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焦土

 北の岬から広がった炎は、スファクテリアの全島を覆う森林を一晩のうちに焼き尽くし、南の端までを焦土と化して鎮火した。

 クレオンは朝日に照らし出された三段櫂船《勝利をもたらす者フェレニケー》号の甲板上に立ち、いまだ灰色の煙を上げる島の様子を見ていた。

 風の動きによって、時折、焦げ臭いにおいが鼻をつく。


 彼は昨晩殴られて大きく腫れ上がった頬に、膏薬を塗りつけた湿布を貼っていた。

 周囲には、退屈しのぎに若い兵士と拳闘をやって拳をもらってしまったためだと説明している。

 特段痛むような様子も見せずに平然と突っ立っている彼を、周囲の兵士たちは賛嘆の混じった目つきで眺めては囁き合っていた。


 クレオンは今、幾艘かのボートをスファクテリア島の側まで送り出し、島の状況を偵察させているところだ。

 このたびの火災について詳しい事情を知らぬ者たちは、これこそ神々の助けと興奮し、この機に乗じて即座に上陸することを提案したが、クレオンはそれらの意見を抑えた。


「何もわざわざ、あっつあつの鍋に慌てて手ェ突っ込んで、火傷することもあらへんやろ」


 言葉つきにたっぷりと諧謔を混ぜて将兵の笑いを誘いながら、クレオンは言った。


「料理は、もう出来上がっとるんや。焦ることはあらへん。ほどよう冷めたところで、美味しいところを掴みどりに取らしてもらおうや!」


 わっと湧いた将兵たちの中にも、その輪の外側の見える範囲にも、デモステネスの姿はなかった。

 ただでさえ長く続いた籠城戦によって神経が衰弱していたところへ、昨夜の出来事が手酷い打撃となったものか、深更から熱を発して寝込んでいる。


 クレオンは、自分の付き人を看病人として送り込み、付きっきりでデモステネス君の看護を手厚く行うように、そして、彼がちょっとでもいらんこと喋りそうやったらさっくりてまえよ、という指示を出すと、あとはもうけろりと忘れた様子だった。

 彼は目下、次なる一手、つまりスファクテリア島を制圧するという大事業のことで頭がいっぱいなのである。


 やがて、島の状況の第一報がもたらされた。

 自分の前に立った兵士の表情を一目見て、クレオンの顔つきは曇った。

 どう見ても、吉報を携えてきた男の顔ではない。

 それどころか、どこか怯えてすらいるようだった。


「報告します。スファクテリア島の外洋側の浜辺に、スパルタ兵の姿を確認しました! その数、およそ、数百!」


「すうひゃくう?」


 この数字には、さすがのクレオンも鸚鵡返しに、ただし音程を跳ね上げて繰り返すことしかできなかった。


「えっ……数百!? それって、生きて動いてるやつ? それとも死体?」


「生きたスパルタ兵です!」


 報告する兵士の顔も、話すごとに引き攣ってくるようだ。


国有農奴ども(ヘイロータイ)もまざっているようでしたので、正確には不明ですが……半数と考えても、二百は下らぬかと! 槍と盾を打ち鳴らし、こちらを挑発してきました」


「その中に一人、めちゃくちゃきれいな子がおらへんかった?」


「は?」


 今のは聞き違いだろうか、という顔で兵士は素っ頓狂な声を発したが、クレオンは直前の発言などなかったかのような調子で、


「スパルタの兵士が、二百……いや、甘い勘定は危ないな。三百五十としとこか」


 ぶつぶつと呟く表情が、徐々に険悪さを帯びてくる。


「前回までの交渉では、奴らがそんな大勢の兵士を養えるほど大量に、食糧の搬入を許しとったんか?」


「奴ら、草や虫を平気で食うそうですよ」


 報告する兵士は、薄気味悪そうに言った。


「島にある、そういったものを食糧の足しにしていたのかもしれません。それに、奴らは余分の食糧を国有農奴ども(ヘイロータイ)に運び込ませていたのです。こちらも、厳しく見張ってはいたのですが、とても全てを捕らえるというわけにはいかず……」


「なるほどな」


 途中から言い訳がましくなった兵士の言葉をさえぎり、クレオンは言った。


「まあそのへんは後々、スパルタと話を詰めるときのネタにさしてもらうとして、や。思うたより、火事の効果が薄かったなあ。僕の中では、敵さんもきれいさっぱり、一緒に燃えてくれる予定やったんやけど、さすがにそこまでの間抜けやなかったか……」


「しかし、敵の損害は甚大です! おそらく、物資の大半を失っているでしょう」


 兵士はクレオンの気を引き立たせようとするように言ったが、クレオン自身の表情は冷ややかだった。


「甘いな。あの人ら、体だけは頑丈やから、体使うことやったら、多分こっちの予想を上回ってくるで。陣地に火ィが回るまで、多少の暇はあったはずや。暗闇ン中でも、大荷物担いで、できる限りの食糧は運びおろしたやろう……」


 そこまで言って、じろりと目の前の兵士を睨む。


「それに、君、さっき、自分で何て言うてた? 『槍と盾を打ち鳴らし』やろ? あちらさん、武器防具まで、しっかり持ち出してはりますがな。そこが一番の問題やで」


 兵士はあっという顔になって、口を二度ほど開け閉めしたが、言葉は出てこなかった。

 クレオンは溜息をつきそうになったが、堪えた。阿呆と話をすると疲れる。


「まあ、そう、落ち込むことはあらへんよ。一番有り難いことといえば、島の見通しがすっかり良うなったことや! あの邪魔な森がきれいさっぱり消え失せてくれたことは、ほんま、神々の助けやで。あれだけすっきりしたんやから、君の目玉が節穴でさえなければ、今言うたことの他にも、役に立つことをいろいろと見つけてきたやろな? どうや?」


「主な敵の陣地は、三ヶ所です!」


 やや顔色を悪くしながら、兵士は答えた。


「北、中央、南。石積みの様子から見て、中央部の陣地が最も大規模だったようです。中央部は低く、北と南とは、それぞれ高い位置に陣地が築かれておりました」


「北、中央、南か……」


 どこから押さえるかな、とクレオンは顎に手をやって考え込んだ。

 まず、中央の主力を叩くか。いや、それでは左右の高地から挟み撃ちにされる可能性がある。

 北か南、取りやすいほうをまず取って、そこを足がかりに攻めるほうが確実だ。

 そのための具体的な作戦計画を立てるには、他にも送り出している偵察部隊の帰還と報告を待つしかないだろう――


「これから、奴らとの交渉に入られるのですか?」


「交渉ォ?」


 兵士の発言を、今度こそ本気で呆れ返ったという甲高い声で繰り返して、クレオンはひらひらと片手を振ってみせた。


「君、なあ。アホなこと言うてたらあかんで。交渉ゆうのは、双方が話し合って条件を云々することやろうが? 僕らとスパルタ人どもとの間に、いまや、そんな余地はない。僕は、彼らに、無条件降伏を要求する!」




 *   *   *   *   * 




「貰ってきたぞ、パイアキス。さあ、これを飲め」


「すみません、フェイディアス……貴方に、こんな」


「いいから飲め。楽になるぞ、さあ」


「ええ……」


 激しく湯気の立つ器を目の前に突き出されて、パイアキスは困ったように微笑んだ。

 つい今しがたまで鍋の上で煮立っていたのであろう、柳の樹皮やその他のものを煎じた薬湯だ。

 今すぐ飲むのは拷問のようなものである。


 いつものパイアキスならば、即座にそう指摘してみせるところだ。

 だが、彼は今、困ったように曖昧に微笑んでみせるだけだった。

 差し出された器――煤けてはいるが砕けておらず、ひびさえ入っていない――を見つけ出すには相当な苦労があっただろうと考えたから、だけではない。

 その器を差し出してくる念者エラステースが、今にも泣き出しそうに顔を歪めていたからだ。


「ありがとうございます、フェイディアス。すみません。貴方に、こんなことをさせてしまって」


「何を言うんだ」


 フェイディアスは大げさに腕を開き、笑ってみせようとしたようだったが、成功はしていなかった。


「気にするな。俺は、やりたいからやっているんだ。給仕の真似ごとも、お前のためなら当然のことだ。そう、いわば、当然の支払いというやつだな。お前はいつでも、俺が怪我をするたびに、気遣って……」


 フェイディアスは、ぷつりと言葉を途切れさせた。

 その手が震え、彼は貴重な薬湯をこぼさないうちに、急いで地面に器を置いた。


「すまん」


 顔を背け、激しく肩を震わせるフェイディアスを、パイアキスは脂汗でしとどに濡れた顔で微笑みながら見つめていた。

 岩に背をもたせかけ、両脚を投げ出して座ったパイアキスの、右脚が膝のあたりからおかしな具合に食い違っている。

 炎に襲われた泉の陣地から、動けない負傷兵たちをできる限り救出しようとして、燃えて倒れかかる倒木の下敷きになったのだ。

 肉が潰れて骨が砕け、右脚は完全に使い物にならなくなっていた。



 スパルタの戦士たち、彼らに仕える国有農奴たちヘイロータイのうち、直接、昨夜の火災の熱と煙によって死んだものはほとんどいなかった。

 レオニダスが送り出した伝令たちは、その使命を見事に果たしたのだった。


 各陣地では、即座に避難が始まった。

 クレイトスの行方を追って南へと海岸を走っていたフェイディアスやパイアキスたちの耳にも、この騒ぎは届き、彼らは即座に泉のある本陣へと取って返し、避難の作業に加わった。


 事が戦いとなれば、たとえ自軍に数倍、いや数十倍する軍勢を前にしたとしても背中を見せる彼らではなかったが、槍も剣も通じぬ炎が相手とあっては、逃げる以外に為すすべはない。

 戦士たちと国有農奴たちは、暗闇の中でありったけの武器、防具、担げるだけの物資を担ぎ下ろし、炎が迫るぎりぎりまで暗い斜面を往復した。


 だが、負傷して素早く動くことができない者たちの避難は遅れた。

 見捨てようという声は、なかった。

 だが、誰もが、まず戦いに必要な物資を運び出すことを優先した。

 その結果、負傷兵たちの救助は最も後回しになり、最も危険な任務となった。


 負傷兵たちは、間近に迫る炎の音を聴きながら、汗を流し、目を光らせて、黙って座るか横になっていた。

 彼らは皆、傍らに置いた武器に手をかけていた。

 いよいよその時が来れば、炎によって死ぬか、刃によって死ぬか、選ぶことができるだけ幸せだと思っているようだった。

 重傷の者が、自分よりも先に他の者を逃がしてやれと言っている声があちこちで聞かれた。

 どうしても動けないと分かっている者は、自分の念者エラステースを、あるいは念弟エローメノスを呼び、愛する者の手で心臓を突かれて死んでいった。


「フェイディアス……」


 きつく閉じた瞼の裏に、昨夜の地獄のような光景が次々と映っては消えてゆくのを、パイアキスの擦れた声がさえぎった。

 フェイディアスは拳で強く両目をこすり、目に塵が入りやがったとぶつぶつ言いながら振り返った。


「ああ、どうした、パイアキス? もう飲み終わったか?」


「クレイトスを……」


 地面に置かれた器に手を伸ばし、触れてみて、そっと手を引っ込めながらパイアキスは言った。


「クレイトスの様子を、見に行ってやってください。私は、大丈夫ですから。かわいそうに……隊長の側に、ずっとついているのでしょう?」


「ああ……」


 自身も重傷を負って動けないパイアキスは、レオニダスの容態を話に聞いただけで、直接は目にしていない。

 だが、フェイディアスは火事の後で、すでにその姿を見ていた。

 さしもの豪傑フェイディアスが、その瞬間には、息を呑んだ。

 顔から上半身にかけて右半分が焼けただれたその姿は見るも無残で、これがあの美貌の《半神》だとは俄かには信じられないほどだった。

 あの痛々しい姿を、もう一度目にしなければならないのかと思うだけで、心が重く塞いだ。

 それでも、フェイディアスは大きく頷くと、パイアキスに笑いかけてみせた。


「分かった。少しばかり、美少年に気合いを入れてくるとしよう。俺が戻るまでに、その薬湯を全部飲んでおけよ。いいな?」


「ええ、分かっています」


 もう一度、念を押すように頷いてみせてから、フェイディアスは立ち上がり、振り返り、振り返り、離れていった。

 その姿が見えなくなった瞬間、パイアキスは大きく顔を歪め、歯を食い縛って苦痛の唸りを噛み殺すと、力尽きたように頭を仰け反らせて目を閉じた。



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