風の吹く丘
逃げ出すように天幕を離れ、丘に登った。
激しい風に髪が踊り、頬を叩く。
見上げると、抜けるような青空が広がっていた。
クレイトスの目の色とは違う青。
まただ。
レオニダスは頭を振った。
それでも少年の面影を打ち消すことはできなかった。
彼は頭を抱え、丘の頂上の岩に座り込んだ。
風の音が聞こえる。
昔から、なぜかこの場所に惹きつけられた。
昼でも、夜でも、何かあればこの丘に登り、一人でぼんやりと座っていた。
訓練が辛かったときも、戦友を失ったときも、重大な判断に迷ったときも――
(おーい! レオニダス!)
金の髪の少女は、いつもずかずかと登ってきては、満面の笑顔で彼の背中を叩いた。
(何を、こんなところでぼぉーっとしているんだ? うん? 聞こえない! 何だか分からんが、ほら、肉だ。厨房から盗んできた! 元気が出るから食べろ)
そうだ、彼女だけが、ここまでやってきた。
自分と他者とを隔てている分厚い壁を、あっさりと突き破ってくる強さをリュクネは持っていた。
だからこそ惹かれたし、一緒にいれば楽だった。
そんな相手は彼女だけだ。
それなのに、自分は、どうしたのだ?
(レオニダス様……)
暗闇。
(レオニダス様)
月の光。
白い光を浴び、悲鳴にも似た声でその美しい生き物は吼える。
濡れたような乳色の身体がくねり、とろりとした赤い果実が開く――
嘘だろう。
自分は、あの少年に欲情しているのか?
それはごく自然なことだと、頭では分かっていた。
あんな美しい少年を前にして何も感じないほうがおかしいのだ、と皆は言うだろう。
だが……
「駄目だ」
苦しい声で呟く。
駄目だ。それだけは。
「レオニダス様」
不意に聞こえた声を、一瞬、白昼夢の続きかと思った。
弾かれたように立ち上がり、振り向くと、クレイトスが立っている。
大きく肩で息をしている少年の顔には、ひどく思い詰めたような表情が浮かんでいた。
「あの、お詫びをしなければと……申し訳ありません。僕が、何か、お気に障ることをしてしまったのでしょう」
レオニダスは地面を見つめた。
クレイトスの青い目と、視線を合わせることができなかった。
「……いや」
「でも」
「おまえは悪くはない。戻って、休んでいろ」
言い放ち、背を向ける。
数呼吸、待っても、少年がその場を動く気配がないので、
「早く行け」
押し殺した声で促した。
そうでなければ、自分を抑えられなくなりそうだった。
目の届く限り、この場には二人きりだ。
腕をとらえ、引き寄せたらこの少年はどんな顔をするだろうか?
逃れようとするかもしれない。
だが、クレイトスがどれだけ必死に抵抗しようとも、レオニダスの力に敵うはずもない。
引き倒して馬乗りになり、そして――
奥歯を噛みしめ、今度は断固とした調子で言おうと決意しながら振り返る。
すると、少年が泣いていた。
レオニダスは、口を半分開いたまま、ぽかんとした。
その瞬間の彼の表情をディオクレスが目撃していたなら、間違いなく指差して大笑いしただろう。
それとも、唖然としただろうか――
クレイトスは身体の両側で拳をきつく握り、声を立てずに、下を向いた目からぼろぼろと涙をこぼしていた。
渇いた岩肌に、涙の痕が点々と散ってゆく。
「どう、した」
思わず顔を覗き込むようにすると、今度は少年のほうが顔を背けた。
「申し訳ありません!」
腕で顔をこすり、必死に涙を隠そうとする。
衝動的にレオニダスは少年の腕をつかみ、下げさせた。
それから自分の指の背をクレイトスの頬に当て、流れ落ちる涙をぬぐった。
クレイトスは、はっとしたように視線を上げた。
「何故……泣く?」
「じ、自分が、あまりにも不甲斐なく」
「何?」
「レオニダス様のお心にかなうようにと、努力をしているつもりなのですが……レオニダス様は、あまりにも完璧すぎて、今の自分では、足元にも寄ることができず……どうすればいいのか、分からないのです」
新たな涙が溢れ出し、レオニダスの指を濡らす。
「お気に召さないことがあれば、どうか、仰ってください! 僕は、レオニダス様にふさわしい戦士になりたいのです。どうか……」
目を閉じて、あとは言葉にならない。
(ああ……)
レオニダスは、ようやく理解した。
この少年をここまで不安にさせ、追い詰めたのは、自分なのだと。
初めて会った瞬間から、強く、強すぎるほどに惹かれた。
それゆえに、あえて視線を逸らし、言葉数も少なく、できる限り距離を置こうとした。
「クレイトス」
名前を呼んだのはこれが初めてだ、と、言いながら気づく。
「すまなかった……」
クレイトスが驚いたように目を見開いた。
訓練場で、倒れたクレイトスに、自分は手を差し出すことができなかった。
あの試合の後、念者から労わりの言葉をかけられ、戦い方についての指導を受ける他の少年たちの姿を、クレイトスは、どのような思いで見ていたのか。
年嵩の部下たちには、念者としての自覚を持つよう求めた。
それなのに、自分は、すぐ側にいる念弟の心を汲んでやることもできなかったのだ。
自分の身勝手な想いがクレイトスをどれほど傷つけ、苦しめたか。
それを思うと、心が痛んだ。
いつの間にか、肉体の疼きは消えていた。
これで自分は、初めて、彼の念者になれる。
「次の訓練まで、まだ時間があるな」
レオニダスは太陽を見上げ、視線を戻して呟いた。
「槍の扱いを教える。おまえは筋がいい」
クレイトスは、信じられないというようにレオニダスを見つめていた。
《半神》がかすかにだが笑うところを、彼は、初めて見たのだ。
「はい!」
輝くようなその笑顔を、やはり、美しいと思う。
レオニダスは眩しさを感じて目を細めた。
無論、彼らは気付いてはいなかったが、このとき、運命の女神たちの足音は彼らのすぐ背後にまで迫っていた。
それは、やがてギリシア全土を飲み込み、その地に生きるあらゆる人々を押し流してゆくこととなる巨大な潮流だった。
ペロポネソス戦争。
そう呼ばれることになる大戦が、始まろうとしていた――