バンゾック・フォールズ10
アイリスはそう言って、顎で示した先────デコボコの道路の脇の茂みで、隠してあったジープの辺りに視線を送るが……ここから見えるのは砂や泥で荒れた道と、その脇に生える木々や草花といった植物くらい。人影らしきものなんて見当たらなかった。
「……どの辺にいる?」
耳打ちするように静かに聞くと、アイリスは小さく首を振った。
「正確な位置は分からない……でも、明らかにジープの辺りの気流が乱れている……」
「気流?」
「うん、ボクは風を見ることができるんだ、大気の流れや強弱を、肌身ではなく色覚で捉えることができる……この一本道の右側に隠しているジープ。その近くに一つだけ、人を避けるように流れる風が視えるんだ……」
独特な表現に眉を顰める俺に、アイリスがジープの隠してある茂みの方を見据えたまま、補足説明してくれる。
正直それを聞いても完全には理解しきれないのだが、どうやらアイリスは風を、他の物体と同様に色で見ることができるらしい。
スナイパーは引き金を引く前に、目標までの風を読むとはよく言ったものだが……一体アイリスには、この世界がどのように視えているのだろうか……?と、気になる疑問ではあったが、今はそれを聞いている暇はない。視えないその人物について、俺はさらにアイリスに訊ねた。
「動物の可能性はないのか?」
「多分ない、鹿よりも高く、二足歩行の熊よりも低いし、猿などとも体格が合わない」
そんなに正確なところまで分かるのか。
「……武器は何も持ってないんだよな?」
アイリスはこくこくと頷いた。
俺はそれ見て、左のレッグホルスターからHK45を抜いた。弾倉は装填してあるので、スライドをずらし、薬室内に銃弾があることを確認する。いつでも撃てる状態だ。
「……」
愛銃の黒いボディを見た俺は、自分のその考えを本当に実行するべきか逡巡したが、すぐに思い直し、アイリスにハンドガンを差し出した。
「これは……どういうつもりだい?」
集中しているのか、その琥珀色の瞳からは、ハイライトがスーと薄くなっていき、次第に人間味を失っていくアイリス。が、昨日の戦闘時にも聞いた抑揚の欠片も無い、AIのような感情を殺した無機質な声でそう訊ねてくる。
ここまで助け合ってきたとはいえ、仮にもアイリスは昨日、俺達をスナイパーの囮として使ったことは事実────そんな相手に銃を渡すことなんて普通しないだろう。
しかし、川に流されていた時、本来なら俺を放っておいてもアイリスには害は無かったはず。だがそれでも、二人を持ち上げるほどの風を使い、魔力切れを起こしてまで俺を滝から救ってくれた。自分の無防備な気絶している状態まで晒して……
それ以外にも、行動を共にすることでアイリスの人柄について知ることができ、悪いイメージは多少なりとも払拭された。俺はコイツを、信頼に足りる人物だと判断したのだ。
その信頼の証として、俺はいま自分の愛銃を、唯一の飛び道具を差し出しているのだ。後ろから撃たれないことを信じて。
「いいか、俺が前に詰めて隠れている奴を炙り出す。アイリスはコイツで援護してくれ」
受け取る気配が無かったので、俺はアイリスの右手を強引に取って、無理矢理ハンドガンを握らせた。
手のひらに乗せられたハンドガンを、無感情な瞳で見つめるアイリスを背に、俺は小太刀「村正改」を腰の鞘から抜刀して、ゆっくりと詰めていく。
────カチリ……
銃の安全装置が解除された音が、荒れた道をすり足で進んでいた、俺の背後から聞こえてきた。纏わりつくような暑いベトナムにしては、酷く不気味なほどに冷たい音だった。その音に身体が反応したのか、身震いすら起こしそうな程の冷や汗が、ツーと首筋を一撫でした。
アイリスは銃口を前方、俺の背中の方に向けた────が、発砲することは無かった。
ふぅ……と心の中で嘆息を漏らしたが、安堵するにはまだ早い。寧ろここからが本番、スタート地点に立ったところだ。
なるべく足音を立てないように荒れた道を進んでいき、逆手に持った小太刀で周囲を警戒する。あんまりキョロキョロし過ぎると、相手の場所を把握してないことがバレてしまうので、顔ではなく、視線だけを動かすようにして敵を探るが……
「……」
なにも仕掛けてこない……?
さっきとは別の汗が頬から垂れる。
殺気なら俺でも感じることができる。だが気配に関しては、動いている人間でないと感じることは流石にできない。
────どこからくる?
いや、そもそも敵なのかどうかすらまだ俺には分からない。
逸る気持ちを抑え、視覚だけに頼らずに、嗅覚、聴覚を研ぎ澄ましながら道路を進み、ジープの止めてある場所の脇まで来た頃。突如、強い突風が俺達に襲い掛かった。
バンッ!!バンッ!!
「……ッ!?」
背後から銃声、聞きなれた.45ACP弾の発射音。
突風で身を屈めた瞬間を狙った二発の銃弾が、俺の方に向かって飛んでいき────
キンッ!キンッ!
誰もいないはずの頭上で鋭い金属音を響き、真っ二つになった鉛玉が、荒れた道路に叩き伏せられる。
見上げた先には誰もいなかったが、頭上の空間には、何か歪みのようなものがあった。透明な水、ゼリーが浮かんでいるかのような────
────あれは、まさか光学迷彩!?
「クッ!」
何度も使ったことのあるそのその兵器に一早く気が付いた俺は、アイリスが撃った場所に向け、逆手に持っていた刃を横なぎで振るう。真上に右フックするように振るわれた刃から、ガキンッ!と確かな感触が伝わってくる。
力任せに振るった一撃で、空中にいた何かを弾き飛ばした俺は、その方角、背後にいるアイリスの方に刃を構える。
「……あれ……フォルテ?」
銃口をこっちに向けていたアイリスと、挟み込むような形でその襲撃者を囲んでいると、.45ACP弾の銃声と同じくらい聞き慣れた、少女の可愛らしい声が光学迷彩の揺らぎから発せられた。
「……セイナ?」
俺が刃を下げながらそう訊ねると、空気の歪んでいた部分がヴォン……と機械的な音と共に、少女の姿が浮かび上がった。
深緑色のポンチョを羽織った可憐な少女は、全身に迷彩が掛かるよう被っていたフードをばさりと取り、綺麗なブルーサファイアの瞳と白い肌、そして、トレードマークの長い黄金色のポニーテールを露出させた。
やや窶れているようだが、凛々しいその姿は間違いない。セイナ・A・アシュライズだ。
「二人とも無事だったのね」
構えていた双頭槍、グングニルを下げたセイナは、俺とアイリスを交互に見てからそう告げた。
「……よくここが分かったね……」
セイナだと分かって、いつの間にか殺気を消していたアイリスも、銃口を下げながらこっちに歩いてくる。
安全装置を掛けて、HK45を返してきたその琥珀色の瞳にも、ハイライトが戻っていた。
「ここに来れば二人と合流できると思っていたの、まぁ、地図はフォルテが持っていたから、ほとんど記憶と勘頼りだったけど……で、アタシもさっきここに着いたばかりで二人を探そうとしていたら、急に人が来たから……てっきりもう敵に張られていたのかと思って身を潜めていたの」
「そうだったのか……ところで、ロナはどうしたんだ?」
本来なら、セイナのいま着ている深緑のポンチョことICコートは、もう一人の仲間であるロナの私物だ。セイナが身に着けているのは違和感があるし、そもそも持ち主の姿が見えないことを不審に感じた俺がそう訊ねると、セイナは何故か顔を曇らせた。
「ロナは……」
何か言いにくそうな表情で逸らした視線、俺とアイリスが見つめる先、深緑のポンチョと長いポニーテールが風で靡いた。
「ロナは……敵に捕まったわ……」