スファクテリア島へ・夜
規則的な音が、低く、絶え間なく鼓膜を叩く。
夜の砂浜に寄せては返す、穏やかな波の音だ。
スパルタの艦隊、戦艦十二隻は、全て砂浜に引き揚げられていた。
今夜のようによく晴れた夜ならば、月と星の光、そして北極星の位置を頼りに、夜通し船を進めることは不可能ではない。
だが、漕ぎ手とその交代要員、さらに戦闘員を満載した軍船には、基本的に食料や水の備蓄を積み込む場所も、乗員が眠る場所もなかった。
航海に慣れた者が風と潮の流れを計算し、今晩の補給と野営を入れても、明日、日のあるうちにはスファクテリア島に到着するという計算を弾き出している。
ここで無理をするよりは、乗員たちに休息を取らせて心身ともに英気を養い、明日からの任務に備えさせようというのが司令官エピタダス将軍の判断だった。
野営に慣れたスパルタの戦士たちは、一箇所に集まり、思い思いの体勢でマントにくるまって熟睡している。
必要とあらばいつでも、何でも食べられることと、どこでも眠れることが優れた戦士の最低条件だ。
――とはいえ、中には、眠ってはいない者もいる。
たとえば、レオニダスの位置からは見えない船の陰では、ディオクレスがヘファイスティオンを荒々しく組み伏せて征服していた。
ディオクレスにしてみれば、なぜかいつでも憎きレオニダスと同じ戦場に送られてしまう己の運命に対する怒りを発散させているわけだが、困難な戦地に選ばれて配備されるのはディオクレスもまた優れた戦士であるからに他ならず、ある意味では気の毒な二律背反と言えるかもしれない。
そして、他にも眠っていない者たちがいる。
艦隊の戦士たちのうち、歩哨にあたった数人の男たちである。
万が一にも敵に船を奪われたり火を放たれたりすることのないよう、彼らは、海と陸のそれぞれに絶え間なく鋭い視線を配っていた。
誰一人として、ことりとも物音を立てない。
余計な注意を引くことのないよう灯りもつけず、ひっそりと佇む姿はまるで幽鬼のように見えた。
レオニダスは、砂浜の流木に腰を下ろし、黙って彼らの姿を眺めながら、繰り返し浜を打つ波の音に耳を傾けていた。
――明日、自分たちはスファクテリア島に上陸する。
そこで繰り広げられるであろう戦いに、彼は漠然と思いを馳せた。
海上を進んできたレオニダスらとは別に、現在、スパルタ陸軍が、ピュロス湾の北の岬の砦を目指して進軍している。
海と陸から同時にアテナイの砦を叩く、挟撃作戦だ。
レオニダスたちに与えられた任務は、スファクテリア島に上陸して前線基地を築き、アテナイの船団をピュロス湾内に近づけず、味方の作戦を支援するというものだった。
(勝てるだろうか……)
月影が幾万にも砕けて揺れる海原を見据え、レオニダスは、自問した。
(我々は、勝てるのだろうか)
胸の内に、消えることなくわだかまる不安があった。
父祖の代より、不敗の名をほしいままにしてきたスパルタ軍。
だが、それは陸上戦闘に限ってのことだ。
ポセイドンのしろしめす海は、彼らにとって異種の領域であり、海に取り巻かれた弧島の拠点防衛というのは《獅子隊》の戦士たちにとっても初めての経験だった。
「戦神アレスよ」
呟くように、レオニダスは祈りを捧げた。
「我が血と、我が敵の血を、御身に捧げ奉らん。どうか、我らに御身の力を与え給え。御身を崇める我らを守り、導き、勝利を得させ給え……」
だが、自分の祈りが神の耳に届いたという確信は持てなかった。
プラタイアでの一件以来、レオニダスの胸中では、この戦争に対する否定的な思いが日増しに大きくなっていた。
なぜ、戦うのか?
こんなことをしていて、何になるというのか?
スファクテリア遠征への出立の日、リュクネとの別れを惜しみながら、彼は、もう少しでこう言いそうになったのだ。
「行きたくない」と。
だが、その言葉が彼の口から出ることはなかった。
代わりに、こう言った。
「留守を、頼む」
そう告げた夫に頷き、リュクネはうなずき、彼の盾を差し出した。
盾渡しの儀式は、一家の女主人にのみ務めることが許される神聖な役目だ。
「この盾を携えて……」
さもなくば、この盾に乗って。
定められた続きを、彼女は言わなかった。
重い盾を受け取ったレオニダスの傷だらけの腕に手をかけ、彼女はしばらく黙っていたが、やがて、呟くように言った。
「必ず戻ってくれ、婿殿。何があっても……生きて、帰ってほしい」
そうだ。
戦いに意義を見出すことはできなかったが、それでも、敗北は許されない。
妻との約束を果たさねばならない。
部下たちを導き、守らなくてはならない。
敬愛する王たちの信頼に応えなくてはならない。
アテナイの軍勢を打ち破り、故郷を守らなくてはならない――
レオニダスは、我知らず胸の辺りを掴んだ。
彼は、疲れていた。
肉体の痛みではなく、精神がきしんでいた。
運命の女神たちが投げかける糸が《半神》の身に無数に絡みつき、鎖のように彼を縛っている。
だが、深く疲弊して折れ砕けそうな心を支えるものもまた、その鎖に他ならなかった。
妻への想い。
部下たちへの義務感。
王たちへの忠誠。
故郷への愛情――
(だが……もう、疲れた……)
そのときだ。
不意に、背後に人の気配を覚え、レオニダスは心臓が跳ね上がるのを感じた。
振り向きざま、反射的に抜刀している。
ただ、背後を取られたという衝撃が、戦士の肉体を突き動かす。
そして次の瞬間、レオニダスは、自分が剣を突きつけた相手が己の念弟であると知って凍りついた。
戦士たちの輪を離れる前に、クレイトスが眠っていることを確かめたはずだった。
なぜ、今、ここにいる?
目を覚ましたのだろうか。
それとも、眠ったふりをしていたのだろうか。
「あ……」
クレイトスは、目を見開いて硬直していた。
その身体が細かく震えている。
レオニダスは、はっとした。
クレイトスが震えるのを見たのは初めてだった。
戦闘を目前にしたときも、敵味方の凄惨な死に様を目の当たりにしたときも、この物静かだが芯の強い若者は、恐怖に震えたりはしなかった。
だが、今、《半神》の生々しい殺気を間近に浴びて、クレイトスは明らかに怯えていた。
レオニダスはうろたえ、急いで剣を引いた。
クレイトスが、はっ、と浅く息を吸う。
砕けそうになる膝を懸命に堪えているのが分かった。
「大丈夫か……」
思わずそう言ってから、自分自身を殴りつけたくなった。
自分で剣を向けておきながら「大丈夫か」とは、何事だ?
「も、申し訳、ありません」
これほど驚かれるとは思わなかったのです、と、クレイトスはかすれて消え入りそうな声で詫びた。
謝るべきはこちらのほうで、おまえは何も悪くないのだ、と言ってやりたかったが、その声は出せなかった。
怯えを浮かべた目、その表情が、ぞくりとするほどに艶めかしい。
(駄目だ)
側にいればこうなることが分かっていたから、一人、ここで座っていた。
強いて他のことに考えを向け、昼間の出来事も思い出さぬように努めていた。
歌うクレイトスの艶やかに挑みかかるような表情、そして自分の腕の中で呆然としていた表情。
一瞬触れ合い、感じた肌の熱さ。
(駄目だ!)
手を伸ばし、クレイトスの肉体に触れたいという欲求を、レオニダスは必死に押し殺した。
今、触れてしまえば、抑制が弾け跳ぶと分かっていた。
クレイトスの息遣いを聴き取ることができるほど近くにいながら、何もできない自分が惨めだった。
リュクネの顔を思い出そうとしたが、できなかった。
「眠れないのか」
「レオニダス様こそ、お眠りにならないのですか」
「すぐに行く。先に休んでいろ」
「……僕がいては、お邪魔でしょうか?」
ああ、クレイトス、俺がなぜおまえを遠ざけようとするか分からないのか?
これ以上おまえが側にいては気が狂いそうだ。
それとも……おまえも、同じことを望んでいるのか?
レオニダスは、念弟の青い目を見つめた。
自分に恋歌を挑んだのは、真情からだったのか。
――まさか。
古参兵たちに追い込まれて、とっさに機転を利かせただけのことだろう。
周囲の熱狂が最高潮に達した最後の一幕も、フェイディアスの策によるものだと分かっている。
だが、それでも、夢想せずにはいられなかった。
クレイトスが、自らこの腕に身を任せ、愛を求めるならば――
「……駄目だ」
押し殺した声でそう呻いたとき、クレイトスの表情に亀裂が入ったように見えた。
彼は、哀しげに微笑した。
「わかりました」
レオニダスは、己の念弟が何を言っているのか、一瞬、理解できなかった。
ようやく理解したときには、クレイトスは完全に心を閉じてしまっていた。
「おやすみなさい、レオニダス様」
待て、と呼びかけようとする唇に、言葉が凍りつく。
クレイトスが踵を返し、眠る仲間たちのところへ戻ってゆくのを、レオニダスは見送った。
その後姿は、孤独だった。
自分のように。
心が焼けつくように痛んだ。
同時に冷え切り、空疎でもあった。
これでよかったのだと思い定めようとしたが、できなかった。
今夜、今までとは異なる絆が生まれかけていたことが確かに感じられた。
そして、それを自分の手で無残に打ち壊したのだ。
なぜだ。
胸の最奥が疼いた。
その痛みが耐え難いまでに強まったとき、レオニダスはようやく、自分が涙を流していることに気付いた。
(ああ、そうだ)
潮が満ちるように、過去が胸に迫った。
遠い昔にも、こうやって涙を流したことがあった。
《半神》などという名を奉られる前のこと。
あの日……かけがえのない絆を、永遠に失った。
そうだ。クレイトスを愛することに、なぜ、こんなにも恐怖を感じるのか――
暗い海の底から浮かび上がるように、過ぎ去った日々の光景が甦った。