maintenance(クロッシング・アンビション)15
アメリカアカオオカミ。
ここ一帯に生息している野性の雑食猛獣だ。
飯でも探して彷徨っていたのか、が、ギラギラと鋭利な犬歯をナイフのようにチラつかせ唸り声を上げている。
どうやらご馳走を見つけて興奮しているらしい。
「ヒッ……!」
赤きオオカミがダラダラと涎を滴らせる姿にリズが怯む。
とても戦えるような状態ではない。
────俺一人でやるしかないか……ッ
レアステーキになる気など毛頭ないが、生憎と手は塞がっていて銃も刀も使えない。
グルルルル……ッ!
眼を合わせたまま、獰猛な爪を地に突き立てたオオカミが、じりじりと近づいてくる。
距離は十メートル圏内。
リズを降ろして戦おうにも、少しでもこっちが隙を見せれば飛び掛からんとするオオカミの威圧感……完全に釘付けにされている。
この状態のまま、やるしかないのか……!
だが……武器もない。両腕も塞がり。背には少女。挙句に人よりも優れた運動性能を持つ獣。
こんな状態で一体どうすれば?
「フォルテ……」
焦りを汲み取ってか、耳元でリズの不安声が響いた。
それに呼応するように、俺は深層意識から我に返る。
こんな時に何をやってるんだ俺は……
男が女を守るのに、下手な理屈なんて要らないだろッ……!
暗闇の世界が────紅く染まる。
「────リズ」
優しく名前を呼びかける。
眼をギュッと閉じていたリズが、それに気づいて瞳を瞬かせた。
身体に熱が入り混じる。
それもアルコールのような淡いものではなく、鮮烈な劫火に身を焦がすような焦熱。
魔眼の身体強化による反作用が、侵食するマグマのようにじわりじわりと広がっていく。
「お前はさっき自分のピンクが嫌だと言っていたな」
大丈夫……
以前の暴走による経験と、さっきリズが声を掛けてくれたおかげで……安定している。
「だがな……外見だけがお前の全てじゃない。お前の心の中には、誰にも負けない真っ赤な闘志があるじゃないか!」
「真っ赤な……闘志……」
二倍……三倍……身体から力が込み上げてくる。
よし、準備は整った……ッ!
眼には眼を、歯には歯を、オオカミには魔眼を!
グルルルァァッ!!
刹那────オオカミは駆け出し、跳躍する。
大きなシルエットが俺達の頭上に覆いかぶさり、空を飾る星明りを掻き消した。
速い……だが!
鋭敏なオオカミの動きをものともせず、俺はリズを背負ったままサイドステップで躱す。
「……ッ!?」
軽く躱したつもりが、勢い余って五メートル以上も距離を取ってしまった。
もはやステップではなく跳躍。
それだけ、今の自分は力に満ち溢れている。
肉体的にも、そして、精神的にも。
華麗に着地を決めつつ、身体の感触を確かめる。
まだ安定しきっていないが、これだけ使えれば十分だ……ッ!
「リズ、聞こえるか」
「な、なに?」
オオカミがこっちを見失っている隙に、背中越しに声をかけると、恐怖の中でも気丈に振る舞おうとする健気な声が返ってくる。
「今からあのオオカミを倒す、でもそれにはお前の闘志、度胸が必要なんだ」
「私の闘志……でも、そんなもの私の中には────」
「ある!それはこの隊長である俺が保証する……ッ!!」
弱気に傾きかけていたリズを、俺の半ば煽動するかのような鼓舞が遮る。
多少強引ではあるが仕方ない。
今やろうとしていることは、生半可な覚悟ではできないからな。
「そして……今からそれを証明するッ!!」
俺はオオカミに向かって突貫する。
オオカミもそれに気づいて再び突進してくる。
「でも、何をすればっ!?」
悲鳴のようなリズの訴え。
俺は林が撃ち靡くような咆哮を張り上げた。
「何があっても俺にしがみ付いていろっ!!!」
────接敵。
運動性能が人とは段違いなオオカミが、数メートル手前から跳躍。
さっきと全く同じ手。
そこまでは予測できていた俺も、同じように跳躍した。
今度は横ではく、縦に。
全長二、三メートルはあるオオカミの血に飢えた双眸、その真上の位置を取る。
「~~~っっっ!!!」
背中のリズはピンクがかった瞳を引き絞り、一心不乱に両手両足を使って俺にしがみ付いている。
そのおかげで片腕が自由になった。
空中戦で上を取った俺は、牙を剥いたオオカミの大口を右手で押さえつけ、跳び箱の要領で背に躍り出た。
フサフサな毛並みの上で前転を決めつつ、
「取ったッ!!」
右手一本でオオカミの赤茶な尾っぽを掴む。
ベルといい、中々握りがいがあるじゃねーかっ……!
「うぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!」
咆哮と前転の勢いを乗せた右腕をそのまま振り抜き、オオカミを地へと叩きつける。
大地の揺れるような衝撃と合わせ、「ギャインッ!?」と見た目とは裏腹の可愛らしい悲鳴が上がった。
「……ふぅ……!」
着地と同時に追撃を加えようとするも、倒れたままのオオカミは反撃してこない。
どうやら頭を強く打ち付けたらしく、泡を吹いたオオカミは打ち上げられた魚のようなにピクッ……ピクッ……と痙攣を繰り返していた。
「……ウソ……ッ!?」
眉間に皺が寄るほど眼を閉じていたリズが、その光景を目の当たりにして口元を抑える。
彼女にとって逆らうことのできない絶対的強さの象徴が、見るも無様な姿で転がされていた。
「な?だから言っただろ?お前の中には誰にも負けない真っ赤な……いや、赤でもピンクでもない、お前だけの色の闘志が宿っているって……」
月星の夜の下、笑った俺が振り返る。
人間離れした動きの中、恐怖に負けずにずっとしがみ付いていた少女へと。
よく考えてみれば、彼女に対してそんな表情を見せたのはこれが初めてかもしれない。
「でも……もしそれが揺らぎそうな時があれば、俺達が何度でも焚きつけてやるし、消えないように守ってやる。だから、お前は自分が信じた思いを貫き通せばいいんだ。母親のためにも、そして、お前自身のためにもな」
自然体の笑顔が、今の彼女にどんな色で映ったかは分からない……
でも……
「……うん……!」
初めて見せた彼女の表情は、どんな色にも引けを取らない、可愛く綺麗な薄紅だった。