半神を悩ますもの
指ばら色の暁の乙女さえ溜め息する、とうたわれる端整な顔立ち――
その顔をぼんやりと遠くへ向けて、レオニダスは困っていた。
そう、困っていたのだ。
世間では《半神》レオニダスが困ることなどないと思っている。
迷惑なことである、と彼は思う。
《半神》というのは、スパルタの人々が彼に捧げた二つ名だった。
本来ならば神代の英雄たち、偉大な功績を残して世を去った人々に対して捧げられるべき言葉であるが、その呼び名さえ相応しいと思わせるほどの数々の武功を讃えてのことである。
《半神》に困ることなどあるはずがないと、人は思うのだろう。
実際のところ、彼はほとんどいつでも困っているのだが、周囲の目がそれを見抜くことは皆無といってよかった。
それというのも、レオニダスは、ほとんどまったくと言っていいほど表情の動かない男だったからだ。
顔に感情が表れるということがない。
敵に対するときは便利であるが、そうでないときには相当不便である。
そして、それこそが、彼が困っている原因だった。
王の肝煎りで新設され、彼が隊長をつとめることとなった《獅子隊》は、三十前の若い男たちだけで構成される。
そして、彼らは二人一組を一単位として組織される。
その「二人一組」が問題なのだ。
スパルタ人の立派な男ならば誰でもそうだが、彼らは同じスパルタ人の少年を側に置き、その念者となって教育するという義務を負っていた。
リュクルゴス以来の制度により、スパルタでは七歳以上の男子は親元から離して育てられたから、大人の男たちの「義務」はより重要な意味を持っていた。
少年の念者となった男たちは、時には父親として、兄として、戦友として、スパルタ人としての名誉の感覚と都市国家に対する忠誠、戦場でのふるまいから敵の殺し方に至るまで、すべてを教え込んだ。
むろんレオニダスもこの義務から逃れることはできず、これまでに何人もの少年たちを側において教育してきたが、これが、彼にとってはいつでも頭痛の種なのだった。
どの少年も、憧れの《半神》レオニダスに少しでも近付きたいと、懸命に指導を求めた。
レオニダスとしては、いつでも全力で応えているつもりだった。
だが、うまくいかないことがしばしばあった。
いや、噛み合わない、というべきか。
レオニダスは表情に乏しく、容易に感情をあらわさない男であったから、少年たちにとっては、いつまでも遠く、遥かに高い峰の頂にいるような存在に思えた。
《半神》は少年たちの父、そして兄のようにはなれなかったのだ。
また、レオニダスの普段の話しぶりは簡潔きわまり、簡潔すぎて言葉が足りないことも多々あったから、たびたび誤解が生じた。
ある少年などは、自分に力が足りないためにレオニダスに冷たくされていると思い込み、半狂乱になってしまった。
しまいには、
「どうすれば、私はレオニダス様にふさわしい男になれるのですか!? 教えてください、お願いいたします!」
と彼の膝に取りすがり、男泣きに泣く始末である。
レオニダスは、困った。
困った末に、どうすればも何も、そのままで充分、大丈夫だという意味のことを伝えようとした。
しかし、何がどこでどう誤ったか、その言葉は「しょせん貴様のような者は努力しても無駄だ」と解釈されてしまったのである。
結果、その少年は絶望のあまり自棄を起こして「素手で暴れ猪に挑む」という暴挙に出、大慌てで止めに入ったレオニダスは、左手で少年の襟首を引っ掴みつつ右手の棍棒で猪の鼻づらをぶっ叩く、という前人未到の離れ業を披露しなければならなくなった。
伸びた少年と猪を両手に引っさげ、人々の賛嘆のどよめきに囲まれながら、レオニダスは「このような面倒事は二度と再びごめんこうむる」と、固く心に刻んだのだが――
二人一組を一単位とする《獅子隊》の隊長となれば、他の隊員たちと同じく「あと一人」があてがわれることを避けては通れないのだ。
できることならば拒みたかった。
しかし、まさか敬愛する王に対して「そんなものはいりません」などと言えるはずもない。
こうしてレオニダスの気分は今朝から坂道を転げ落ちる樽のごとく、果てしない下降線をたどっていたのである。
今ごろは、彼の新しい副官となることがきまっている《フクロウ》フェイディアスが、躍起になって少年の選考にいそしんでいるはずだ。
《フクロウ》とは、この男の目が異様に大きくて、ぎょろついていることからつけられた二つ名だった。
あの目でじいーっと凝視されたのでは、少年たちも、さぞかし気味が悪かろう。
だがその眼力は確かで、人物を見抜くことにかけては、まず間違いはないと思ってよい。
最悪の場合でも、暴れ猪に突撃していくような無謀なやつが選ばれないことを祈る。
「レオニダス様!」
張りのある大声が、彼の物思いを破った。
たくましい若者が駆けてきて、レオニダスの前に立つ。
「皆、食事を終えました! 訓練を再開してもよろしいでしょうか?」
なぜか、声が上擦っている。
どことなく顔色も悪い。
レオニダスは不審に思ったが、
「ああ」
とりあえず、それだけ言った。
彼の低い声はほとんど唸り声のようで、注意深い聞き手でなければ、うっかり聞き逃しかねないほどだった。
「あまりにも喋らんので舌が固まったのだろう」
とは、レオニダスを目の上のこぶと見なす者たち――主にディオクレス――の言だ。
普段はこれでも、ひとたび戦場に出れば、おどろくほど的確な指示をつぎつぎと繰り出して味方の急場を救い、「その雄叫びは雷鳴のごとくとどろき、敵兵はことごとく恐れをなして逃げ散った」とうたわれるほどなのである。
変わった男だ。
単に、面倒くさがりなだけかもしれない。
とっくに空になっていた黒スープの皿を放り出し、レオニダスは立ち上がった。
今は食事時だったのだ。
彼が戦技訓練を行う広場まで戻ると、その場には、異様な緊張感が漂っていた。
戦士たちはすでに整列して指揮官の到着を待っていたが、誰ひとりとして口を開く者はなく、一様に思いつめたような表情でレオニダスを凝視している。
何事だ、とレオニダスが足を止めた途端、
「申し訳ありません、隊長!」
最年長の戦士が、いきなり、膝を折らんばかりの勢いで謝罪した。
この部隊でずっとレオニダスの副官をつとめてきたピンダロスだ。
明日からは隊長になることが決定している。
豪胆な人柄で知られた彼が、ここまで心を乱すとは。
脱走者か、敵国への内通者でも出たのか。
誰かがうっかり神々への不敬を働きでもしたか。
あるいは、敵の間諜が侵入し、そいつを取り逃がしたのだろうか?
一瞬にして、いくつもの不吉な想像がレオニダスの心をよぎった。
だが、内心の動揺は、いささかも表情には表れない。
「どうした」
「罰するのならば、私を!」
絞り出すような声でピンダロスが言った。
罰するとは、ますますただ事ではない。
まず状況を正確に報告しろ、と命じようとした矢先に、
「いいえ!」
ピンダロスの横から声をあげたのは、彼よりもずっと年若い戦士のひとりだった。
彼はピンダロスの念弟だったな、とレオニダスはちらりと思った。
「二人一組」の弟分にあたる者をそう呼ぶのだ。
少年は涙ながらに訴えた。
「僕がいけないのです。僕が今日、二度も投げ槍を落としたせいで……」
「何を言う、エラトステネス! 私が悪いんだ。レオニダス様の副官ともあろうこの私が、まさか武装競走でぶっ転がるなどという醜態を演じてしまうとは……」
麗しい愛情ではあるが、意味がさっぱり分からなかった。
レオニダスが戸惑っているあいだに、他の男たちまでが、口々に言い始める。
「いいえ、隊長! 俺は、円盤投げに失敗して柱を壊しました! そのせいですよね!?」
「いえ、きっと俺が訓練中にぼんやりしていたから、腹を立てていらっしゃるのでしょう!?」
「……何?」
俺のせい? 腹を立てる?
事ここに及んでも事態が理解できていないレオニダスに、再びピンダロスが拳を握りしめ、
「確かに、今日は、隊長がいらっしゃる最後の日。隊長を送るにふさわしい態度をと、皆が浮き足立っていたのは事実です」
涙を滝のように流しながら言う。
「しかし、それを抑えるのが私の役目だったはず! それを果たすことができなかった、責任は私にあります!」
「いいえ隊長、ピンダロスのせいではありません! 落ち度は俺たちにあります! 隊長が、その……」
「あまりにも不機嫌そうでいらっしゃるもので、つい、焦ってしまいまして!」
「焦るあまりに手元が狂い……そのたびに隊長の眉間にしわが増えるので、さらに動揺が……」
「ああ! 言っているうちにもまた一本!」
まるで神の怒りに怯える者のごとく慌てふためく戦士たちの様子を眺めながら、レオニダスは、ようやく事の成り行きを理解した。
どうやら「二人一組」について朝から悩み続けていたせいで、ただでさえ不機嫌そうに見られることの多い顔が、ますます険しい状態になっていたようだ。
表情に乏しい隊長の心をなんとか読み取ろうと努力した戦士たちは、哀れ、間違った方向に突っ走った挙句に恐慌に陥ってしまったようである。
レオニダスは苦笑した。
本人はそのつもりだが、口元はきりりと引き締まったまま、ぴくりとも動いていない。
「誰も、罰しはせん」
訓練中にぼんやりと考え事をしていたこちらにも責任はある。
思えば、隊長として彼らの前に立つのも今日が最後だ。
ここはひとつ、隊長らしく、演説のひとつもしておくべきかもしれない。
「おまえたちは、誇り高いスパルタの戦士だ」
頑健な肉体、強靭な精神、軍人の規律、戦士の誇り。
この部隊には、どこをとってもスパルタの男として恥じない、真の男たちがそろっている。
俺がこの部隊から去ったとしても、皆はピンダロスの指揮のもと一丸となって奮戦し、数々の武勲を立てるだろう。
たとえ戦場に斃れたとしても、その者の名誉は同胞らの記憶に留まり、永久に忘れられることはないだろう。
そう、俺もまた、おまえたちを忘れることはない。
幾多の戦場を共に戦い抜いた猛者たちを。
願わくは、明日からは俺に対して捧げたのと同様の忠誠をピンダロスに捧げ、勝利を得んことを。
「……分かっているな」
レオニダスは、そう、重々しく締めくくった。
実に、考えたことの一割以下しか口から出ていない。
これで「分かっているな」と言われても困る。
実際、戦士たちも困った。
全員、完全に硬直し、全き沈黙が場を支配する。
耳を澄ませば、半分くらい筋肉に侵食されつつある彼らの頭脳が最大速度で回転する音さえも聞こえそうだ。
誰かの耳から煙が出たとしても何ら不思議ではない。
だが次の瞬間、彼らは突然アポロン神からの啓示を受けたかのごとく「はっ!」と何かに思い至ったようだった。
いきなり、ばたばたと転がるように広場に散らばり、必死の表情で訓練を始める。
だが、やはり浮き足立ってはいるらしく、自分の足の上に石の円盤を取り落としてぴょんぴょん跳ねる者あり、槍をかついで振り返った拍子に隣の仲間をなぎ倒す者ありと、散々なありさまだ。
ひとり取り残されたレオニダスは、黙ったまま、戦士たちの不可解な行動を眺めていた。
一応、真っ当に励ましたつもりだったのだが、この反応はちょっと違う気がする。
当然ながら、自分でも言葉が足りないことは自覚していた。
しかし、何がどう足りなかったのかは分からず、戦士たちがそれをどう解釈したのかも分からなかった。
「………………」
「二人一組」の先行きは暗そうだ。