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暁の出会い

 翌日、まだ夜も明けやらぬ早朝に、戦士たちが招集された。

 戦神アレスの神域に、盾と槍とをたずさえ、剣を帯びた完全武装の男たちが整列する。

 みな、身体を洗い清め、特別な祭典のおりにしか用いぬ芳しい香油を肌に塗りこめていた。

 羽飾りのついた、鼻筋と頬までを完全におおう兜が戦士たちの表情を隠している。

 今はほとんど漆黒に見える赤いマントが微風にはためき、ひそやかな音を立てている。


 西にはいまだ星を残し、東は徐々に明るさを増す空のもと、無言で佇む彼らは、さながら地上に降り立った神々の尖兵の一隊のごとく見えた。


「戦の神アレスに供儀を捧げよ」


 儀式のために設けられた祭壇の前に王が立ち、おごそかに宣言した。

 眼光鋭く、隆々たる体躯を持つアルキダモス王は、幾多の戦闘を戦い抜き、圧倒的な求心力を有するリーダーだ。


「猛々しきアレスよ、この捧げ物を受け取りたまえ。そして我が息子たち、スパルタの戦士たちに加護を与えたまえ。この男たちの前に勝利への道を開き、その行く手を指し示し、守りたまえ……」


 王の言葉に、神官たちが唱和する。

 やがて供犠の儀式は終わった。

 王はくるりと振り向き、両手を掲げた。


「息子たちよ!」


「王よ!」


 直立不動の姿勢を保ったまま、戦士たちは一糸乱れず返答した。

 王は満足げにうなずき、祭祀の最中よりはずっとくだけた調子で語りかけた。

 まさしく、偉大な父が息子たちに対して語るように。


「よいか、そなたらは男の中の男、戦士のなかの戦士だ。そなたらを、わしは《獅子隊》と命名する。戦に赴いては、その名に恥じぬ武勲を立てよ!」


「御言葉のままに、王よ!」


 戦士たちは熱狂的に叫んだ。

 王は再びうなずいた。


「この隊が特別であるのは、各人が友情や同胞愛を超えた、戦友としての固い絆で結ばれておるからだ。そなたらは敬うべき神々を持ち、守るべき故郷と家族とを持ち、運命を分かち難く結ばれた戦友を持っている。……それゆえにこそ、そなたらは無敵の戦士となるだろう」


 戦士たちの幾人かが、直立不動のまま、視線だけを動かした。

 自身の傍らに立つ、血の絆よりも濃く、友情と呼ぶにはあまりにも強すぎる想いで結ばれた相手へと。


 レオニダスは目を閉じた。

 そんな絆を結ぶことは自分にはとてもできない、と思った。

 これから「二人一組」のあと一人――自分の念弟エローメノスとして選ばれた相手が発表される儀式を控えているというのに。


 居並ぶ戦士たちの右端に立つレオニダスは、まだ自分の「相手」を知らなかった。

 儀式の直前まで、身を清めると称して天幕にこもっていたからだ。

 どうしても必要となるまでは、できるだけ顔を合わせないようにしようという魂胆である。

 意外と往生際が悪い。


 これまでいつも、相手に対する義務感はあっても、愛情はなかった。

 レオニダスにとって愛情とは、リュクネといるときに感じるような気持ちのことだった。

 優しさ、穏やかさ、労わり、安らぎ――

 戦場では、そんなものは必要ないどころか、むしろ害悪とさえなり得るのではないか。


 どうすればいいのだろう、どうすれば?

 何も、思いつかなかった。

 レオニダスは困り果て、今からでも断る方法はないものか、などと考えていた。

 もちろん、そんな葛藤は一片も表情にあらわれず、彼の静謐な立ち姿に、周囲からは早くも崇敬の眼差しが注がれていたのだが。


「アナクレオンの息子、レオニダスよ」


 とうとう王に名を呼ばれ、彼は観念して前に進み出た。

 王はレオニダスの肩に両手を置くと、朗々と声を張り上げた。


「そなたに《獅子隊》を預けよう。皆、レオニダスの言葉をわしの言葉と思い、彼のあとに続け!」


  レオニダス! レオニダス! レオニダス!


 爆発的な歓呼の声が上がった。

 当代一の勇士と見なされているこの新しい指揮官を、みな待ちわびていたのだ。


「レオニダス様! 我ら一同、命じられれば、地の果てまでもあなたに従います」


《フクロウ》フェイディアスが進み出て、一同を代表してレオニダスへの忠誠の言葉を述べた。

 戦士たちが再び歓呼の声をあげてこれに同意する。


 そして、再び口火を切ったのはアルキダモス王だった。

 王は大げさに首を傾げ、フェイディアスに言葉をかけた。


「フェイディアスよ。聞けば、そなたらの隊長はいまだ、この隊のうちに念弟エローメノスを持たぬとか?」


「王よ、その通りです」


 ああ、とうとう来てしまった。

 こうなっては、もはや逃げも隠れもできぬ。


「《獅子隊》には、勇士にふさわしい少年がおらぬということであろうか?」


「いいえ、王よ。ふさわしい少年はおります」


 ああ、何だか、もう、どうでもよくなってきた。

 仕方がない、これも任務と思い、諦めるしかなかろう……


 そのときだ。

 ざわ、と戦士たちがざわめいた。


 スパルタ軍の規律は非常に厳格なものだ。

 式典の最中に私語など、通常は考えられない。

 だが、レオニダスも、王さえも、それを叱責することはなかった。


 列の最後尾から、ひとりの少年が歩み出てきた。

 皆、魂を抜かれたように、その様子を見つめた。


「リュシッポスの息子、クレイトス……」


 朗々と述べかけたフェイディアスの声も、尻すぼみに消えた。

 その場を支配した、一種荘厳な空気に飲まれてしまったのだ。


 少年は、レオニダスの前に立ち、兜を脱いだ。

 歳のころは十六、七といったところか。

 ところどころに傷痕の目立つ武装は、一族の代々の男たちがこの年齢に達したときに使ってきたものなのだろう。

 だが、その場の誰一人として、そのような瑣末事に思いを馳せることはなかった。


 白々と明け始めた空のもと、レオニダスは、目を見開いて少年を見つめた。

 ゆるやかに波打つやわらかそうな黒い髪は、詩人がヒュアキントスの色と呼ぶ色調だった。

 肌は、乳色に透き通るようで、その目は……淡い陰を落とす睫毛の下で暗く見えるその目は、海のようだった。


 ――人だろうか、この少年は?

 それとも、神々が寵愛し給うという天上の少年のひとりが、ここに降り立ったのだろうか?


 その唇が微笑み、開いた。


「レオニダス様」


 穏やかな呼びかけに、レオニダスは、胸のなかで心臓が大きく波打つのを感じた。


「レオニダス様の念弟エローメノスとして選ばれたことを、この上ない栄誉と思います。僕は……」


 朝日が昇った。

 暁の乙女がその手を伸ばし、透き通った指で男たちの頬を撫でた。

 洗われたような朝の光に照らされ、少年は眩しそうに目を細めた。


「喜んで、レオニダス様に、この命を預けます」


 レオニダスは、その目から視線が離せなかった。


 今、運命の鍵が回り、新たな扉が開かれようとしていた。

 そこから続く道の行く先を知る者はただ、黒いベールで顔をおおい、決して真意を明かさぬ運命の女神たちモイライのみであった。



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