潮流
いったい、何が事の発端であったのか。
その問いに、正確に答えられる者は誰もいなかったろう。
きっかけの一つを挙げるならば……
それは、コルキュラとコリントスという都市国家同士の争いにすぎなかった。
だが、それぞれの都市国家は、より大きな勢力に援助を求めた。
その求めた先が、問題だった。
コルキュラはアテナイに、コリントスはスパルタに、それぞれ後押しをしてくれるよう使者を送ったのだ。
デロス同盟の盟主であるアテナイと、ペロポネソス同盟の盟主であるスパルタ。
ギリシア世界を真っ二つに割るふたつの勢力の覇権争いは、もはや避けられない情勢となっていた。
スパルタの王たち、そして長老会は、それでも、最後まで和平の道を探り続けた。
生まれた瞬間から戦士としての道を歩き、敵と戦い殺すための訓練を受けてきた男たちは、それゆえにこそ、戦争がもたらす痛みと疲弊を誰よりもよく知っていたのだ。
だが、運命の女神たちの剣は、またしても容赦なく振り下ろされる――
スパルタの同盟都市テバイが、突然、何の予告もなしに、プラタイアに攻撃をかけたのだ。
プラタイアは、アテナイの同盟都市だ。
決定的だった。
和平のためのあらゆる努力が、いまや水泡に帰したことを、人々ははっきりと悟った。
こうして、戦闘の火蓋が切って落とされた。
「アテナイの×××野郎どものケツに、目いっぱいデカいやつをぶち込んでやれ!」
「あの×××××どもを冥府の河に叩き込み、永久に後悔させてやるんだ!」
前四三一年の春、アルキダモス王は二万五千人の兵士を率い、怒涛のごとくアッティカ地方に侵攻した。
その軍勢の中にはもちろん《獅子隊》も加わっており、獅子奮迅の働きを見せて、その名は後々までアテナイ人たちの恐怖の的となった。
当時のアテナイの指導者は、ペリクレス。
彼は当初、
「あーんな家畜も口をつけんよーな薄黒いスープしか出ん貧乏都市、どないにでもなりますがな!」
などと言っていたようだが、まさかオリュンピアとデルフォイのふたつの聖域がスパルタを援助するとは思っていなかったので、その事実が判明したときには、青くなったり赤くなったりしたという。
ペリクレスは慌てて、アッティカ地方全域に避難命令を出した。
アルキダモス王の軍勢は、住民を失った家々に火を放ち、ブドウ畑やオリーブ畑を焼き払った。
無論ペリクレスもただ引っ込んでばかりはおらず、お返しとばかりに世界に名だたるアテナイ海軍を繰り出して、ペロポネソス半島の海辺の町を襲い、これを徹底的に破壊した。
「……なぜだ」
敵の家を焼き、穀物倉を焼き、畑を焼き、牛を殺し、山羊を殺し、人を殺し――
そして故郷へと戻る船の上で、海辺の城壁から幾筋も立ち上る黒い煙を見たとき、レオニダスは、不意に呟いた。
「何のために?」
攻撃、報復、そして報復――
当たり前の光景ではないか?
人間の営みの中で、これまでに何度となく繰り返され、そして、自分自身も幾度となくそこに身を投じてきた光景ではないか?
だが、それでもレオニダスは呟かずにいられなかった。
なぜ? 何のために?
その言葉は反響のように、いつまでも彼の心にこびりついて消えることがなかった。
双方の民に甚大な被害をもたらしつつ、戦争は、年を越しても終わらなかった。
翌年、スパルタ軍は、アテナイの城壁のすぐ側まで迫った。
こんどこそアテナイのクソ野郎どもにとどめをさしてやる、と戦士たちの士気はこの上なく高まったが、しかし、突如アテナイの町に舞い降りた、地上最強の敵を前にして、彼らは退却を余儀なくされた。
疫病だ。
それまで名実ともにアテナイのリーダーであったペリクレスもまた、この自然の猛威になぎ倒され、あっけなく死んでしまった。
その後に立ったのは、クレオン。
もしも、このクレオンという男が、ちょっと見栄えがよく弁が立つだけの男であったなら――
そう、単におべんちゃらが巧く、立ち回りが器用なだけの男であったなら、アテナイはあっという間にスパルタに叩き潰され、戦争は終わっていただろう。
だが、幸か不幸か、この男もまた只者ではなかった。
彼は度重なる戦闘にも耐えてアテナイの国力を衰微させることなく、それどころか、同盟国からの拠出金や貿易による利益によって、国有財産を一四六〇タラントンまで増やしてのけたのである。
「ま、金儲けなんちゅうもんは、盤上のゲームみたいなもんやなァ」
ぬけぬけとそう言い放つこの男は、また、冷酷な支配者としての一面も持ち合わせていた。
アテナイが主宰するデロス同盟から脱退しようとする都市国家に対しては容赦ない攻撃を加え、それまで形の上だけでも仲間であったとはとても思えぬ、過酷な制裁を下したのだ。
民主制の旗を掲げる『帝国』――
アテナイがそのように変貌しつつあることを、その時代にギリシアに生きる誰もが感じていた。
レオニダスたちは、この巨大な時代のうねりの真っ只中にいたのである。
先の見えぬ嵐の海の闇のなかで、すぐれた操舵手が船を操るように、彼は命をかけて《獅子隊》を導き、どんな苦しい戦闘にも勝ち残った。
常に毅然とした横顔を見せ、部下たちから全幅の信頼を集める《半神》の心のなかでは、いつもあの反響が鳴り響いていた。
なぜ?
何のために?