戦士たちの休息
最も暑くなる昼には、休憩となった。
「あの方が生きながらにして《半神》と呼ばれる理由が、よーく分かったよ」
フェイディアスは独り言のように呟き、小川の水を両手ですくって頭からかぶった。
右の二の腕に、くっきりと青痣がついている。
レオニダスに模擬槍で打たれたのだ。
手加減された、と、彼ははっきり悟っていた。
本気でやられていたら、間違いなく骨が砕けていただろう。
「ほんとうに誰ひとりとして敵わんとはな、まったく! 稲妻のごとき槍さばきだった! スパルタ人は、あの方が味方であることを神々に感謝しなければならんな」
「フェイディアス、これを」
彼の念弟であるパイアキスがやってきて、布を差し出した。
消炎効果のある薬草をすり潰した軟膏が塗りつけてある。
フェイディアスは黙って腕を差し出し、布を巻いてもらった。
パイアキスは模範的な主婦のように気配りが行き届く性格で、豪放磊落なフェイディアスとは正反対と言ってよかった。
「おまえは?」
問うと、パイアキスは黙って、腿に巻いた布を指した。
フェイディアスと同じく彼もまた、新しい指揮官にはまったく歯が立たなかったのだ。
「何だ。俺が手当てをしてやろうと思っていたのに」
「あなたに『手当てをする』なんて発想があるとは思えませんね」
パイアキスは苦笑した。
二人は、揃って《獅子隊》に配属される遥か以前からの付き合いだ。
共に幾多の実戦を経験し、互いの性格も知り尽くしている。
かつて、戦場で二時間以上も槍と剣とを振り回して敵を斬りまくり、ようやく戦闘が終結してみれば、背中に矢が二本も刺さっていた――しかも気づいていなかった――というフェイディアスだ。
身体をひねりながら「本当か? 見えないぞ」と大真面目に言った彼の言葉が、パイアキスには忘れられなかった。
「なかなか言うようになったな、パイアキス」
フェイディアスは濡れた手を伸ばして念弟の顎を撫でた。
その手つきはひどく優しく、パイアキスは思わずうろたえて目尻を染めた。
念者と念弟とのあいだに、ただ戦場で肩を並べて戦うという以上の絆が結ばれることは珍しいことではない。
むしろ、それはギリシャ人社会における一般的な風習とみなされていた。
特にスパルタでは、若い戦士たちはみな兵舎で共同生活を送り、日常の起居においても、厳しい訓練においても、常に行動を共にする。
肉親よりも、互い同士で過ごす時間のほうが遥かに長いのだ。
その中で、血の絆よりも濃く、友情と呼ぶにはあまりにも強すぎる想いが育まれてゆくのは、むしろ自然なことであると言えた。
動揺をごまかそうと、パイアキスは早口で言った。
「あの少年は、なかなかのものですね」
「どの少年?」
「クレイトスですよ。隊長の念弟の」
「ああ」
フェイディアスは髪から滴り落ちるしずくを指先で払いのけながら言った。
「俺の目に狂いはないさ。あいつは強くなるぞ。顔は可愛いが、根性は相当なものだ」
「早速、噂になっていますよ。隊長殿は、あの少年に手をおつけになるだろうか、と……」
「おまえはどう思う?」
「さあ、どうでしょう」
パイアキスは首をひねった。
「レオニダス様はとても愛妻家で、奥様ひとすじだとか。その手の話は全然聞いたことがありませんね」
「さて、どうなるかな」
フェイディアスは意味ありげに言った。
「黒髪に乳色の肌、海を思わせる瞳……あの少年を初めて見たとき、海神ポセイドンが手すさびにお創りになったかと思ったくらいだ。俺なら、とても我慢できんな」
パイアキスが顔色を変えたのを見て、フェイディアスは意地悪く笑った。
「ははは! 何だ、その顔は? 嫉妬か」
「フェイディアス!」
「安心しろ、俺には、おまえだけだ」
フェイディアスはあっさりと言い放った。
パイアキスは不機嫌そうな顔を崩さなかったが、眼差しが表情を裏切っていた。
血の絆よりも濃く、友情と呼ぶにはあまりにも強すぎる想い――
その頃、彼らの指揮官は、黙々と堅パンをかじり、黒スープをすすっていた。
ひさしのように張られた天幕が涼しい日陰を生み、その下にいくつかの長椅子が置かれている。
幾人かの戦士たちが、その下で食事をとっていた。
少年たちのなかには、厳しい訓練に消耗してスープもほとんど喉を通らない様子の者もいたが、彼らの念者が強引に食事をとらせた。
とにかく、腹に何か物を入れておかないことには、身体が持たない。
クレイトス少年は、それほど重症ではないようだった。
彼は自分の手と口とを動かすことも忘れ、目を丸くして、レオニダスがあっという間に食事を片付けていく――という表現が適切な――様子を見つめていた。
「何だ」
食事の最後の無花果までを食べ終わり、気づかないふりをするのも、とうとう限界だ。
レオニダスはあきらめて、少年に視線を向けた。
「も、申し訳ありません!」
クレイトスは慌てて目を逸らし、だが、すぐにまた視線を戻してきた。
「あの、レオニダス様は、食べるのがとてもお早いのですね」
そうだろうか。
特に意識したことはなかった。
戦場での暮らしが長ければ自然とこうなる。
突撃を控え、完全武装で、わずかな食事を立ったままとったことも何度もあった。
この少年も、これから何度となく経験するだろう。
死と向き合う瞬間。
これが、この世で最後の食事になるかもしれないという思いを噛みしめる、あの瞬間――
「早く食え」
口から出たのは、そんな一言だった。
少年は驚いたような顔をし、それから、慌てて食べ始めた。
残っていたパンのかけらを黒スープに浸し、口に押し込む。
それから皿を持ち上げて、中身を一気に飲み干した。
レオニダスは、ぼんやりとその様子を眺めていた。
そらされた喉ははっとするほど白く、とがった喉仏が少し苦しげに上下する。
何となく、見てはならないものを見たような気がした。
理由も分からぬまま目を逸らしたが、どうしても視線が引き寄せられる。
クレイトスが無花果に噛み付いた。
白く濁った果汁が少年の唇からこぼれて口元を汚した。
皮に包まれていた赤い果肉が剥き出しになり、そこに白い歯が立てられる。
唇ですすり、舌で舐め取り、味わう――
「!」
不意に、白昼夢のように目の前の光景が揺らいだ。
暗闇。
月の光。
濡れたような乳色の肌。
赤い果肉――
「レオニダス様?」
青い目が、見上げている。
周囲からも驚いたような視線が集まっていることに、レオニダスは不意に気付いた。
彼は、いつの間にか、立ち上がっていたのだ。
「申し訳ありません、僕が、何か……」
少年からの呼びかけに、レオニダスは答えられなかった。
あまりにも生々しく、みだらな夢想。
なぜだ。
少年に対して――自分を敬愛している少年に対して、こんなことを考えるなど。
クレイトスに対しても、そしてリュクネに対しても、裏切りではないか。
自分は、急に恋神の矢にでも当てられたのだろうか?
「次の訓練まで、休んでいていい」
それだけ低く言って、レオニダスは天幕から出た。
これ以上、クレイトスを前にしていたら、自分が何を考えてしまうか、それが恐ろしかった。
取り残されたクレイトスは途方に暮れて、周囲の兵士たちと顔を見合わせた。
だが、彼らもまた、首を傾げるばかりだった。
物静かな彼らの指揮官が何を考えているのか、皆、少しも分からなかったのである。