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二人の漕ぎ手

 もしもこのときにスファクテリア島を訪れる者があったとすれば、一面が焼け野と化したこの島に、今、数百人の男たちがいるなどとは、とても信じることができなかっただろう。


 話し声はなかった。

 ただ、寄せては返す波の音が響いているだけだった。


 男たちは裸になり、海に入って、煤と土と汗にまみれた身体を清め、わずかに残された香油を互いの膚に塗った。

 髪を洗い、丁寧に指を通してくしけずり、香油をつけて整える。

 盾や鎧を砂で擦って光らせ、槍の穂先と剣を研いだ。


 死ねばどうなるのか、はっきりと答えられる者は、地上にはいない。

 死者は、地下の世界へ行くという。

 英雄は、遥か遠い西方のエリューシオンの地へ行くこともできるという。

 だが、死を経てそこから戻り、その地の有様を語ることができた者は誰もいない。

 大切なことは、死んだ後にどうなるかではなく、いかに死ぬかということなのだ。


 最後の戦いに向けて支度を整えた男たちの姿、その槍の音もなく並び立ち、その盾の篝火を映して輝く様子は、この世のものとも思われなかった。

 彼らは一様に表情を消し、石像のように感情を窺わせない顔つきで静かに立っていた。

 スパルタ人はいかなる運命も恐れないことを示し、敵に恐怖と畏怖の念を抱かせるために、彼らは自らをそう訓練し、そのための所作を完璧に身に着けていた。


「フェイディアス様」


 若い兵士からの静かな呼びかけに、フェイディアスはかすかに頷き、その肩に赤いマントをまとった。

 レオニダスから託されたものだった。


「身支度を整えた者から、持ち場に集合し、交替で仮眠をとれ」


 フェイディアスの指示を受けて、若い兵士は頭を下げ、すぐに立ち去っていった。

 今夜は全員が武装を身に着けたまま交替で眠り、明日の夜明けと共に始まるであろうアテナイの総攻撃に備える。


 こちらがわずかに数百人しかいないことを、アテナイ側はすでに見抜いているはずだ。

 彼らは島のあちこちの地点から、同時に上陸してくることが予想された。

 各地点に分散し、沿岸で彼らを撃退するという方法を取ることはできない。

 多くの地点に分かれれば、各地点での彼我の戦力差はますます開き、たやすく各個撃破されてしまう。


 北、南、そして中央。

 もとの陣地の後に集結し、密集陣形をもって守りつつ、敵の攻撃を受け止め、押し返すのだ。


 もはや、ここを離れなければならない。

 フェイディアスは戦友たちの間を静かに歩き、暗がりのほうへ行った。

 そこにパイアキスが横たわっていた。

 目を閉じ、脂汗に塗れた顔は、ずいぶんと色が悪くなり、腕や肩が時折その意志によらず小さく揺れた。わずかに開いた口からは、絶えず小さな呻き声が漏れていた。


 フェイディアスの、彫像のようであった顔に、笑みが浮かんだ。

 まるで泣き出しそうな、弱々しい笑みだった。

 彼は兜を脱ぎ、パイアキスの側にそっと屈みこんだ。


「痛むのか?」


 鎖骨の辺りに、そっと手を触れる。

 パイアキスはそれすらも苦痛と感じたかのように小さく体を跳ねさせたが、目を開き、フェイディアスの顔を見ると、その表情は幾分か穏やかさを取り戻したように見えた。


 暫くの間、二人は互いの目を見つめながら無言でいた。

 まるで、互いの存在そのものが慰めであり、束の間の生のうちで巡りあうことができた事がこよなきものである、というように。


「俺たちは、もう行かなくてはならん」


 やがてフェイディアスがそう呟き、パイアキスは視線だけで頷いた。

 フェイディアスは、パイアキスの頭を両腕で抱え込むように強く抱いた。


「また、すぐに会える」


 耳元で囁かれた言葉に、パイアキスは目を細めた。

 フェイディアスのざらついた指が顎の線をくすぐり、頬を撫でた。

 フェイディアスの体からは、芳しい香油の香りがした。

 初めてこうしたときのことを思い出す、とパイアキスは思った。


 あれから、長い時が流れた。

 だが、大いなる時の潮流の中ではほんの一瞬の出来事にすぎない。


 次に相逢うとき、自分たちは、互いのことが分かるだろうか。

 ――きっと、分かるに違いない。

 再び出会うことができたら、もう、離れることはないだろう。

 冥界の道でも、天上の道でも、その果てまでを彼と共に歩くだろう。


 パイアキスが微笑みかけると、フェイディアスは安心したように笑った。

 彼の手が剣を引き抜き、その刃がきらりと光るのが見えたが、パイアキスはフェイディアスの目から視線を逸らさなかった。


「――何者だ!」


 その瞬間、響いた叫びに、浜にいた全員の視線が一斉に集中した。

 フェイディアスも、剣を手にしたまま、跳ねるように身を起こした。


「何事だ!?」


「誰か近付いてきます!」


 反射的に問い掛けたフェイディアスに、歩哨に立っていた戦士の一人が答える。

 静謐で、甘美にさえ感じられた一瞬は過ぎ去り、辺りは俄かに騒がしくなった。

 警戒を促す声が飛び交い、武器を手に取る音が響く。

 フェイディアスとパイアキスは、思わず、顔を見合わせた。


「行って、ください」


 擦れた声でパイアキスが促すと、フェイディアスは一瞬、何とも情けなさそうな顔になったが、すぐに表情を引き締めて駆け出した。


「どこだ!」


「あれです!」


 慌ただしく兜を被りながら問うと、歩哨が海上の一点を指さす。

 目を凝らせば、真っ暗な夜の海に、一艘の小舟が浮かんでいた。

 アテナイの三段櫂船は、もっと離れた海上に灯火を光らせ、投錨している。

 そこから送り出された小舟か、と一同は緊張を高めたが、どうもそのようには見えなかった。


 今こちらに近付いてきているのは、海辺の漁師がすなどりに使うような小さな舟だ。

 漕ぎ手は、左右ひとりずつで、二人いるように見えた。

 スパルタの男たちが油断なく見張る前で、不意に漕ぎ手のうちの一人が、舟の中から何かを取り出して掲げた。

 それは、大きな布に黒い文字でΛラムダの一文字を書きつけたものだった。

 Λは『ラケダイモン』――すなわちスパルタの頭文字だ。


「味方……!?」


「補給か?」


「馬鹿な、夜になど」


「油断するな! 敵の策かもしれん!」


「みな、槍を構えろ」


 Λのしるしを畳み、再びこちらに向かって進み始めた小舟に目を当てたまま、フェイディアスは静かに命じた。

 どんな汚い手を使って来るか分からぬ相手だ。

 小数と見せて油断を誘い、何か仕掛けてくるつもりかもしれない。

 そのときだ。


「スパルタの戦士たちよ!」


 不意に、朗々と呼ばわる声が響き渡った。

 その叫びが耳に届いた瞬間、男たちは残らず、稲妻に打たれたかのような衝撃を受けた。

 男たちのうちの幾人かは、その声に聞き覚えがあった。

 だが、その瞬間に思い浮かんだ面影を、目の前にある現実として受け容れることは俄かにはできなかった。


 そして、その声に覚えのない者たちにとっても、衝撃の大きさは同じだった。

 いや、当人を知らぬぶん、より衝撃が大きかったと言ってもよい。

 その声は、女の声だったのである。


 男たちが呆然として見つめる中、小舟は舳先から浜に乗り上げ、二人の漕ぎ手はスファクテリア島の地面に降り立った。

 そして、目深におろしていた頭巾をあげた。

 フェイディアスは、口を開けたが、言葉は出てこなかった。

 その顔を、こうして目の前にしても、まだ信じることができなかった。


「アナクレオンの娘、リュクネ!」


 漕ぎ手の一人が名乗り、男たちに向かって、にっと笑いかけた。


「久しぶりだな、フェイディアス殿。壮健で何よりだ」


 金色の髪のリュクネと謳われた《半神》の妻は、その顔立ちの美しさこそいささかも減じてはいなかったが、今はまるでそれを隠すように旅の垢も落とさず、頬には乾いた泥の筋をつけたままだった。


 そして、何よりもフェイディアスや男たちの言葉を奪ったのは、彼女の髪の有様だった。

 誇らしげに風になびいていた美しい金色の髪は、短く刈られ、まるで国有農奴ヘイローテスの男のそれのようになっていた。


「リュクネ……?」


「まさか」


「レオニダス様の!?」


「いかにも!」


 アテナイの乙女であれば恥じるあまりに首でもくくりかねない自らの姿をいささかも気にかけることなく、むしろ堂々と微笑んでリュクネは答える。


「《獅子隊》のレオニダスこそ、我が夫だ。戦士たちよ、あなた方のこれまでの奮戦に敬意を表する。そして、戦いに果てた戦士たちにも、同じように」


「まさか……女の身で、夜の海を漕ぎ渡っておいでになるなど!」


国有農奴たちヘイロータイにできることが、スパルタの女にできぬはずがない。そうだろう?」


 幾重にも細布を巻き付けた両手を振ってみせ、そう告げた彼女の背後では、もう一人の漕ぎ手であった男――スミクロスが、わずかばかりの積荷を黙々と浜に下ろしていた。

 まずは、わずかばかりの食糧と酒。

 そして、槍と剣、そして小型の盾が二人分だ。


「長老会は、動かぬ」


 唖然としている男たちを順に見返し、リュクネは告げた。


「私たちは、あなた方を救出するための増援部隊の派遣を長老会に要請した。だが、ついに、彼らの意思を覆すことはできなかった。……スパルタを動かすことがかなわぬのならば、せめて微力ながらも己自身、我が夫レオニダスと、そして、スパルタの勇士たちと戦いを共にせんと思い、馳せ参じた次第!」


 彼女の背後では、スミクロスも静かに頷いている。

 立場上、この場で口を利くことは憚られるが、自分も同じ気持ちであると言いたいのだろう。


 男たちは、誰も、何も言わなかった。

 驚きもある。

 リュクネの覚悟と行動力に、強く心を打たれたということもある。

 だが、それ以上に彼らを無言にさせていたのは、彼女に伝えるべき、一つの事実だ。


「勇士たちよ」


 微笑んでいたリュクネの顔が、少しずつ怪訝そうになり、やがて、彼女は眉を寄せて言った。


「我が夫、レオニダスはいずこに?」



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