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約束


 その瞬間、フェイディアスが抜く手も見せずに白刃を閃かせた。

 誰が動く暇もなかった。


 半ばほどまで武器を引き抜きかかった相手の喉元に、研ぎ澄まされた切っ先をわずかに食い込ませ、フェイディアスは底光りのする目で唸った。


「彼らに、指一本でも触れてみろ。たとえスパルタ人同士であっても、容赦はせん」


 これを見た年嵩の戦士の念弟エローメノスが声もなく武器を抜いて飛び出そうとしたが、周囲の男たちが咄嗟に、本当の流血を食い止めるべく、これを押さえつけた。


「……パイアキス愛おしさに、とうとう狂ったか?」


 自分の武器をそれ以上抜くこともできず、だが欠片ほどの恐怖もその面に浮かべることなく、年嵩の戦士は表情を歪めた。


「剛勇のフェイディアスのこのような醜態、目にせずに済んだ隊長殿は、幸運であったのかもしれんな。刺してみろ、フェイディアス! 貴様に、まだそれだけの勇気があるのならばな!」


「いけません、クセノクラテス様!」


 彼の念弟エローメノスが地面に押し伏せられてもがき、必死に訴える声だけが辺りに響く。

 フェイディアスは野生の獣のように歯を剥き、相手の喉元に切っ先を当てたまま、鼻先がぶつかりそうなほど近く顔を寄せて囁いた。


「俺が、臆病者かどうか、明日の俺の戦いぶりを見てから決めるがいい。だが……これだけは言っておく。俺たちは、何のために、これまで戦ってきた? 死ぬために戦ってきたのか? そうではないはずだ。俺たちは……生きるために戦っているのではないのか!? 戦場で、死を恐れずに戦うことと、軽率に死を求めることは違うはずだ!」


 そこまで言って、フェイディアスは急に眉を下げ、首を振った。


「くそっ。……自分でも、何を言っているのかよく分からなくなってきた。俺は、あまり弁論は得意ではないのだ。これ以上、難しいことを喋らせるな」


 そのとき、誰かの手がフェイディアスの襟首をむんずと掴み、クセノクラテスから引き離した。

 次の瞬間、岩のような拳が有無を言わさずフェイディアスの顔面に叩き込まれる。

 フェイディアスは抜き身の剣を手にしたまま鼻血を吹いて吹っ飛び、男たちの輪の中に倒れ込んだ。


「エ」


 と目を丸くして呟きかけたクセノクラテスの頬桁にもまた、拳の一撃が容赦なく叩きつけられ、彼は回転しながら仲間たちの人垣の中に突っ込んだ。


「双方の言い分、よう分かった!」


「エピタダス将軍……」


 それまで何ひとつ言葉を発さず論争に耳を傾けていた老将軍は、男たちの中央に進み出ると、部下の鼻血に塗れた太い腕を組んで立った。


「皆、少々、気が立ち過ぎておるようじゃな。落ち着け。戦いを前にして逸る気持ちは分かるが、本物のスパルタの男ならば、どのような時も、巌のように静かな心であらねばならぬ」


「じゃあ俺たち、今なんで殴られたんだ……?」


「さあな……」


 仲間たちの手で地面に座らされ、憑き物が落ちたような顔で情けなさそうに言い合うフェイディアスとクセノクラテスをそれぞれぎろりと睨み据えておいて、エピタダス将軍は大きく咳払いをした。


「皆、聞け。――よいか。今、我らスパルタ人の男の数は少ない。我らがここで皆死ねば、それはスパルタにとって大きな痛手となろう。今は身動きならぬ怪我人であるとしても、いずれ快復し、優れた血を繋ぐ望みがあるのならば、そのために国元へ返すというのは、理に適った判断であると言える。たとえ、この場で戦いの役には立たずとも、将来の優れた戦士を生み出すことに貢献することで、スパルタにとって価値ある働きができるというわけじゃ」


 男たちがざわめいた。

 エピタダス将軍は、フェイディアスの主張を擁護したのだ。


 フェイディアスは思わず口を開きかけて、やめた。

 話しながら、将軍が再びぎろりと彼を睨んだからだった。

 エピタダス将軍の言葉は、フェイディアスの言わんとしたこととは少し食い違っていたが、将軍は、それを承知で話しているのだ。


『無駄に命を捨てることはない』


 幾多の戦場を往来した老将軍は、そのことを若い部下たちに納得させるために、敢えて、別の理屈を説いている。


「わしは何も、怪我人にスパルタの地まで歩いて帰れと言っておるのではないぞ。ピュロスの砦を包囲しておる味方の軍勢と合流することさえできれば、故郷に戻れるよう、彼らが取りはからってくれるじゃろう」


「ですが……」


 飄々とした将軍の話しぶりにすっかり勢いを殺がれながらも、気遣わしげな様子で、戦士たちは口々に言った。


「果たして、本国は彼らを受け容れるでしょうか?」


「そうです。エウリュトスとアリストデモスの例があります……」


 エウリュトスとアリストデモスは、熱き門テルモピュライの三百人の中から二人だけ伝令としてスパルタに帰還した男たちの名だった。

 彼らはスパルタの市民たちから、自分たちだけ戦いから逃れた臆病者、卑怯者と罵られ、蔑まれ、一人は首をくくって死に、もう一人は行方をくらましたという。


「戦場から自ら逃げ出した臆病者ならば、スパルタは、決して彼らを許さぬ。その者は市民としての資格を剥奪され、人々の侮蔑と嘲笑を受けることとなろう。――じゃが、わしらの戦友たちは、決して臆病者などではない。卑怯な敵とも正々堂々と渡り合い、己の名誉を汚すことなく、戦傷を負うた者たちじゃ。そうであろうが? ……ふむ、そうじゃな、この事情が正確に伝わらなければ、怪我人たちがいわれのない難詰を受ける破目になるやもしれんのう。ちょっと書いといてやるか」


 エピタダス将軍は何のためらいもなく自分自身の衣の裾を引き裂き、片手をひらひらと動かした。

 側に控えていた従卒が心得たように携帯用のインク壺を差し出し、将軍は、布の上に指で事の次第を簡潔に書きつけていった。


「将軍は……隊長たちが再び回復することがあるとお考えなのですか?」


「それは、わしらではなく、神々のお決めになることよ」


 あっという間に手紙を書き終えた将軍は、布をくるくると巻き、


「さあ」


 そう言って、リュクネを手招いた。


「お嬢さんや、これを持ってゆきなさい。良いかな、時間はあまり残されておらんぞ」


 戦士たちは、顔を見合わせた。

 リュクネに、こんなふうに呼びかける男はめったにいない。


「ボートはあるのかな?」


 将軍の問いかけに、リュクネははっきりと答えた。


「はい。我々が乗ってきたものがあります」


「いかんな。わしも見たが、怪我人を乗せて運ぶには、あれは小さすぎる。三段櫂船に積んである上陸用のボートを下ろして使うとよい。わしらは、もう、あれに用はないじゃろうから」


 あっさりとそう言い放ち、将軍はフェイディアスに向き直った。


「脱出させるべき重傷者は何人おる?」


「隊長を含め、計五名です」


「よし。その者たちを乗せるのに、まずは一艘。そこにお嬢さんと、お嬢さんが連れてきた男、他に漕ぎ手として三名の国有農奴どもヘイロータイを乗せる。――その他に、あるだけ全てのボートを、おもて暗き海に下ろすのじゃ。今、この島におる国有農奴どもヘイロータイ全員を、本土へと送り返す!」


 周囲の戦士たちがどよめいた。

 だが、部下たちの動揺とは対照的に、エピタダス将軍の口調は落ち着き払っている。


「わしらは、もはや、彼らにも用はあるまい。たって希望する者は残ってもよいが、その勇気のない者は、この島が血の流れる戦場と化す前に立ち去るのがよかろう」


「ですが、将軍!」


 フェイディアスは思わず、将軍に詰め寄らんばかりの剣幕で言い募った。


国有農奴たちヘイロータイは、脱出の足手まといになります! この作戦の成否は、いかに隠密に動くかという一点にかかっている。家畜の群れのように、海上を大勢でのろのろと動いていたのでは、敵の目についてしまいます!」


「ゆえに、時間をおき、別々の地点から、海上の異なる経路を通って脱出させるのじゃ。怪我人たちの乗るボートは、最も見つかりにくいところから、最も先んじて送り出す。そして国有農奴どもヘイロータイの乗り組むボートは、別の地点から、少し時間をおいて出発させるがよい」


 将軍はそこまで言うと、表情はまったく変えぬまま、ぐっと声を低めて続けた。


「よいか。いざ、アテナイ人どもが上陸してきたとき、国有農奴どもヘイロータイはほとんど戦力にならぬ。それだけではない。おそらくクレオンは、自由や金をちらつかせて彼らを取り込み、扇動し、我らに歯向かわせようとするじゃろう。戦場で彼らの忠誠を期待するなど無駄、かえって、身内に敵を抱えるようなものじゃ」


 戦士たちが一様に得心した表情を見せると、将軍は大きく頷き、


「オイオノス、ヒエロス、テラコス、メリッソス!」


 雷鳴のような声で呼ばわった。

 呼ばれた戦士たちが、たちまち整列する。


国有農奴どもヘイロータイに命じ、今の指示を実行させよ。細部はお前たちの判断に任せる。行け! ……よし。フェイディアスよ、そもそもこの話、当の負傷兵たちには?」


「まだです」


 そう答えたフェイディアスの口調は、平静を装おうとはしているものの、明らかに重苦しい調子を帯びた。


「というよりも、身動きならないほどの重傷者の中で、話ができるほど意識がはっきりしている者は、パイアキス以外におりません」


「で、そのパイアキスにも、まだ話しておらぬのだな」


 将軍は腕を組み、大きく鼻息を吹いた。


「この計画、何よりも、当の本人が納得せねば話にならん。だが、ごたごたと長話をしておる暇はない。フェイディアスよ、恨まれる覚悟はしておけ」


「無論です。頭を殴り付けて失神させてでも、送り出します」


「……嫌ですよ」


 弱々しいけれどもはっきりとしたその声が届いた瞬間、フェイディアスの断乎たる表情が、そのまま凍りついたように見えた。

 戦士たちの輪がざわめき、左右に退いて道を空ける。

 姿を現したのは、仲間たちに左右から腕を担いで支えられたパイアキスだった。


 フェイディアスの計画が実行に移されそうだと見て、矢も楯もたまらず、パイアキスに知らせに走った男たちがいたのだ。

 フェイディアスは、その者たちを非難しはしなかった。

 むしろ、彼らのことなど目にも入らぬというように、パイアキスの顔だけを見つめていた。


「フェイディアス」


 パイアキスは脚の激痛を堪えて顔を引き攣らせ、今にもその場に倒れ伏しそうな顔色ながら、激しい口調で念者エラステースをなじった。


「あなたは、一体、何を言い出したんです。この私に、あなたを残して、ここから逃げろと? そんなこと、できるはずがない! 私は残ります!」


「足手まといだ」


 フェイディアスがそう言い放ち、男たちは皆、自分自身がそう言われたかのように黙りこくった。

 パイアキスの目が、ゆっくりと見開かれ、その顔が悲痛に歪んだ。

 何か言おうとするように口が開いたが、すぐには言葉が出てこなかった。

 彼がかぶりを振ると、見開かれた目から涙が流れ落ちた。


「それなら……殺して下さい、あなたの手で。さっきは、そうしようとしたじゃありませんか。あなたを残していくなら、死んだ方がいい。フェイディアス、あなたの手で、私を刺し殺して下さい……」


 男たちの中には、堪え切れずに顔を背け、咽び泣く者さえもいた。

 同時に、フェイディアスに対しての憤慨を新たにする者たちもいた。

 いかに傷つき、身体の自由が利かぬ身となったとはいえ、誇り高きスパルタの戦士に、それも己自身の念弟エローメノスに対して、「足手まとい」とは何という残酷な言い様か――


「パイアキス」


 そう呼びかけたフェイディアスは……微かに、笑ったのではないだろうか?


「いいか? 俺はな、とんでもなく嫉妬深い男なんだ。俺はお前を、たとえ、死体になってたとしても、アテナイの連中に触れさせるなんてことには我慢できない。絶対にだ」


 彼は大股にパイアキスに歩み寄り、両脇で支える連中のことなど意にも介さずに念弟エローメノスの頬を両手で挟み込むと、愛おしげに見つめた。

 そして口づけをし、彼を強く抱きしめた。


「俺のために……生きてくれ、パイアキス。生涯、俺のことを忘れずに生きてくれ。俺を愛しているなら、それくらい、簡単なことだろう?」


 身を離し、そう言ったフェイディアスの目は涙に濡れていたが、その顔には、いつものからかうような笑みが浮かんでいる。


「安心しろ。俺たちは、死ぬために戦うわけじゃない。どれほど血を流し、泥に塗れようが……最後の最後まで、生き延びるために戦う! お前が生きていると思えば、そのための力も湧いてくるというものだ。約束しよう。――お前が生きている限り、俺は、決して死なんと」


 フェイディアスの言葉に、何を感じ取ったのか。

 パイアキスは涙を流しながら、長いあいだ、念者エラステースの目を見つめていた。

 やがて、その顔がくしゃりと歪み、パイアキスは泣きながら微笑んだ。


「無茶苦茶ですよ、あなたは……でも、あなたは、これまで、約束を破ったことはない」


 パイアキスは震える手を伸ばし、祈るように、フェイディアスの腕に触れた。


「必ず……その盾と、共に」


「ああ」


 フェイディアスは笑った。


「必ず、また会おう」


 そして彼は、くるりとパイアキスに背を向けた。

 仲間たちに支えられて去るパイアキスは、何度もフェイディアスの方を振り向いたが、フェイディアスは、もう振り返ることはなかった。


「リュクネ様」


 ずっと無言でいたクレイトスが進み出て、しぼり出すような声で言った。


「どうか……レオニダス様を」


 それを聞いた男たちが、誰からともなくリュクネの側に寄り、彼女を囲んで立った。


「隊長を、どうか……」


「無事で、故郷へ」


「ああ」


 リュクネはひとりひとりの戦士たちの目を見返しながら、はっきりと頷いた。


「必ず守ってみせる。婿殿の命も、他の皆の命も」



     *       *       *



 リュクネたちは去った。


 スファクテリア島に残された戦士たちは、海岸から引き上げて泉の陣地に拠り、夜明けまで仮眠を取ろうとしていた。

 だが、実際に眠ったのはわずかな者たちだけで、残りの者はあるいは横たわり、あるいは物にもたれて座ったまま、まじろぎもせずに闇を見つめていた。


 フェイディアスは小高い岩山の上にただひとり、身動きもせずに突っ立っていた。

 確かに目は開いているのに、星々は頭上に輝いているのに、何も見えないような気がした。


 パイアキスは、もういない。

 自分の傍らに、暗く深い穴が開いてしまったような気がした。

 目の中で星々の光がぼやけて、たくさんの白いもやのようになった。

 そのとき、誰かが側に来る気配がして、フェイディアスは激しい咳払いにごまかして顔をぬぐった。


 やってきたのは、クレイトスだ。

 彼は何も言わずに、フェイディアスの隣に立った。

 その瞬間にフェイディアスが感じたのと同じ感覚を、クレイトスもまた味わったはずだ。


(違う)


 自分の隣にいるはずの相手は、もういない。

 二人は、長いこと、黙ったまま佇んでいた。

 やがて、クレイトスが呟くように言った。


「僕たちの決断は……正しかったのでしょうか?」


 フェイディアスは、しばらくのあいだ何も言わず、ただ夜の闇を見つめていた。


「分からん」


 と、やがて彼は言った。


「だが、俺は、後悔していない。これほど苦しくとも……後悔は、していない。あとは、それを貫き通すだけだ。どんなことになってもな」


 クレイトスもまた、何も言わず、身動きさえもしなかった。

 彼が何を感じ、何を考えているのか、フェイディアスには分からなかった。


 そのときだ。

 闇の中に、小さな炎の点が灯った。

 北の方角。

 角度からして、砦があるはずの高台の頂上。


 あまりにも小さな光だった。

 目を凝らしていた信号係でさえも気付かなかったかもしれない。

 だが、彼らは気付いた。


「狼煙が上がった! 北の砦! ――敵襲だっ!」


 フェイディアスが叫び、泉の陣地は騒然となった。

 もともと眠っている者がほとんどいなかったために、反応が早い。


「馬鹿な。真夜中だぞ!?」


「いや、俺も見た!」


「あれだ! 見ろ、確かに、炎のあかりだ」


「だが、何かの手違いではないのか……」


「何を、ごちゃごちゃ言っておる!」


 エピタダス将軍が破れ鐘のような声で命令を発した。


「ぼやぼやするな! 狼煙を上げよ!」


 信号係は飛び上がり、狼煙台に点火した。

 乾いた枝葉を舐めるように炎が伸び上がり、火の粉を撒き散らす。

 

 ほどなくして、南の砦がある辺りにも炎が灯ったのが見えた。

 信号が伝わったのだ。


 そのとき、北に向けて目を凝らしていた戦士たちがどよめいた。

 北の砦に灯っていた小さな炎が、消えたのである。


「なぜ、炎が消えたのでしょう? ……まさか」


 クレイトスは思わず呟いた。

 不要不急の火の使用が禁じられている今、たとえば手元を照らすなどの下らぬ用事で炎を灯すはずがない。

 北の砦には、ディオクレス率いる部隊が詰めている。

 彼らは確かに、こちらに何かを伝えようとしたのだ。

 そして、今のが『敵艦隊に動きあり』という警告だったとすれば、一度灯った炎がすぐに消えたことの説明がつかない。


 では、まさか――


「北の砦に、敵が?」


「おそらくは、な」


 いつの間にかフェイディアスとクレイトスを押しのけるようにして岩山の一番上に立ち、北の砦の辺りを睨みながら、エピタダス将軍が言った。


「夜間の奇襲とは、獣並みの行いよ。だが、どうやら敵は、どんな汚い手でも使う気でおるらしい。おそらく、奴らはそれをやったじゃろう」


「まさか!」


「北の砦は、あの地形に守られているというのに」


「では、ディオクレス殿は――」


「静まれい!」


 一挙に広がろうとした動揺を叩き潰すように、エピタダス将軍は両手を広げた。

 男たちが口を閉じ、食い入るように見つめる中、


「聞け! 北の砦は、既に敵に制圧されたものと思われる。いまや、決戦のときは来た。各員、配置に着け!」


 老将軍は宣言し、腕を組んだ。

 男たちは、速やかに動き始めた。


 別離の悲しみがある。

 緊張も、不安も、無いとは言えない。

 だが、いざ戦いとなれば、そんなことは関係なかった。

 ただ持ち場を守り、一歩も退かず、仲間を守り、敵を殺すだけだ。


「いよいよですな」


 幾分か冗談のような調子でフェイディアスが呟くと、


「然様」


 エピタダス将軍は太い腕を組んだまま、派手に鼻息を吹いた。


「武勲詩でも、ここからが面白いところじゃろうが? アテナイの腰抜けどもに、ただで手柄を立てさせてやるつもりなど、毛頭ないわ。――いざ、戦神アレスも照覧あれ! 我らスパルタの戦士、その名に恥じぬ勇戦をお見せいたそう。我らが血と、我らが敵の血で、この島を赤く染めようぞ!」



     *       *       *



「やれやれ……」


 崩れた狼煙台の傍らに立って、クレオンは呟いた。

 ここまで、真っ暗闇の中を味方に先導され、死体に蹴つまづき、浮き石に足を取られそうになりながら、苦労してここまで這い登ってきたのだ。

 少し平らになった場所で片足を引いて、脹脛ふくらはぎと足首の腱を伸ばし、もう一方の足も同様に伸ばし、仕上げに腰に手を当ててぐっと背を反らしてから、姿勢を戻す。


 そうして見据えた先には、今、あかあかと灯るふたつの炎があった。

 ひとつの炎はこの地点よりもずいぶんと低い位置に、そして、さらに遠くに見える炎は、ここと同じくらいの高さにあるように見えた。

 狼煙の炎だ。


「完全にバレてしもたなあ。もっと隠密敏速スマートに動く予定やったのに、めんどくさいことになってしもた……」


 彼が送り込んだ特殊部隊は、北の砦を制圧するという任務は果たしたものの、隠密裏にという件に関しては完全に失敗した。


「まあ、それだけ相手が手強いっちゅうことやな。ほんま、スパルタ人ゆうのは化け物じみとるで。すごい、すごい」


 クレオンは言いながら、狼煙台の側に転がっていたふたつの死体を足先でつついた。

 珍しい虫の死骸を棒でつついてみる子供のような仕草だった。


 全身を血に染めて倒れ伏した二人の男たちは、死してなお武器を手放しておらず、互いの手を固く握り合ったままで事切れていた。


 そこへ、クレオンの付き人の一人が息を切らせて登ってきた。

 スファクテリア島に上陸したクレオンに、もちろん彼らも付き従っている。


「あの坊や、おった?」


 クレオンは、敵味方の死体が無数に散らばる辺り一帯を漠然と示すような手つきをしながら言った。


「ほら、海岸におったやろ。あの、めっちゃ可愛い子。……見てない? あ、そう。よかったわ。あんな別嬪殺してもうたら、もったいないどころの話やあらへんからな」


 真顔でしみじみと頷く司令官を、集まったアテナイの男たちは、どこか不気味そうに見つめていた。


「――で、」


 と、問い掛けたのはデモステネスだ。

 彼もまた、戦いの顛末を最後まで見届けるべく、この場所に来ている。


「これから、どないする。夜明けまで待つか?」


「『どないする』やて?」


 クレオンが振り向いた。

 その顔には、顔を二分しそうな笑みが浮かんでいた。


「そんなもん、決まってるやん。――ぶっ潰すんや。今、すぐに!」


 アテナイ艦隊の総員に、スファクテリア島への上陸命令が発された。

 弓兵、歩兵、漕ぎ手までが総動員され、彼らは幾つもの小部隊に分かれて、スパルタ人たちの陣地を目指す。


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