ナイトメア・クリーチャーズ
使い古された展開だ。
泣きたくなるような気持ちを隠すように、皮肉げな笑みを、僕は浮かべた。
もしかしてここは昔、忍者の隠れ里だったのではあるまいか、などとふと思い浮かぶ程のど田舎で僕は暮らしている。四方山村という名前の通り、見事なまでに四方を山に囲まれた陸の孤島で、県の中心まで行くのも一日数本のバスに乗ってやっとこさという具合。何故わざわざ山を切り開いてこんな窪地に住もうと考えたのかご先祖様達に問いただしたくもなる。
そこで僕はこの四方山高校に通学しているが、世の流れに従ってこの村も人口流出が留まらず、結果僕一人だけが高校生という按配になっている。小学校も中学校もいっしょくたの学校で、下の教室から少なからず低学年の子供達の声が響いてくる教室で只一人延々と自習を続ける。こんな人数なら普通は隣町の学校とかに合併される規模なのだろうけど前述の通り一本道しかなく、バスも少ないようなところだからそれも出来ない。この村の唯一の名士による資金援助のお陰でかろうじて成り立っているという具合だ。結果として教師を複数雇うような余裕も無いから、高校生クラスは…というか僕は十分な自己管理能力有りと判断され、定期的なテストで学力管理を施され、平素は基本自習となっている。まあ昔の人は十四歳で元服していたのだから、十七歳で判断能力有りとみなすのもあながち間違ってもいないのかもしれない。
そんなことを思いながら僕は今日も一人ペンを走らせていた。建替予算も無いから教室は昔ながらの木造建築のままで、古びた、だけどどこか落ち着くそれ特有の香りに満ちている。秋になるとすぐに隙間風が入り込んでくるし、台風でも来れば雨漏りがするようなボロい教室だけど、今日のような春晴れの穏やかな日で過ごす分には至上の教室だとは思う。机と椅子があり、一人だから疲れたら本を読むことも出来る。田舎過ぎて不便だと感じることは多々あるけれど、そんな静かで自由な教室が僕は好きだ。将来のことを深く考えたことは無い。学業を欠かしたことはないが、さりとてやりたいことがある訳ではない。理系の学問も、文系の学問も特に嫌いでも好きでもなかった。知ることは好きだけど何かを生み出したいわけではなかった。家業は農家ではあるが、もはや家庭菜園程度のものだ。親からは親達の死ぬまでの食扶持は確保したから、自分の食扶持は自分で確保するようにと突き放されている。まあこのご時勢に高校の学費まで出してもらえたのだから御の字というものなのだろう。この村で生きていくのならば役所勤めとして消えゆく自治体維持を見届けることになる。逆に自分が死ぬ頃まで村に雇ってもらえるかは不安ではあるが。一方で村を出て進学の道を選ぶのはあまり現実的でないように思う。漠然と出たところで親の援助が見込めないのだから奨学金を負い、日々の生活費を稼ぐ為にアルバイトに忙殺されることが目に見えている。やりたい事もないのにそのような中で満足に学問を修められるかも自信が無い。だからもう少し時間をかけて考えようと思っていた。今はただ茫洋とこの時間と自由を楽しんでいたかった。
4月も下旬に差し掛かり、散り始めた桜の花びらが教室に入り込んでくる頃のことだった。
いつもの通り始業の30分前に登校し、スマホにて定額制の音楽配信サービスアプリからおススメされたプレイリストを聴きながら、中古で買ったkindleで電子書籍を読む。一人しかいないのでおはようの挨拶も基本的に必要ない。世の中の大半の教室には朝から大勢の生徒が居て賑やかに始まるのだろう。それもそれで少し羨ましく思うこともあったけど、一人は一人で良いというか、昔からの流れでもう慣れている。寂しさを覚えることももはや無い。
それが僕の日課だった。そして始業の5分前にはスマホもkindleもしまって、代わりに参考書を取り出しながら教師を待つ。そして出席を確認してもらって勉強を始めるのが、いつもの流れだった。
ただその日だけは少し違った。学校まで20分ほどかけて歩いていくのは変わらなかったけど、靴を履き替える際に、いつもの湿った木材の匂いだけではなく、どこか乳臭い、でも低学年の子供達のそれとも思えない匂いをわずかながら感じた。変化の無い毎日の中ではほんの些細なことでも目に付く、いやこの場合は鼻に付くだろうか、いずれにせよ気になり、少し疑問に思った。またそれだけなら気のせいで済んだかもしれないが、教室で気まぐれにヘッドホンを外してkindleを読んでいると、階下のクラスで囃し立てる数人の子供達の声の中に、少し大人びた、高すぎないハスキーな声が混じっているような気がした。この学校の教師はまだ20代半ばの若い女性ではあるけれど(その点に関しては非常に奇跡的な人材だとは思う)流石に聞きなれているのでそれではないとはっきり確信を持てる。そこで何とはなしにこの学校にもう一人、新しい人間が加わっていて、しかもそれはかなり若い女性なのではないかという疑念が生じた。同時に、途端にそわそわと落ち着かなくなって来た。
自分は元よりコミュニケーションというものが得意ではない。対面で人と話すにあたり、定型的なものであれば問題は無い。例えば村に1件だけあるコンビニ(9時開店17時閉店という田舎であることを差し引いてもやる気のない店だ)で世間話せずに買い物するとか、低学年の子と遊んであげるとかなら、決まったパターン内でのコミュニケーションならこなせる。だけど同世代や年上の人間と会話することは苦手だ。僕は相手の言葉以上の意図を汲み取ることができない。単語一つに複数の意味は込めてはいけないと僕は思うけど、おはようという言葉のイントネーションから元気であること、そうでないことを読み取れと言われてもよくわからないのが正直なところなんだよな。それで気を使えとか言われたところで面倒臭いというか、それなら一人静かに過ごしたいのが正直なところだ。親ならまだいいけれど、中学生時代にまだいた二人の同級生と話さなくてはいけない時は苦痛だった。話の内容はテレビとまとめサイトの話題だらけで閉口したものだ。一過性の情報に一喜一憂するよりは本でも読んで自分の中に知識を貯め込む方が有益だと思っていたせいで合わせてそう言ったものをチェックする気も起きなかった。いつも通り挨拶を交わしていたからそれで良いと思っていたけど、次第に二人とも僕のことが疎ましかったようで、疎遠になっていた。少しずつ不機嫌になる二人の態度に僕がもう少し敏感であったならもう少し違う未来もあり得たのかと思うけれど、察することはやっぱり苦手なんだ。この頃は親との会話も苦痛になりつつある。多分だけど僕の中の将来の考えとかを探る意思がノイズのように会話中に紛れ込んでいるからだろう。はっきり言えば良い。言えないような勇気もない人間と会話しても仕方がないと思う。そういうことを考える内に相手の気持ちを悟ることが嫌になっているんだ。
もしこの後女教師が誰かを連れてきて、僕に干渉するようになれば、僕に飽きるまでおよそ2−3週間は話しかけたりしてくるかもしれない。そう思うとその分自分の好きに過ごせる時間が減るので、少しばかり不愉快な展開が待っているだろう。だから落ち着かなくなったのだ。
そうこう考えている内に予鈴が響き、きっちり10秒置いて足音が聞こえてきた。女教師の革靴が立てるコツコツという音と、ペタペタといった感じの軟性の素材と木材の床が立てる音だ。事ここに至り、僕は新しい人間が来る事を確信し、同時に少しばかり安堵した。転校生だかなんだかが、複数人いるという最悪の可能性は回避できたからだ。そいつらが僕がいなくてはいけない空間内でおしゃべりなと始められてはやかましくて堪え兼ねるだろう。でも一人なら最長3週間程度のダメージで済む。総損失時間は最低限で済むからだ。音がより大きく成って来た。僕は既に覚悟を決めた。当たり障りなく、かつ早々と僕への干渉を諦めてくれる態度を貫き通すことを。
がらりと戸が開いた。おはよう、希乃君と女教師が声をかけながら入ってくる。その後に連なるように予想通り同年代くらいの女の子が入ってきた。ただ大きかった。背丈は女教師よりも頭一つ大きい。そして女教師は僕よりも少し低い程度だ。差し引き10センチくらいは僕よりも大きいのではないだろうか。真正面に立ったら少し見上げるくらいになるだろう。そして口を固く結び、キリッと強い眼差しをしている。よくは知らないが、高校生の女の子にしては大人びているというか、少し怖いくらいだ。整った顔立ちなのにその迫力のせいでかわいいというより、綺麗と評したくなる。甘えを許さない面構えに少し赤味がかかった黒髪のポニーテールがなにやらユーモラスに思えた。服装は前の学校のものなのか、紺色のブレザータイプ。四方山高校には特に指定服が無い為、僕は親父の黒色のスラックスとワイシャツを勝手に制服と位置付けて来ている。寒ければ私服のジャケットとかコートを羽織るだけだ。だから彼女の制服らしい制服が珍しく、ついついしげしげと、それもスカートから白の靴下、上履きに至るまで眺めてしまった。
「希乃君、珍しいのはわかるけどどのような事情があるにせよ女性をそう眺め回すのは感心しないよ?」
少し呆れた顔で女教師の山野辺先生から指摘を受けてしまった。指摘通りの為に恥ずかしくなり、赤くなった顔を隠す為と非礼を詫びる意味を込めて頭を下げる。
「よろしい。それでは改めて…転校生を紹介します。彼女の名前は尾野蝶子さん。希乃貫之くんと同じ高校二年生よ。都会の高校からご両親の都合でこの四方山高校に転入することになりました。…本来であれば男女二人きりで放置教育を行うことに抵抗はあるのだけれど、人手が足りなくてね。そんな情けない大人からの御願いで恐縮なのだけど間違いは起こさないように。一応尾野さんには防犯ベルを持たせてます。轟音と共に無線で私のスマホに連絡が入るようにしてあるけど、基本的に希乃君はそういうことはしないと信じてます。あくまで念の為、だからね」
無線機能付きの防犯ベルとはずいぶん念の入った物だなと感心してしまう。まあもとよりそんなことで人生を棒に振るつもりはないけど。この村社会の噂話ネットワークこそがベルなんかより恐ろしいセキュリティだ。例え冤罪であっても下手な噂話だけで生活圏内から爪弾きにされかねないものなのだから。
「じゃあ尾野さん。一人しか居ないから物足りないかも知れないけど、自己紹介御願いね。」
そこで転校生がすっと前に出た。あまり広くない教室だからそれだけで物理的な距離が縮む。心なしか乳臭さと柑橘系が入り混じった香りがする。
「…始めまして、尾野蝶子と申します。今までずっと✖︎✖︎市(県庁所在地で、この辺じゃ一番都会の街だ)に暮らしてました。この村のことは初めてて、まだわからないことが多いです。だから色々ご迷惑をおかけすることがあるかも知れませんが、よろしく御願いします。」
挨拶の終わりと共にぺこりとお辞儀をする。予想に反して少したどたどしい感じの話し方で、内心驚いた。そして少し安心した。最初は睨まれているような気もしたけど、単に緊張していただけなのかも知れない。そう思ったら3週間で飽きて欲しいなど願った自分の小ささが恥ずかしく思えた。いきなり男一人しか居ない教室に転入させられて緊張しない女の子なんて居ないはずがないよな。自分が逆の立場でもゾッとするもの。
「あ、あの始めまして。さっき先生も言ってたけど、僕は希乃貫之と言います。あ、希乃は希望の希に、乃木希典の乃…です。歌人の紀貫之と名前は一緒だけど、その、苗字は違うんだ。よろしく御願いします。」
これまで数える程しかしたことのない自己紹介だけど、この言い方が一番わかってもらいやすい。両親ももう少し気を使って名前をつけるべきだと何度思ったかしれない、インパクトがあって良いとかそういうノリは本当に辞めるべきだ。けれど、そこで少しくすりと尾野さんが笑ったように見えた。
「わかりました。これから2年間よろしく御願いします。希乃君」
窓から春風が吹き抜ける教室の室温が、少しだけ上がったように思えた。原理的にはあり得ないから、思わず僕が少なからず動揺しているという証左だろう。少しはにかみがちの、ぎごちのない笑顔。あざといなんて言う人がいるかもしれないけど、人間関係に揉まれず、人生経験に乏しい僕の眼には裏表の無い人にしか映らない。こんなちょっとした挨拶で人と話すのもいいかもしれないなどと早くも思い始めているから僕は我ながらちょろいと思う。
「それじゃ1日の過ごし方とかはもう尾野さんには伝えてあるから後は二人で教えあうなりなんなりしてね。それとこの教室に加えてあらゆるところに監視カメラを取り付けてあるからうかつなことは出来ないように…あら二人ともそんな鳩豆な顔しないで。冗談よ冗談。ティチャーズジョークよ。いわゆるTJね。フフフ。では先生は低学年の教室に行くからまた昼食時間に会いましょう。それではね」
あまりシャレにならないことをサラッと言い残して先生は出て行った。普段の会話が短いせいもあるが、そんな一面があることは知らなかった。もしかしたら珍しく転校生なんてイベントがあったせいで先生もテンションが上がっているのかもしれない。
「あの」
考え事をしていた僕が、視線を正面に戻すと尾野さんがおずおずと立ち尽くしている。
「机と椅子はどこにあるものを使ったら良いでしょうか」
そういえばそうだ。大昔はずらっと狭い教室に置かれていた机も椅子も、今やまとめて掃除しやすいように倉庫代わりの空き教室に詰めて置いてある。一人で取りに行っても良いけど、せっかくだから案内がてら一緒に取りに行く方が良いだろう。
そう伝えると尾野さんは素直について来てくれた。一緒に歩きながら小さい校舎を案内する。そんなに話すことはないけれど、それでもなるべく飽きさせないように話す。気づけば手が汗で湿っている。頭がフル回転している。
尾野さんは逐一笑いながら、僕が話すことに詰まると質問するなり、会話が途切れないように気を遣ってくれた。こんな風に話してくれる人に今まで会えなかったから何だか嬉しくなってきた。思えば同世代と触れ合う機会も中学以来無いし、他の人間との会話なんて必要最低限と言った具合だったから新鮮な感動を覚えるのも当然だったかもしれない。
だからそれだけに信じられなかった。
埃の積もった倉庫に足を踏み入れ、机を運び出そうとした僕の背後からそっと抱きしめてきたのが尾野さんだということが。
背に非常に高温の熱源が密着している。
それは湿り気を帯びていて、強烈な芳香と共に僕の判断を狂わせる。
突然、これまでに無い衝撃を受けて、処理不可能な情報量に僕の頭はショートした。
そして高粘度の、強い毒性を伴った、妖しく艶やかな言葉がそこに注ぎ込まれた。
「永劫無極の時を経て、再びお会いできましたこと、何より嬉しく思います。
月の光よりも愛しさやまぬ希乃の君よ、
今こそ約束に従い、血の歓びを酌み交し、願い果つることを」
彼女が何を言っているのか、欠片も理解出来無い僕はひとまず、背に当たる何かの感覚の正体について思いを馳せ、そして導いた一つの答えの前に意識を失うこととなった。