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我ラガ艦隊、来着セリ

 戦いが始まってから、陽が沈み、陽が昇り、また陽が沈み、そして陽が昇ったとき――

 ピュロス湾は、奇妙な静けさに支配されていた。


 人間の営みに関わらず寄せては返す波の音だけがその場に響いていたが、その音すらも、どこか常とは違った予感のようなものを孕んでいるように聴こえた。  


 戦いの物音はなかった。  

 一両日のあいだアテナイ側の砦を攻撃し続けたスパルタ側の艦隊、陸軍ともに、今は沈黙している。  


 といっても、それは戦いの終結を意味するのではなく、彼らがより強烈な打撃を敵に見舞うため、呼吸を整えて拳を引きつけていることを示すに過ぎなかった。  


 スパルタ側の艦隊、陸軍は、ともに激しい攻撃を加えたものの、未だアテナイの砦の壁を打ち破ることができていない。

 これ以上の力押しは益少なくして損害を増すばかりと判断したスパルタ側は、いったん攻撃を中止した。

 そして、未明に、数隻の艦を沿岸の同盟都市へと派遣したのである。  

 攻城装置を建設するための木材を調達するためにだ。  


 スパルタ陸軍の攻撃目標であったアテナイの砦の東側の防壁は、彼らが予想した以上に堅牢であり、立て籠もるアテナイ兵たちが次々に投げ落とす無数の石、壺で沸騰寸前まで煮立てた海水によって、多くの兵が負傷していた。  


 そこで、今後は、海側からの攻撃に重点を置くこととなった。

 アテナイの砦の西側、海に面した部分の防壁は比較的脆弱な造りとなっており、上陸さえ果たすことができたなら――それこそが目下の難事ではあったが――攻城装置をもってすれば、防壁の攻略は、ある程度容易であるように思われたからである。  


 スパルタ側の艦隊の三段櫂船の大多数は今、湾内の、砦からやや離れた場所に投錨していた。

 乗員たちは上陸し、簡易のかまどを組んで火をおこし、遠征のさなかのわずかな愉しみである食事を摂ろうとしていた。


 


 一方――

 砦の内部では、アテナイ兵たちもまた、沈黙を守っていた。

 

 めいめいが武器を手にしたままで持ち場に座り込み、堅く焼き締めたパンをもそもそと齧っている。

 蟻の食事のようにわずかずつ齧るのは、食欲が無いからではなく、そうしなければ、わずかに配給されて口をうるおしてくれる水を根こそぎ奪われ、喉が詰まってしまうからだった。


 海辺で幾度となくスパルタ軍を押し返した重装歩兵たちの生き残りと、弓兵たちもまた砦に入り、死力を尽くした防衛で傷つき疲れ果てた身体に手当を施し、休んでいた。  

 だが、彼らは、ただ束の間の休息を取っているのではなかった。  


 彼らは、待っている(・・・・・)のだ。

『約束の日』だ――  


 彼らの視線は、ともすれば、ちらちらとある一点に向けられた。

 その視線の集まる一点には、彼らの指揮官デモステネスの姿があった。


 デモステネスは血と砂に塗れた長い手足を地面に投げ出し、まるで眠っているように見えた。

 だが、そうではない証拠に、彼はときどきゆっくりと瞼を開き、傍らに控えた副官のほうに視線を向けた。

 そして、副官がかぶりを振ると、何も言わずに再び目を閉じる。


 周囲には、一種異様な緊張感が張り詰めつつあった。  

 そのうち、誰かが耐え切れなくなって突然喚き出すのではないかと、その場の誰もが不安を感じていた。


『約束の日』なのだ。  

 その約束は、果たして守られるのか、どうか?  


 デモステネスは目を閉じたまま、だらしなく投げ出した手に自分の槍を握り、もしも誰かが喚き出したときには即座にこれを投げつけようと心に決めていた。


(もしも、あいつ・・・がザキュントス島から駆けつけてくるのが遅れたら……スパルタ側の艦隊が攻城兵器を搭載して戻ってくるまでに、間に合わんかったら……この砦は、おしまいや。いや、それどころやない。今日・・や。今日中に、援軍が間に合わんかったら、皆の士気は、完全に挫かれてしまう――)  


 敵地のただ中への砦の建設から、無謀とも言える籠城まで――

 全ては、ザキュントス島からの援軍を頼みとした作戦であった。  

 デモステネスは、いわば自らと、自らの部下たちを生き餌の小虫として、敵の目の前に差し出してみせたのだ。  


 誇り高きスパルタは、目の前をちらつく小虫を看過することをしない。  

 果たして、うるさい小虫を大魚が喰らおうとするように、彼らは攻め寄せてきた。

 だが、その大魚を、待ちかまえる者がいる。  

 小虫に引き寄せられた大魚に銛を打つ漁師こそが、ザキュントス島のアテナイ艦隊――


(アテナイ艦隊がすぐ近くで待ち受けとるとなったら、さすがのスパルタ人たちも、うかつに寄っては来えへん。艦隊には、ぎりぎりまでザキュントス島に留まってもらう必要があった。一瞬でけりが着くはずと油断して攻め寄せてきたスパルタ人どもを、二日間、命をかけて粘り切り、艦隊の到着まで釘付けにするところまでが、僕らの仕事。あとは、あいつが、日限を守って来援することを祈るだけや。約束は今日……今日中や……ああ、どうか……)


「パラス・アテナよ……」  


 声に出すつもりはなかったのだが、内心の祈りが口から零れていたらしい。  

 デモステネスは自分自身の声に驚いて目を開き、副官のぎょっとしたような視線を受けて「しまった」と感じる――


 その一瞬後、彼は、ある異変に気付いた。  

 ほとんど仰向けに寝転がるような姿勢でいた彼は、海に面した防壁の上に立っている歩哨たちが、ほんのわずかに姿勢を変えるのを見たのだ。  

 歩哨たちはまったく同時に、半歩前に出て、防壁のふちに手をかけ、上体を乗り出すようにした。


「え、何?」  


 いつ起き上がったのか自覚がないほどの素早さで、デモステネスは跳ね起きていた。  

 槍を握り締めたまま、長い脚で飛ぶように粗い石段を駆け上がり、歩哨たちの間に身体を割り込ませる。


「何や、どうした。どれ? どこ?」


「あの、あそこ……」  


 指差す歩哨たちも、まだ、自分たちの視力を完全に信頼できずにいるようだった。  

 彼らは同じような表情を並べて目をすがめ、手をかざし、右手の方、北の水平線を睨みつけた。  


 あれは、何だろう?  

 海面上に浮かぶ、小さな黒い粒のようだ。

 その数は、どんどん増えてくる。


「あれは……」


「デモステネス様――」  


 呻くような、囁くような声がいくつも上がった。  

 今や、その場の全員が立ち上がり、防壁から転げ落ちんばかりに身を乗り出したデモステネスを見詰めている。  

 防壁のふちを握り締めていたデモステネスの指が、わなないた。


「きっ、――来た来た来たあああああああぁ! 来よったでえええええ! よおっしゃあああああああああぁ!!」  


 歓呼が爆発した。

 それは歓呼というよりも、もはや感極まった雄叫び、絶叫と呼ぶに近く、アテナイ兵たちはことごとく気が狂ったように跳びはねながら涙を流し、幾度も天に拳を突き上げた。



   

 それは、あっという間の出来事であった。  


 この朝、スパルタ側の艦隊はことごとく錨を下ろすか、岸辺に引き上げられていたから、50隻近いアテナイ艦隊が湾内に突入してくるのを止める術がなかった。


 予定されていた『閉塞』は、失敗した。

 スパルタ側の艦隊のうち、乗員の行動の素早かったものは既に海上に浮かんでいたが、陣形など組む間もなく、かえってアテナイ艦隊の格好の餌食となってしまった。


 アテナイ艦隊の三段櫂船が、スパルタ側の艦に次々と襲い掛かり、衝角で横腹を突き破っては波間に沈めてゆく。

 乗員がまさに乗り組みつつある最中、岸を離れるまでに破壊された艦さえもあった。

 複数の艦がアテナイ艦隊に拿捕され、そのうちの一隻などは、乗員もろともにであった。

   



 アテナイの砦から湧き起こった突然の歓声と、海上から響いてくる戦いの物音を、本土側から砦を包囲していたスパルタ陸軍も聞いた。  

 すわ何事かと竈の前で腰を浮かした戦士たちの視線の先で、砦の防壁の上に、炭でくろぐろと文字を書き付けた大きな板があらわれた。


『我ラガ艦隊 来着セリ』  


 スパルタの陣営に、衝撃が走った。  


   


 アテナイのデモステネスは、重装歩兵たちに守られて砦の西側へと降り、波打ち際へと向かった。  

 一隻の三段櫂船がまっすぐに近付いてきて、やや離れたところで止まった。

 そこから小舟が下ろされ、海岸へと漕ぎ寄せてくる。


「ニキアス……」  


 そこに乗っている、なじみのある男の顔をはっきりと確認して、デモステネスは呟いた。  

 接岸と上陸にだいぶもたついたものの、その男は部下たちの手を借りて無事に海岸に降り立ち、傲然と辺りを見回した。

 風采はまあ偉丈夫と言ってよいが、腕を組み、顎を突き出す癖は、尊大な印象を与えずにはおかなかった。


「ニキアス君!」  


 陸地に立ったニキアスに、デモステネスは、満面の笑みで駆け寄った。


「よう来てくれた、ほんまに! 僕は、死ぬまでに、君の顔を見てこれほど嬉しいと感じる日が来るとは思わんかったわ!」


 その顔に浮かんだ笑みも、声音も、あまりにも明るいものであったために、すぐ背後に控えていた副官でさえも、デモステネスの言葉に含まれた強烈な皮肉を見過ごしかけたほどだった。


「うん、俺もな! 正直、本国の連中と同じで、今日この時が来るまでは、この作戦が成功するとは、これっぽっちも思うてなかったわ!」  


 うはははは、と笑ったニキアスの方は、皮肉でも何でもない、ただ思ったことをそのままに口に出しているだけだった。  

 もちろん、デモステネスの言葉に含まれた皮肉になぞ、気付いてもいない。


「いや、まさか、ほんまにやりよるとはなあ。ええ? こんなボロ砦で、ようもまあ二日間も、もったこっちゃ! 海と陸からの攻撃を受け、絶体絶命の状況で、希望を捨てずに部下を導き、砦を守り切った! もちろん、地の利が味方したとはいえ、そもそも、この場所に砦を建てようと思いついたことが天才的や。まさしく希代の名将やなあ、デモステネス君。ええ?」


「またまたあ!」  


 デモステネスは愛想のいい笑顔を浮かべたまま、虫でも追うように片手を振った。


「それは君のことやろ、ニキアス君? スパルタ人たちに包囲され、砦に立て籠もるアテナイ兵士たちの命運は風前の灯……しかし! そこに、朝日と共にニキアスの艦隊が駆けつける! これぞ、英雄の仕事っちゅうもんや。浮き彫りにして、神殿の回廊にでも飾っとかなあかん!」  


 デモステネスの言葉に、ニキアスは大きな顎をますます突き出し、にやにやと笑みを広げた。  

 おそらくその脳裏には、アテナイの広場で民衆からの賞讃を一身に浴びる自分自身の姿が展開されているのであろう。  

 デモステネスは内心で、この男が要請した日限を完璧に守って来援したことを、神々に感謝せずにはいられなかった。


「おっ? 何や、デモステネス君、泣いとるんか!? うはははは! 何も、そこまで感動せんでもええやないか!」


「いや……これは……ほんま……」


 この日のために、デモステネスは何度も何度もザキュントス島へ書簡を送ってきた。

 この作戦が成功した場合の戦果の大きさ、それに伴う世論の反響の大きさを強調し、そのためには、とにかく来援の日時・・・・・を守ってもらうことが絶対に必要である、早すぎても、遅れてもいけない、と、繰り返し述べ続けてきた。

 その努力、途方もない心労が、無事に報われたのだ。

『約束の日』は、現実のものとなった。

 デモステネスの目を潤ませたのは、感動の涙ではなく、腹の奥底から湧き上がった安堵の涙であった。


「しかしな、ニキアス君。まだ、完全勝利というわけやないで?」


 怪訝そうな表情を浮かべたニキアスに向かい、あっという間に涙を消したデモステネスは、海の方へ向かって顎をしゃくってみせる。

 今や、ピュロス湾内に五体満足で浮かんでいる艦は、アテナイ艦隊の三段櫂船およそ50隻と、彼らによって拿捕されたスパルタ艦の数隻しかなかった。

 その他のスパルタ側の艦船はことごとく破壊され、波間に漂っている。

 だが、デモステネスの表情に、緩みは見られない。


「書簡にも書いといたやろ? ほら、あの島――スファクテリア島に、スパルタ人どもが陣取っとるんや。あいつらは、まだ、艦を持っとるで」


 ニキアスは、ふん、と鼻を鳴らした。


「なんや、そのことかいな。……安心せえ。既に、そっちにも艦を回してある」  


 デモステネスが意外そうな顔をしてみせると、ニキアスは、にやりと笑みを浮かべた。


「今、ここからは見えへんけどな。スパルタ人どもは、艦をスファクテリア島の岸辺に引きあげて並べとる。それを全て曳航してくるように、部下たちに命令してきた。艦を奪い、奴らを島に閉じ込める! これで、スパルタ人どもは、箱に入った亀も同然や」  


 さあどうや、と言わんばかりのニキアスのにやけ面を、デモステネスはしばし、無言のままに見つめていた。  

 やがて、彼は頷き、ゆっくりと手を叩きはじめた。


「見事や、ニキアス君。芸術的や。それは、つまり……彼らを島ごと・・・、そっくりそのまま人質にとってしまおうということやな?」


「うはははは! まあ、そういうこっちゃ。この報せを聞いたときの、本国のスパルタ人どもの顔が見ものやないか、ええ?」


「ほんまに素晴らしいわ、ニキアス君! 市民たちは、君の手腕を高く評価するやろう。アテナイの列柱という列柱、壁という壁に、君がおさめたこの大いなる勝利が彫刻され――」


(ああ、やっと)  


 既に意志から離れた賛辞を口先で並べ続けながら、デモステネスは、深い溜め息を吐くようにしてひとりごちた。


(これで、やっと、スパルタとの休戦交渉に入ることができる。……おそらくは、本国のクレオンが交渉の主導権を握るやろう。あとは任せるわ。今回の戦争は、長く続き過ぎた。僕はもう、くたびれた。はよ、家に帰りたいわ……)  


 デモステネスもまた、戦争を好む人間ではなかった。  

 好むと好まざるとに関わらず戦争は起こり、それが義務であるから参加する。

 問題はただひとつ、『いかに終わらせるか』、ただそれだけだった。


(奥さん、待っとるやろうなぁ……)


「まあ、乗れや、デモステネス君」  


 無粋な声が、一瞬のやわらかな白昼夢からデモステネスを呼び戻す。

 ニキアスは腕を振り、デモステネスを自分の旗艦へと誘った。


「スパルタの連中が為す術もなく島に閉じ込められるところを、二人でゆっくり見物しようやないか。ええ?」  


 ――そうだ。

 まだ、何もかもが片付いたわけではない。


「ほな、御言葉に甘えて」  


 デモステネスは肩をすくめ、小舟に向かって歩き出した。


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