夏の音(ヴァケーションフェスティバル)4
白熱したゴルフはエリザベスとベアードが同打の引き分け、伊部が僅差で負けるという結果に終わった。
賭けていた夕食については、俺のせいで打数が増えてしまったエリザベスの勝利というベアードの粋な計らいがあったようだが、エリザベスは「勝負は勝負、例えどんな妨害を受けようとも結果が全て」と食い下がらず、結局どこの国でもないフランス料理を食べるということになったらしい。
なったらしいというのは、彼らのゴルフが終わってすぐに俺は帰宅したため、その場に居合わせなかったのだ。この話しも代わりに立ち会っていたジェイクより後から連絡のあって。
電車でその旨を確認していた俺は、どこか焦るような気持ちで窓の外へと眼をやる。
遠くに見えた峠の方から西日が差し込んでいた。
例年は四人でゴルフを行うところを、今年は三人ということもあってまだ早い時間ではあるがどうも落ち着かない。
まさか……パートナーの誕生日を忘れていたとはな。
数時間前に聞いたリリー王女の誕生日。
それはつまり、双子の姉でもあるセイナの誕生日でもあるということだ。
だが完全にそのことを忘れていたわけではない。
言い訳していいのなら、数日前までずっとベッドで寝込んでいたことが原因だろう。
意識不明の状態から一週間前に眼が覚めたばかりの俺は、まるで眠っていた一か月分タイムスリップしたような状態だったため、曜日や日付を通り越して月ボケという年寄りみたいな(事実年寄りであることは置いておいて)ことになっていた。俺の中では梅雨時期の六月上旬のつもりが、世間様はすっかり初夏の七月だったというわけだ。
そんな状態の中でベアードの仕事を引き受けた俺は、すっかり大切な用事を失念してしまっていた。
思わずついた深い溜息が、乗客達の愉し気な雰囲気に反していて悔恨の念を際立たせる。
電車を乗り継いでは自宅のある港町へ戻ると、お祭りということもあって浴衣姿のカップルや子連れの親子、大学生の男女の集団でごった返しになっていた。
人ごみの隙間を縫うようにすり抜けては駅を飛び出し、人通りの少ない裏路地を使って自宅へと向かう。
夕暮れ時でも蒸し暑い空気に汗を拭いつつ、もう片方の手で何度かセイナに電話やチャットで呼びかけるも、何故か着信も既読もつかない。
逸る気持ちに比例して帰路に就く足も早くなる。
自宅に着いたのは、裏山の向こう側に太陽が沈みかけ、か細くなった西日が幻想的な黄昏時を雲に映し出していた頃だった。
一か月近く眠っていた身体には少々酷な帰路を顧みることなく、上がった呼吸もそのままに自宅の扉を開けた。
自宅には、セイナは居なかった。
それどころかロナやアイリスの姿も無かった。
久しく静かな自宅は物寂しい雰囲気に包まれており、遠くから微かに聞こえる祭囃子が、まるで俺だけを蚊帳の外へと追いやっているような気分にさせた。
薄暗がりのリビングで明かりをつけると、テーブルの上に何やら走り書きらしき紙が置かれていた。
『今日はみんなでお祭りに行きます。精々お仕事の程頑張ってください』
達筆なこの字はセイナのものだと一目で理解した。
やはり、今日のことを根に持っているらしく、丁寧な文面に見せかけての慇懃無礼な態度がグサリと心に突き刺さる。
とにかく、早く街に出て探さないと。
今日中であればまだアイツの誕生日だ。
俺はスーツからいつもの私服に着替え、必要な荷物をポケットに突っ込んでは再び家を飛び出した。
陽の堕ちた街は、いつにも増して喜々たる喧騒と吊るされた祭り提灯で賑わいを見せていた。
漁業を生業としてきた者が多く住むこの街にとって、このお祭りは大漁を祝うために古くから行われてきた伝統行事らしく、普段から表市場に訪れるお客や商業人に加え、観光客も多く訪れることで街の一大イベントとなっていた。
今日はそんな表市場だけではなく、交通規制を敷かれた国道には車ではなく、祭り神輿や屋台に群がる観光客で人の波が流れていた。
そんな中で、幾ら目立つ三人組とはいえど、数万人の規模から見つけ出すことは砂漠でダイヤを見つけるに等しい。
日没から数時間、セイナ達が訪れそうな場所は片端から探してみたが一向に見つからなかった。
ただでさえ早朝から他人のゴルフに付き合わされ、さらには慣れない人ごみに揉まれることに疲れてしまい、俺は自身の持つ店『Black Cat』の前にあったベンチに身体を預けては、参ったとばかりに唸り声を上げた。
提灯明かりもないこの裏路地は、迷い込みでもしない限り観光客はおろか、地元民ですら通るのは皆無なので静かなのはいいが、建物間から見える星明りは、そんな俺のことを気の毒そうに見下ろしていた。
何やってるんだか……俺は……
徒労に終わろうとしていた自身の行いから自暴自棄を誘発し、天を飾る星々に自虐的な笑みを向ける。
結局電話も繋がらなかった。
セイナはおろか、何故かロナやアイリス達とも。
もしかすると、意図的にセイナが二人に反応しないように指示を出したのかもしれない。
ナイーブにそんなことを考えて俺は、反射的に身を背もたれから起こす。
流石にセイナといえど、貴族である彼女がそのようなことをするはずがない。
だが、それではどこか抜けているアイリスは置いておいて、電子パッドを抱き枕にして寝るようなロナが全く音沙汰ないことの説明がつかない。
信じたくない卑しい考えと、しかしそうでもしないと証明できない現象にジレンマを感じる。
今はとにかく、アイツに会って話しがしたい。
電話でもなく、チャットでもなく、面と向かって────
思い至って俺がベンチから重い腰を上げようとしたその時、近くで微かに人の気配がした。
「こんなところで何してんのよ……?」
幼さの中にも凛々しさが宿る声。
視線を向けるとそこには、廉潔な一凛花が裏路地の暗がりから星芒に映し出されていた。
薄青の青白磁に染められ、袖や裾には桜の花びらが散りばめられた浴衣に華奢の裸身を包み、絵柄と同じ桜色の帯で抑えた姿に思わず息を呑んだ。
「……セイナ?」
普段の可愛さといつもと違う綺麗さを絶妙なバランスで合わせられた見た目に、一瞬別人かと疑いの眼差しで俺はそう呟いていた。
「何よ?そんな暗い顔して?」
悲劇にも似たそれを聞いて、いつもはポニーテールにまとめている金色の長髪を三つ編み団子にしていたセイナが首を傾げた。
その仕草、表情はまごうことなきパートナーのものであると今更気づいて、心の中でずっと溜め込んでいたものが途端に破裂した。
枯れ果てたと思っていた気概が蘇った身体が、ベンチから弾かれたように飛び出していた。
「ちょっ何よ……?」
俺の勢いに気圧されたセイナがややのけ反りつつ、薄く化粧を施したブルーサファイアの瞳をパチパチと瞬かせた。
「どこ行ってたんだよ……っ……ずっと探してたんだぞ?」
「探したって……ちゃんと祭りに行くって置手紙を置いておいたでしょ?」
正論を返された俺は口籠る。
訝るように俺を見上げたセイナの表情は、所々薄化粧が施されていていつもより細部が際立って見えた。
「そ、それは見たが……じゃあなんで電話に出なかったんだ?チャットだって……」
「電話?」
あぁ。と何か納得したように、透き通るような白い指が店舗『Black Cat』を指さした。
「スマートフォン、そこのお店にみんな置いていったのよ。浴衣って言うんだっけこれ?初めて着たけどこれってポケットがあまり無いじゃない。だから余計な荷物は全部置いていったよ」
セイナは自分の身なりをつま先から眺めては、その場でクルリと一周回って見せた。
おそらくロナが着付けたであろう片蝶流しの帯リボンが揺れ、付けていたローズの香水がふんわりと鼻腔へ入り込んだ。
「今もロナが持っていた財布のお金を全部使い切っちゃって、それでアタシがここに置いていった自分の財布を取りに来たのよ」
そうだったのか……
それを聞いて俺は強張っていた肩の力がようやく抜ける。
だが同時に冷静になった頭が、錯乱してチャットなり電話なりをそこそこ送っていた自分の愚行を気づかせては、恥ずかしさで途端に顔が熱くなる。
「それで、今日アタシに何か言うことがあるんじゃないのかしら?」
動揺する俺のことなど気づかずに、セイナは得意げに無い胸を張る。
その姿がいつにも増して可愛くて、頭の巡りが緩慢になっていた俺はつい……
「そ、その……すごく……似合っていると思うぞ……」
誕生日のことではなく、素直な感想を述べていた。
「えっ!?に、にににに似合ってる……?」
セイナがその場でぴょんっ!と大きく飛び跳ねる。
恐らくセイナ自身も誕生日についての答えを期待していたのだろう。
しかし、結果としてそれはセイナの不意を突いたらしく、彼女は俺と同じように頬を紅潮させてはモジモジと視線を逸らした。
「ほ、ホントに……?ホントのホントのホントに?」
余程信じられなかったのか、セイナは何度も何度も反芻するように聞いては、恥ずかしそうにちらちら上目遣いで俺の表情を確認してくる。
思えばこうして素直に思いを伝えたのは、今日が初めてかもしれない。
だから俺は、自身の気恥ずかしさをグッと堪えつつ、意を決してもう一度、その思いを口にした。
「ほ、本当だ……すごく、可愛いと思うぞ……それ」
「~~~っっっ!!!」
何とか口に出せた言葉を、セイナはきゅうぅぅぅぅぅと音が聞こえてきそうなほどに顔を真っ赤に染め、両頬を抑えてはニヤニヤと口の端を緩ませた。
そこには、普段の武具を振るい悪を討つ勇ましい姿は何処にもなく、ただただ可愛い一人の少女がいるだけだった。
ぐぅぅぅぅぅぅ……
情けないその音が、自分のお腹の音と気づくまでに数秒かかった。
互いに瞳を合わせては、セイナはクスリッと笑い、俺は気まずそうにお腹を摩る。
彼女の笑顔を見て安心したのだろう。ずっと張り詰めていたものから解放された身体が今更になって空腹を訴えてきた。
「ほら、何か食べましょ?アタシも付き合ってあげるわ」
セイナは俺の右手を引っ張って、裏路地から表通りへ連れ出してくれる。
「お、おい」
彼女の柔らかな指先の感触に連れられて、俺は半ば縺れるようにして歩き出した。
そのまま表通りの淵まで行くと、行きかう人々の波の手前でセイナがこっちに振り返った。
「その代わり、アタシにも一つ奢りなさいよ」
再び見せた彼女の笑顔は、どの星明りや祭り提灯よりも明るく素敵だった。