんな、これはきっと悪い夢、そう悪い夢よ、そうじゃなきゃ有り得ない、信じられない、もう生きていけない……」
余程ショックだったらしく、電話越しに呪詛のような嘆きがブツブツと繰り返される。
相変わらずその親バカぶりは健在らしい。
「ホントに噓だからそんなに真に受けんじゃねえよ、セイナなら俺の隣にいるぞ。あのゴルフのあとずっと連れ回してたんだが、スマホを家に置いてきちまったせいで出られなかっただけだ」
種明かしをしてから電話を遠ざけると案の定、耳を劈く叫喚が繰り出される。
錯乱する母親の様子にオドオドとするセイナが「あんまり刺激しないでよ」と心配するのを片手でいなしつつ、叫喚のタイミングを見計らって口を開いた。
「それで本題はなんだ?わざわざこんな時間に、ましてやお前から電話してくるなんて、何かあったのか?」
「あのね……親にとっては娘の安否だってよっぽどの理由よ?」
それと、今度覚えてなさい……と恨み節を挟みつつ、エリザベスは話しを改めるように軽い咳ばらいを挟んでから真剣な口調で告げる。
「今度の会合でちょっと問題があって、悪いけどセイナに助けて貰いたかったのよ」
「セイナが良いなら別に構わないが?そもそも俺がとやかく言う筋合いは無いと思うし」
設定をスピーカーモードにしてセイナに促すと、それに彼女も頷いている。
「それで具体的に何を?」
「実は……明日の式典に参加する予定だったリリーが病気になっちゃって、それでセイナに代理を頼みたかったの」
よろしくね、と軽く言われて俺達二人は、互いに顔を見合わせ、寝静まった夜に向かって吃驚仰天した。