逡巡と決断と
夜の闇の中で、寄せては返す波の音だけが響き続けている。
外洋側からは見えない大きな岩の裏側に回り込み、クレイトスは、呆然と立ち尽くしていた。
(どういうことだ……)
先ほどの男が笑いながら名乗った名が、脳裏に反響し続けている。
クレオン。
それは、このスファクテリア島を包囲するアテナイ艦隊の、新たな司令官として派遣されてきた男の名ではなかったか?
最初の衝撃が徐々に抜け落ちてゆくにつれ、投槍で仕留められなかったことに対する後悔が猛然と湧き上がってきた。
あれが単なる物見などではないことは、すぐに分かった。
物見のためだけに、こんなふうに日が落ちてから、わざわざ司令官自らが意味ありげな大荷物を載せたボートを引き連れて島に近付いてくるはずがない。
(何を、しに来た)
覆いをかけられた、あの大きな荷物の中身は何だったのだろう。
もしかすると、あの中には、アテナイの兵士たちが潜んでいたのではないか?
このスファクテリア島に秘密裏に上陸し、陣地を急襲するつもりなのではないか。
では、自分に発見されて、クレオンはその計画を諦めただろうか?
いや、それならば、ボートはすぐに島から離れていったはずだ。
クレオンを乗せたボートは、島から遠ざかることなく、海岸に沿って北上していった。
だとすれば、このまま、どこかの地点で上陸を決行する意図ではないだろうか?
(どうすればいい!)
クレイトスは岩陰から飛び出し、波打ち際へと踏み出して目を凝らした。
遠ざかるクレオンのボートは今、再び灯りを消しており、そのかたちはもはやほとんど小さな影のようにしか見えなかったが、辛うじてまだ肉眼で捉えることができた。
選択肢は二つだ。
今すぐに陣地へと戻り、自分が見たことを報告するか。
それとも、このまま単身でクレオンたちを追い、その動向を見張るか。
クレイトスは、すぐに一つめの選択肢を捨てた。
クレオンは、明らかに何らかの明確な意図を持って島に近付いてきたのだ。
このまま目を離せば、自分が仲間たちを連れて戻るまでのあいだに、クレオンはその企図するところを遂げてしまうかもしれない。
だが、二つめの選択肢にもまた、問題はあった。
相手はボートに乗り、海上を進んでいるのだ。
対する自分は、陸路をゆくしかない。
海岸線には、地形の険しい箇所もある。
今からひとりで追ったところで、追いつけるだろうか?
また、仮に追いつくことができたとして、相手が上陸を強行しようとした場合、単身でそれを食い止め得るだろうか。
「智謀すぐれたるアテナよ……!」
クレイトスは、祈った。
智慧ある戦いを司る女神に祈り、どうか正しい道をお示しくださるように、と呼びかけた。
今この瞬間に、自分がひとつ判断を誤れば、このスファクテリア島に閉じ込められたスパルタの戦士たち全員の破滅につながるということをクレイトスは直感していた。
もはや決して、決して、昼間のような軽率な判断を下すことは許されないのだ。
しかも、時は長く与えられていない。
クレオンたちのボートは刻一刻と遠ざかり、その姿は見えなくなろうとしている。
クレイトスは、決断した。
彼は胸一杯に息を吸うと、狼の遠吠えにも似た長い叫びをあげた。
一度、二度。
喉を震わせ、長く引きずるような三度の叫びをあげた。
この叫びが、仲間たちの、レオニダスの耳に届くことを祈りながら。
そして彼は不意に手にした剣を足元の砂地に突き立て、ぐいぐいと切り込むように動かしていたが、やがて脱ぎ置いていた自分のマントを掴み、大きく広げてその側に置き、駆け出した。
波音響く海岸を北へと、企みを乗せた小舟を追って。