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許されざる者

「こらまた、えらい、風が強なってきたなあ! これこそ、神々の助けっちゅうもんや。有難い話やで!」


 激しい波音と、ぎいいぎいいと櫂が軋む音の中で、ただひとり愉快そうにしているクレオンが叫んだ。

 巨大な三段櫂船と小型のボートとでは、揺れ方の激しさも桁外れに違う。

 付き人たちは船酔いのためにほとんど返事をする気力もないようだったが、クレオン本人は計画実行への興奮のためか体質的なものか、至って元気であった。


 彼らを乗せたボートと、後続の一艘は、スファクテリア島の最北端にさしかかろうとしている。

 クレオンは上へ下へと大きく揺れるボートの船端にしっかりと掴まり、舷側から顔を突き出して、後続のボートに向かって大声を張り上げた。


「時は来た。作戦を、開始せよーっ!」


 後続のボートが、クレオンたちの乗り組むボートから離れ、スファクテリア島の北端の岸辺に舳先を向けて進み始める。

 ボートの上から、黒い武装に身を固めた大柄な男が拳を掲げて合図を送り、クレオンも機嫌よく拳を振ってそれに応えた。


「隊長、しっかり頼むでえ! さっき見られてしもたから、ひょっとしたらスパルタ人どもが出よるかもしれへん。そん時は、片っ端から()てもうたってや! あ、でも、さっきの可愛い子だけは、特別に置いといたってな!」


 隊長と呼ばれた男の耳に、クレオンの言葉がしかと届いたかどうかは定かでなかった。

 ボートはたちまちスファクテリア島の地面に乗り上げ、乗り組んでいた男たちは全員がわずかばかりの砂地に飛び降りて、直ちに「作戦」を開始した。


 漕ぎ手をつとめていた男たちが荷物の覆いを剥ぎ取り、束になった薪と焚付け、油を満杯に詰めた壺を次々と受け渡してゆく。

 彼らはそれを、砂地のすぐ側まで迫った森の木々の根元に手際よく積み上げ、油をかけていった。

 黒い武装の隊長に率いられた九人の兵士たちは左右に展開して立ち、この作業を邪魔する者がないか、周囲の闇に目を光らせていた。


「クレオン君、なあ」


 揺れるボートの上からその様子を見守っていたデモステネスは、とうとう堪え切れなくなり、呼びかけた。


「君……本当ほんまにやる気なんか?」


「うん?」


 クレオンは、軽い調子で振り向いてきた。

 アテナイの大通りを歩いていて、今ふと後ろから呼び止められたというような、気楽な笑顔でだ。

 だが、デモステネスは反射的に、続けようとしていた言葉を呑みこんだ。


 クレオンの、ものやわらかな笑顔の中で、目だけは全く笑っていないようにデモステネスには思えた。

 もしも今ここで自分が、作戦の決行に強硬に反対したならば――あるいは、クレオンは、ひょいとこちらの脚をとって海に放り込み、目的を達してしまうと何食わぬ顔で本船に戻ってゆくのではないか。

 そして、不幸な事故により溺死した友人を悼んで将兵たちの前で涙を流し、声を震わせて追悼演説をぶつのではないか――

 デモステネスは、ふと、そんな気がしたのである。


「なあ、デモステネス君」


 黙り込んだ彼の意図をどのように読んだのか、クレオンは、不意に目を細めて友の肩を叩いた。


「これも勝利のためや。勝利のために、これは、必要なことなんや。考えてもみいな。これまでに死んでいったアテナイの将兵たち、僕らの隣人たちの犠牲が、全部パーでしたで終わるなんちゅうことは、君かて、到底容認でけへんやろう? 君のもとで勇敢に戦い、死んでいった部下たちの顔を思い出してみいな! これほどの戦いを経て、何の益もなく、幾多の壮健な男たちを無駄死にさせただけに終わる……君は、それでええとでも思うのんか?」


「そんなわけ、ないやろうが!」


 デモステネスは思わず叫んだ。


「そんなわけないやろ……けど、こんな……こんな、卑怯なやり方は……」


「これしかないんや」


 今度は両方の手でしっかりとデモステネスの肩を押さえ、まっすぐに目を見つめながら、クレオンは熱弁した。


「そら僕かて、正々堂々の戦いで決着がつけられるもんなら、そないしたいよ? けど、そない言うて手ェこまぬいとって、結局、ニキアスは成功したか? どうや? もう、これしか手ェはないんや、デモステネス君。分かってくれ……」


「ああ、もちろん、君の言いたいことは、よう分かる……けど、僕は……」


「――お。火ィ着いた」


 ふっと視線をずらしたクレオンがそう呟き、デモステネスは思わず議論を中断してそちらを見た。

 暗闇の中で小さな赤い点がちらちらとまたたいたかと思うと、たちまち、熟練の踊り手のように鮮やかに火が立ちのぼった。

 ごうごうと吹きつける風に煽られ、火の勢いはたちまち拡大してゆく。

 その手前で、黒い影絵のように見える男たちが、慌てて後ずさるのが見えた。


「これで、もう大丈夫」


 クレオンが穏やかな調子で呟き、デモステネスははっとしてそちらを見た。

 デモステネスは静かに彼を見返し、微笑んでいた。


「なあ、デモステネス君。これは必要なことなんや。君かて、本当ほんまは、そのことがよう分かってるはずや。だって、君は僕を止めへんかったやないか? ああ、そら、口では止めたかもしれへん。けど、君はもし本気でそうしたければ、さっき、僕の足を引っ掴んで、海に放り込むことかてできたんや。君は、それをせえへんかった。――君は、自分は僕を止めた、という事実が欲しかっただけであって、本気で僕を止めるつもりはなかったんや。そやろ? 君かて、内心では、僕のこのやり方しかないということが分かってるはずや」


 クレオンの口調は静かで、そこには、デモステネスを論破してやろうというような気負いはいささかも感じられなかった。

 まるで、当たり前のことを口にするような口ぶりだった。

 あるいは、ひどく分かりの悪い生徒に対したときの、辛抱強い教師のような――


 スファクテリア島の海岸では、油と風によって勢いを得た炎がますます範囲を広げつつあり、広がる赤い光は、彼らの横顔をさえ照らし始めた。


「そうかもしれへん」


 デモステネスは、呟いた。


「確かに、そうかもしれへん。けど……この際、はっきり言わしてもらう! 僕は、君の神経が信じられへん。こんなことは、あかん。許されへんことや! なんぼ勝利のため、アテナイのためやて言うても、こんなこと、神々がお許しにならへん……」


「神々がお許しにならへんのやったら、僕は今頃、天から下った雷霆に打たれるか、ばっくり割れた海に飲み込まれるか、どっちかしてるやろな」


 クレオンはそう言った。

 一瞬、デモステネスは、目の前の友人が口にした言葉の意味を取ることができなかった。

 やがて、その意味がゆっくりと精神に浸透するにつれ、デモステネスの表情には、ある感情が色濃く表れてきた。


「クレオン君」


 それは、驚愕。そして、恐怖。


「君は……まさか」


 その先をデモステネスが何と続けるつもりであったにせよ、それは、永久に分からずじまいになった。

 突如、海岸で騒乱が起こり、船上の一同の目を一時に引きつけてしまったからである。


 燃え上がる炎を引き裂いて森の中から躍り出てきたのは、抜き身の剣を手にした黒髪の若者だった。

 それは確かに、つい先ほどクレオンに槍を投げつけたスパルタ人の若者に間違いなかった。

 

 彼は槍も盾も持たず、ただ剣と、太い木の枝を棍棒のように手にしていた。

 若者が飛び出してくる瞬間まで、彼の接近に気付いた者は誰もいなかった。

 彼は海岸を回ってきたのではなく、真っ暗な森の中を通り、炎に姿を隠しながら忍び寄ってきたのだ。


 薪と油を運んできた漕ぎ手たちのうち二人が、たちまち斬り倒されて砂の上に転がった。

 もう一人、側にいた漕ぎ手が武器を振るおうとしたが、それよりも早く若者の棍棒が頭を一撃し、兜に守られていなかった頭蓋を貝殻のように打ち砕いた。


「はっはァ! やっぱし、追っかけて来てくれたなあ!」


 クレオンが躍り上がって手を叩き、もう少しで船端から前のめりに転げ落ちそうになった。


「おい、諸君! 頼むでェ!」


 すんでのところで後ろ向きに倒れ込みながら叫んだ、クレオンの声が聞こえたかどうか。

 広がって周囲を警戒していた兵士たちは慌てて内側に向き直り、そのうちの一人が若者に向かって勢いよく槍を突き出した。


 若者は槍の穂先を棍棒で打って逸らし、その勢いを殺すことなく体を回転させ、一瞬で相手の間合いに踏み込んで槍の柄を掴み取った。

 掴まれた槍を、その兵士は反射的に引いた。

 その動きに逆らわず、若者はさらなる速度をもって踏み込み――

 次の刹那、若者が横殴りに振るった剣が兵士の喉笛を引き裂き、大量の血が噴き出した。


「卑怯者どもが!」


 スパルタ人の若者――クレイトスの喉から、憤怒の叫びがほとばしった。

 クレイトスは最初、自分が目にしている光景が現実のものだとは考えられなかった。

 この男たちは、あろうことか、スファクテリア島の森に火を放ったのだ。


 極端に雨の少ない時季があるギリシャの地ヘラスにおいては、乾燥から山火事が起きることは珍しくはない。

 だが、人間が恣意的に森を焼こうとするなど、信じられなかった。

 いや、それ以前に、こんなふうに夜陰に乗じて島に上陸してくるなど、そもそもあってはならないことではないか。

 彼らは、戦争において守るべき規範を、何もかも平然と踏み躙っている。

 なんという卑劣な――いや、そんな言葉程度ではとても形容し切れない、憎むべき、忌むべき行いだ。

 アテナイ人は、戦士の名誉も、人の心も捨てたのか?


「恥を知るがいい!」


 クレイトスは次々と突き出される槍の穂先を鋭い体捌きでかわし、油壺を放り出して逃げようとした漕ぎ手のひとりを背後から斬り倒した。


 ここまでボートを追って、暗い海岸線を走りに走り、道が崖に阻まれて途切れた場所では夜の海に飛び込んで泳ぐという死と紙一重の決死行を経て来た。

 疲労によって動きが鈍っても仕方がないはずなのに、今、恐ろしく体が軽い。


 この場で戦うことを決めたときから、クレイトスは、死を覚悟していた。

 こちらはただ一人、対する相手は十数名。

 挑むのが無謀だということは、充分に承知していた。


 クレイトスがたどり着いたときには、すでに炎は大きく燃え盛っていた。

 自分一人では、この炎を消すことはかなわないと、一瞥しただけで感じた。

 このまま姿を現さずに踵を返し、最も近い北の陣地へ報告に走ることも考えた。


 だが、最も近いといっても、この闇の中、道も定かでない山中を駆け登って味方の陣地に達するには、時間がかかりすぎる。

 この風だ。おそらく炎のほうが、自分の足よりも速い。

 報せをもたらしたところで虚しく、仲間たちは手もつけられぬほど大きく燃え広がった炎、森林火災に襲われることになるだろう。


 だが――仮に、もしも今この時、自分の呼び声と伝言に気付いたレオニダス様が、仲間たちが、こちらへ向かってくれているとしたら?

 あの方々が、力を合わせてかかれば、あるいは、今ならばまだ、この炎がこれ以上広がることを食い止められるかもしれない。


 そのためには、消火の妨げとなる敵を、自分が一人でも多く殺しておくこと。

 この命と引き換えに、アテナイ兵どもを、一兵でも多く道連れにするのだ。


(五……)


 二人の兵士が、左右から同時に襲い掛かってくる。

 ほんの一瞬のあいだに、その穂先のきらめきの正確な軌跡と、相手の動きのその先までが、全て見えたという気がした。

 クレイトスはその感覚に従って思い切り体を投げ出し、交差する穂先の下を抜けて目の前にいた別の兵士に飛びかかり、盾ごと蹴り倒した。

 倒れた相手の腹に容赦なく剣を突き立て、あっという間に砂の上を転がって追撃をかわす。


(六!)


 ヘルメス神もかくやと、自分自身で感じるほどの動きの冴えだった。

 それは、死を覚悟することによって恐怖を克服した者にのみ可能となる動きだった。


 そのとき、出し抜けに目の前をヒュウと行き過ぎたものがあり、クレイトスは反射的に踏み止まって動きを止めた。

 矢だ。

 それは、いまだ海上に留まっているボートから放たれたものだった。


「なっ」


 と、そのボートの上で思わず声を発したのは、デモステネスだった。

 船縁を両手で掴み、魅入られたようにラケダイモンの若者の戦いぶりを見つめていたところ、不意に、自分の真横から矢が放たれたのだ。


 彼は反射的に、射手を怒鳴りつけようとした。

 相手はただ一人、それも、若いとはいえ見事な戦いぶりを見せる勇士ではないか。

 そんな相手を、横合いから弓矢をもって討ち取るなど、これほど恥知らずな行いはない――

 だが、デモステネスが怒声をあげるよりも早く、


「ど阿呆!」


 鈍い音がして、矢を放った男が船底へもんどり打った。

 クレオンの付き人の一人だ。

 彼を殴り倒した拳も開かぬまま、さらに怒鳴りつけたのは、クレオン自身だった。


「むやみに撃つなァ! あの子に当たったら、どないすんねんな!」


「――味方に、やろ!?」


 思わずその腕を掴み、デモステネスは叫んだ。叫ばずにはいられなかった。


「阿呆かいな」


 クレオンは、うるさそうに片手を振ってデモステネスを振り払った。


「こんな矢ァなんかに当たるような鈍臭どんくさい連中やったら、わざわざたっかい金はろて雇うた意味あらへんがな!」


 唖然としたデモステネスをもはや顧みず、クレオンは船端に両手をついて叫んだ。


「隊長! その子は、置いといたってやー! てもうたら、あかんでー!」


 叫ぶクレオンの口元には今、はっきりと、笑みがあった。

 ますます激しくなる炎を映し、その両眼はきらきらと輝いて見えた。

 デモステネスは座り込んだままその姿を見上げ、自分は今、本物の魔物を見ているのだと思った。



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