冥府行
「こんなん、あかんと思うわ」
「デモステネス君……君、まだそんなこと言うとるんか?」
ぼそりと呟いた盟友に、クレオンはどうやら呆れ返った顔を向けたらしかった。
隣から手を伸ばし、その肩を叩く。
「腹ァ括ったんやないんかいな? 今さら弱気になってどないすんねん」
「そない言うたかて、なぁ」
「とにかく、ゴチャゴチャ言わんと、まっすぐ前向いて堂々としとかんかいな!」
隣でなおもぶつぶつ言うデモステネスの脇腹を肘で突いておいて、クレオンは彼一流の笑みを浮かべ、居並ぶ兵士たちと同様に、半島の岸辺からスファクテリア島に向かってゆく無数のボートを送るように、高々と手を掲げた。
「誰が見とるか分からへんのやから、誰から見られてもええようにしとかんとな。……まあ、大して見えとるとも思われへんけど、こういうのは用心が大事や、用心が」
何十艘ものボートに分散して乗り組むのは、数百名を超える兵士たちだ。
だが、出撃してゆく彼らが、クレオンたちの見送りに気付いたかどうかは定かではなかった。
それどころか、同じボートの隣に乗り合わせた者の顔すら、はっきりと判別できているかどうか怪しいものだ。
時はいまだ、夜のただ中。
しかも、ひとつの松明も篝火も焚かぬこの状況では、辺りはほとんど完全な暗闇に覆われている。
辛うじて天上から注ぐ星々の光だけが、彼らのひそやかな動きを照らしていた。
ときの声も音楽もない、静かな出撃だ。
それどころか、兵士たちは一言も口を利かず、武具の触れ合う箇所には詰め物をし、漕ぎ手たちは櫂受けに布を噛ませて、できる限り音を立てぬように工夫していた。
彼らは夜陰に乗じて隠密裏にスファクテリア島へ漕ぎ寄せ、まだ暗いうちに島の外洋側と湾内の側の両面から上陸し、スパルタ人たちの陣地を襲う手筈になっている。
完全な奇襲作戦であった。
「こんなもん、名誉ある戦いとは言われへんやないか……せこいコソ泥やあるまいし、闇に紛れてこそこそ攻めかかるなんて。僕は、これまで多くの戦場に立ってきたけど、味方にも敵にも、立派な戦士でそんなことする奴は一人もおらんかったで。これこそ、君が一番嫌うてる、物笑いの種になるだけと違うか?」
デモステネスは、まだぼやいている。
戦闘行為は、夜が明けてから日が暮れるまで、太陽の出ているうちに行うのが常識だった。
このような夜間に攻撃を、それも大勢の兵士を動かして奇襲攻撃をかけるなどというのは、ギリシャにおける戦争の常識に照らせば論外、外道、もってのほかである。
「戦争の歴史を変える……とか、カッコええこと言うてたけどな。こんなもん、総合格闘で目潰しを食らわすみたいなもん、要するに規定違反やないか。仮に上手くいったところで、市民たちから非難囂々になったら意味ない――」
「効率の問題やがな、効率の」
クレオンは誰に向けているともつかない笑顔を崩さず、デモステネスの方には視線すらやらないままで、口早に囁き返した。
「相手はスパルタの精鋭部隊やで? そんなもんが待ち構えとるところへ、前途有望な若い男たちを送り込んで大勢死なせるなんて、それこそ愚の骨頂やないか! これは、試合なんかやない。戦争なんや。多くの同胞たちの命が懸かっとる。少しでも我が方の被害を軽微に、相手に与える損害を大きく、可能な限り短時間で決戦する……そない考えたら、相手が油断しとる夜間の奇襲攻撃が一番ええと、これが、論理的な考え方ちゅうもんや」
「論理的には、そうか知らんけど……倫理的にはどうやねん」
「そんなん、皆殺しにしといたらバレへんから大丈夫や」
言い切るクレオンの口調からは、迷いの欠片すらも感じられない。
デモステネスは、溜息をついた。
でもなあ、あのきれいな男の子だけは置いときたいもんやなぁ、勿体ない……などと急にぶつぶつ言い始めたクレオンの隣に立ち、デモステネスは、自分が乗りかかった船が果たして真の《勝利をもたらす者》なのか、それとも無残に沈んでゆく泥船なのか、まだ読み切れずにいた。
* * *
「ディオクレス様」
囁くような、かすかな呼びかけが聞こえた。
確かに聞こえたのだが、ディオクレスは腕組みをして座り、海峡を隔てたピュロスの岬に見えるアテナイの砦の灯りを睨みつけたまま、何の返答もしなかった。
彼らは今、スファクテリア島の北端部を守る砦にいる。
砦といっても、古代の何者かが自然石を組み上げて作った防壁が残されていたものをそのまま利用しているだけだ。
すぐ北側の断崖はそのまま暗い海に落ち込み、陸側も岩の切り立った斜面になっていて、重い盾や槍を持ったままで素早く登ってくることは困難な場所だった。
ただ登ってくるだけでなく、ここに陣取るスパルタの男たちと一戦交えて討ち取ろうと思うならば、よほどの勇士を揃えた精鋭部隊でなくてはならないだろう。
たとえ、今、この部署に配置されているスパルタの男たちが、たった三十人しかいないとしてもだ。
ディオクレスは、ここの守備隊の指揮を任されていた。
彼らの第一の任務は、ピュロスの砦および夜間投錨水域にとどまっているアテナイ艦隊の動きを見張り、敵方に変わった動きがあれば、島の中央部にある泉の陣地と、こことは反対側の南端に築かれた見張り台に、狼煙を上げてこれを急報することだった。
そして、第二の任務は、夜が明けて戦いが始まり、味方が圧倒されて退却してきたときは、ここを最後の砦として守り抜くということだ。
古い歌に、こうある。
祖国スパルタよ、われら三百の者、同じ数のイナコス勢と
テュレアの都を的に戦い
敵に背を見せることはせず、最初に足を下せし
その部署で命果てたり。
つまり、自分たちはここで、この場所で、死ぬことになるだろう。
スパルタの男と生まれたからには、いつか戦場に斃れるのは当然のこと。
いかに戦い、いかに殺して死ぬかということだけが問題なのだ。
ディオクレスは、顔をしかめた。
迫りくる決戦に対する恐れは、ない。
戦闘への恐怖など、遠い昔に捨て去っている。
彼がこうして眠らずにいるのは、あのいけすかない男、レオニダスのことを考えていたからだ。
レオニダスが、クレオンの卑怯な戦法にかかって酷い火傷を負い、陣地に担ぎ込まれたと聞いたとき、ディオクレスは思わず立ち上がった。
腹の底から湧き上がってきたのは、憤怒の唸りだった。
――何だ、それは。
俺はまだ、一度も貴様に勝っていない。
卑怯者の火矢に当たって勝手に焼け死ぬなど、俺は認めないぞ。
『死ぬな!』
気付けば、そう叫んでいた。
『死ぬな、レオニダス、馬鹿者! 死んだら、俺は絶対に貴様を許さんからな!』
だが、レオニダスの火傷は重く、すぐに、口を利くことすらままならぬ状態に陥った。
その意識が失われ、戻らなくなったと聞いたときには、自分の足元にぽっかりと穴が開いたような気がした。
これまでずっと、あの男に敵わなかった。
常にあの男に挑み、張り合い、いま一歩で後塵を拝してきた。
あの男を打ち負かし、その鼻っ柱をへし折ってやることこそがディオクレスの望みであり、闘志の源だった。
邪魔者が消えて清々するわ、と嘲笑ってやりたかったが、それをあの男が聞いていないのでは、何の意味もなかった。
――もう、奴は死んだだろうか。
念弟の手で、冥府へと送り出されただろうか。
さぞ悔しかっただろう、とディオクレスは思った。
正々堂々の戦いではなく、謀略にかかって傷つき、共に戦うべき念弟を残してゆかねばならないなど……きっと、死んでも死にきれなかっただろう。
あれほどの男が去り、自分はこうして生きている。
夜が明けて、俺は、奴に負けぬ働きをすることができるだろうか。
奴が健在であれば上げたであろう戦果を上げ、奴の分まで、スパルタの名を荘厳するような死にざまを見せることができるだろうか……
「ディオクレス様」
また、呼びかける声が聞こえた。
今度はもっと近くから、はっきりと。
ディオクレスは鼻息を吹き、じろりと目を動かして左を見た。
「何だ」
「いえ……」
彼の念弟、ヘファイスティオンがそこにいた。
この付近には平らな広い地面はほとんどなく、戦士たちは複雑な階段状になった岩場の段ごとに座り、仮眠をとっている。
最上段には、石で狼煙台が組まれ、そこには二人の戦士がついていた。
ヘファイスティオンは、ディオクレスのすぐ下の段に立ち、何事か言おうとするようにぐずぐずしている。
ディオクレスは、これ見よがしに溜息をついた。
「用もないのに呼びかけるな。さっさと眠っておけ」
「はい……あの、ですが」
「だから、何だと言っている」
「僕は」
ヘファイスティオンは顔を伏せ、なおも躊躇う様子だったが、やがて意を決したように顔を上げ、
「僕は、ディオクレス様のもとで戦うことができて、幸せでした」
と言った。
ディオクレスは数秒、ヘファイスティオンの顔を見つめていたが、すぐに盛大に鼻息を吹いて顔を背けた。
「そんな下らんことを言うために、わざわざ俺に呼びかけたのか? もういい。さっさと眠れ」
ヘファイスティオンがどんな顔をしたのか、ディオクレスは見なかった。
見たところで、暗くて分からなかっただろう。
「……はい」
自分の念弟が石段を降りてゆくのを感じながら、ディオクレスは彼方に見えるアテナイの砦の灯りをじっと睨みつけていた。
彼と言葉を交わす機会は、今のが最後だったかもしれなかった。
レオニダスは自分が口下手であることを気にしていたというが、何を、甘いことを。
ただ黙っているだけならば、大して害もないではないか。
むしろ益体もないお喋り好きの連中より、静かでいいというものだ。
口下手というのは、俺のような者のことを言うのだ。
何を言おうとしても、口から出るのはひねくれた、棘のある言葉ばかり。
毒舌家と人は言うが、そうなりたいと望んだわけではない。ただ、そうなってしまうのだ。
ヘファイスティオンは意を決して最後の別れを告げようとしていたのに、俺は、それを無碍に追い払ってしまった。
――聞きたくなかったのだ。
自分が死ぬことは、恐ろしくも何ともない。
だが、大切な者が自分の側で死んでゆくのを見るのは、辛かった。
もはや避けることの出来ぬその瞬間が来るまでは、考えたくもなかった。
そもそも、あいつは俺の側で死にたいなどと思うだろうか、とディオクレスは自嘲気味に考えた。
優しい言葉をかけてやったためしなど、ほとんどない気がする。
苛立ちをぶつけて邪険に扱っても、ヘファイスティオンは決して自分の側を離れなかった。
まったく任務に忠実にできた奴だ。
だが、これまでずっと、内心ではどう思っていたのか。
俺につくことになって幸せだった、と奴は言っていた。
そんなことがあるものか。こんな根性の曲がった男の念弟として選ばれて、いい迷惑だったのではないか。自分であれば、そう思う。
このままで、良いのだろうか。
せめて、最後くらいは、優しい態度をとってやるべきではないだろうか――
「おい」
闇に向かって低く呼びかけた、そのときだ。
からり、と上から小石が落ちてきて、肩のあたりを掠めていった。
ディオクレスは、反射的に怒鳴り付けそうになった。
上の狼煙台にいる奴らが、不用意に身動きをして石を蹴ったに違いない。
今のは小石だったから良かったようなものの、もっと大きな岩が落ちて、それが当たっていようものなら――
「!」
見上げたディオクレスの目に映ったのは、狼煙台の横に一人、不自然にだらりと立った戦友の姿だった。
その背後に、何者かが立ち、手甲をつけた手で口を塞いでいる。
絶命した戦友の喉首を掻き切った手が、血に濡れた短剣を握っているのが、はっきりと見えた。
口を覆っていた手が離され、命を失った身体が倒れ込む――
「敵襲っ!」
ディオクレスの絶叫と同時、それまでほとんど無音であった北の砦に凄まじい戦いの騒音が響き始めた。
(何故だ。こやつら、どこから!?)
まるで地中から湧き出てきたように姿を現した敵は、一目では数え切れぬほどいた。
ディオクレスには知る由もなかったが、黒いマントに身を包んだその男たちは、クレオンが今回の作戦のために雇った特殊部隊の男たちだった。
通常の重装歩兵のように大型の盾を持たず、素早く襲いかかり、影のように殺す。
死角から上陸した彼らは、ディオクレスたちの背後の崖を登り、音もなく見張りを倒しながら、じりじりと斜面を這い上ってきたのだ。
「おのれ、卑怯者どもが!」
すでに、闇の中での乱戦になっている。
三十人の味方がそれぞれどのような状況で戦っているのか、把握することもできなかった。
まさか、こんな夜中に攻撃を仕掛けてくるなど予想もしていなかったのだ。
敵の性根がここまで腐っているとは思わなかった。
このぶんでは、眠ったまま殺された者さえいるに違いない。
ヘファイスティオンがどこにいるのかも、分からなかった。
「この夜這いの支払いは高くつくぞ、くそったれ!」
蹴り飛ばされて狼煙台から転げ落ちてきた戦友の亡骸をかろうじて避け、ディオクレスは雄叫びを上げて槍を振るった。
(いかん!)
稲妻のように槍を繰り出し、迫ってきた黒マントの男の胸板を串刺しにしながら、彼はすばやく狼煙台を見上げた。
二人いたはずの信号係のうち、一人は目の前でやられ、もう一人も姿が見えない。
おそらく既に殺されたのだろう。
他の陣地は、無事か。
こいつらの別働隊が、既に攻撃を仕掛けているのではないか。
だが、そうでないとすれば、少しでも早く狼煙を上げ、危険を知らせなければ――
「どけ、雑魚どもォ!」
背後の岩の上から忍び寄っていた黒マントの両脚を、槍を振り回して叩き切り、吹き出す返り血を浴びながらディオクレスは石段を駆け上がっていった。
信号係を倒した黒マントが立ちはだかるのへ、猛然と突きを繰り出す。
黒マントは骨なしの蛸のような奇怪な体捌きでこの一撃を避け、飛ぶように踏み込んでくると、手にした短剣を真横に振るった。
ディオクレスは紙一重で仰け反って切っ先を避け、槍を横ざまに振り抜いて敵を叩き落とそうとしたが、黒マントは一瞬早く地面にへばりついて逃れ、跳ね起きるや、狼煙台に蹴りをいれた。
組み上げられた僅かばかりの木材が崩れ、その一部が闇の中に落ちていった。
下で声が上がったのは、誰かに当たったのだろうが、それが味方か、それとも敵かなど確かめようもなかった。
(くそったれが!)
罵る暇もあらばこそ、ディオクレスは再び槍を突き出したが、黒マントは半身になって刺突を避け、槍の柄を掴んだ。
「!」
反射的に槍を引き戻す、その力を利用するようにするすると目の前に迫った黒マントの手が、ディオクレスの喉笛をがっちりと掴んだ。
そのまま握りつぶそうと力を込めてくるが、太い首に血管が破れそうなほど力を込め、ディオクレスは血走った目で間近にある相手の顔を睨みつけた。
仮面のように表情の動かなかった敵の顔に、初めて動揺らしきものが走り、視界の端で短剣を握った手が翻るのが見えた。
攻撃に移る、その一瞬の隙を、ディオクレスは待っていたのだ。
彼は握り締めていた槍を捨て、その手で拳を固め、間近にある敵の顔面に渾身の力で叩きつけた。
脇腹に短剣の刃が突き刺さり、浅手のままで抜けていった。
黒マントは吹っ飛び、足場のない空中に仰向けに投げ出されて、そのまま消えていった。
あの体勢でここから落ちれば、無事では済むまい。
(火種は!?)
激しく咳き込みながら、ディオクレスは狼煙台があった場所に膝をついた。
灰と炭をおさめてある壺は、土台の石の陰にあって、無事だった。
「炎をもたらす者よ!」
鈍く赤い輝きを目にしてディオクレスは叫び、吹き飛んだ木材をかき集めようとしたが、すぐに別の決断をした。
木材に火をつけるには時間がかかる。
そして、それほどの時は、おそらく残されていない。
ディオクレスは、焚付けとして薪組みの中に入れられていた枯れ草の残りをひっ掴んだ。
自分のマントをむしり取るように脱いで広げ、その上に枯れ草の束を置く。
壺を地面の上でひっくり返し、赤く輝きながら転がり出た炭を素手で拾い上げ、枯れ草の上に載せた。
そして、彼はその場に立ち上がり、燃える炭と枯れ草とを包んだマントの端を両手で持ち上げ、渾身の力で振り回し始めた。
風を孕んだマントの中で、炭の火が枯れ草に燃え移り、炎が燃え上がった。
ディオクレスは炎を捧げ持つようにマントを開いて高々と掲げ、叫んだ。
「気付け! 起きろ! 敵襲だ!」
叫びながら、彼は暗闇に沈んでいる島を見下ろし、目を凝らした。
泉の陣地と南の砦にいるはずの仲間たちは、まだ無事か。
もしかすると、既に倒されているのではないか?
たとえ、まだ生きているとしても、このわずかな草の束が燃え尽きるまでに、彼らが気付かなかったとしたら――
「気付け、のろまども! 敵襲だ! 目を覚ませ!」
本当は、ごくわずかな時間だったのだろう。
だがディオクレスにとっては、永遠のように感じられた。
見つめた視線の先で、闇の中に、小さな橙色の点が灯った。
島の中央部、泉の陣地の辺りで。
目の錯覚かもしれぬと、ディオクレスはマント越しに手のひらを焦がす炎の熱も忘れ、必死に目を凝らした。
針の先で突いたような小さな光の点は、すぐに大きくなり、やがて、島の南の端にも火が灯った。
狼煙が伝わったのだ。
仲間たちは、まだ生きている。
「よし!」
ディオクレスは満面に笑みを浮かべた。
同時、背後から、右脇腹に強い衝撃を感じた。
振り向くと、黒マントの男が石段の下から槍を突き出し、彼の腰の真上の鎧の隙間を正確に貫いていた。
ディオクレスは顔をしかめ、両腕を下ろして烽火を投げ出した。
黒マントの男は何も言わず、さらに深く槍を押し込んできた。
ディオクレスは、歯を剥き出して笑った。
旅人よ、ラケダイモンの民に告げよ
我ら、この地にて死せり
ラケダイモンの法を守りて、と。
かの名高き《熱き門》の三百人、ギリシャの大地をペルシャ帝国の侵攻から守った英雄たちが残した言葉。
軋るような声で歌ったディオクレスの手が剣を抜き放ち、己が身を貫いた槍の柄を叩き切った。
雄叫びを上げて敵の顔面を蹴り飛ばし、そいつが悲鳴を上げながら闇の向こうに転げ落ちていくのを見届けると、さらに這い上がってきたもう一人の首を刎ね飛ばす。
(負けんぞ)
俺は、まだ、レオニダスに勝っていない。
(負けてなるものか)
あの男よりも、見事な戦いぶりを。
(俺は、貴様には――!)
深紅のマントの上で燻っていた最後の枯れ草が燃え尽き、暗くなる。
何も見えなくなったのは、そのためか、もう視力が失われたからか。
右脚が熱く濡れている。
体中の血が流れ落ちてしまったようだ。
頭が痺れ、顔が冷たくなってゆく。
ディオクレスは剣を振り回し、敵の気配を感じる方向を無暗に斬り払った。
だが、何にも当たらない。
鋭い痛みがあちこちに走ったが、その感覚はすぐに鈍り、何も感じなくなった。
真っ暗だ。
もう、自分が立っているのか倒れているのかすら、分からない。
(俺は――)
そのとき、遠くから、響いてくる声があった。
彼は、その声を知っていた。
「ディオクレス様!」
武器の打ち合う音がかすかに聞こえ、冷え切った手を、温かい手が包み込んだ。
「ディオクレス様、御一緒します!」
その声は、ひどく怒っているようだった。
同時に、泣いているようだった。
もう一度、その顔が見たいと思ったが、何も見えなかった。
「何しに来た……馬鹿が」
呟くと、温かい手が強く握り返してきた。
「あなたを、誰にも渡しません! 他の誰にも!」
「馬鹿め」
声になったかどうかは、分からない。
「結局、最期はおまえとか」
ディオクレスは微笑み、愛する者の手を握り、もう一方の手で武器を握り締めた。
「おまえとなら、冥府行も悪くない」