フクロウの目
その夜、戦勝を祝う宴が開かれた。
宴といっても、アテナイの富豪が主催する饗宴のようにとはいかず、料理は屠殺した家畜の丸焼き、飲み物は略奪した酒蔵から運び出したワインだ。
それでも、戦闘の緊張から解放された戦士たちには充分だった。
戦いを終えて大いに飲み食いし、仲間たちと馬鹿騒ぎをするときほどに、生きていると感じる瞬間はない――
宴の場所として選ばれたのは、プラタイアの城門の外側だった。
昼のあいだに、市内の死体を片付ける作業はだいぶ進んだのだが、それでも臭気がひどく、まともな神経の主ならばとても飲み食いができるような状態ではなかったからだ。
当初は部隊ごとに火を囲んで車座になり、互いの戦果を披露し合い、歌をうたい踊りしていた男たちだったが、宴もたけなわの頃を過ぎると、数名ほどで固まって静かに杯を酌み交わし、語り合う連中も増えてきた。
二人連れで宴の輪を離れる者たちもあったが、そういう場合は月明かりを肴に差し向かいで飲むよりも、もっと暗い場所で互いの肉体を愛撫し合うほうに熱心である。
幸いにもというべきか、プラタイアの周囲はちょっとした潅木の茂みや岩の類には事欠かず、うっかり覗き込んだりすればばつの悪い思いをさせられること必定の物陰がいくつも出来上がっていた。
そんな中、クレイトスはひとり、焚き火のそばに座っていた。
揺らめく炎に片側だけ照らし出されていくぶん憂わしげに見える顔は神話にうたわれる若い神のようで、闇に沈んだほうの目はほとんど黒く見え、また炎を映す側の目は生命を宿した紫水晶のようにも見えた。
「なんと美しい若者だろう……」
「まるでミルラと乳香が匂いたつようではないか」
スパルタ人ばかりではなくテバイの兵たちも、遠くからクレイトスを眺めては、詩の一節を引き合いに出してその美しさを賞賛した。
このような美しさを、ただ鑑賞するばかりではじきに飽き足らなくなるのが人間の性というものだが、そのような目的でクレイトスに近付き声をかける者はいなかった。
クレイトスが誰の念弟であるか、知らぬ者はないのだ。
《半神》の怒りを好んで呼び起こそうという蛮勇の持ち主は、なかなかいないと見える。
「浮かぬ顔だな、美少年?」
暗がりから、そう言って不意に姿を現したのはフェイディアスだった。
傷痕の残る顔に、影の出来具合が何とも恐ろしげで、子どもが夜中にうっかり顔を突き合わそうものならひきつけを起こしかねない。
杯を手にしたフェイディアスの背後には、彼のもうひとつの影のように、パイアキスが立っている。
「いいえ、そんな」
クレイトスは微笑を見せたが、その笑みはたちまち薄れて消えてしまった。
「何か、心を悩ませる事でも?」
パイアキスが訊ねた。
「いいえ」
目を伏せて呟く《半神》の念弟を見下ろし、二人は顔を見合わせた。
ここはそっとしておいてやりましょうか、と目配せをしかかったパイアキスだが、
「おい! 貴様!」
何を思ったか、フェイディアスがいきなりクレイトスの首に腕を巻きつけてぐいぐいと締め上げはじめたので、彼は思わずあんぐりと顎を落とした。
「何を、一人で辛気臭く悩んでいるんだ!? 吐け! さっさと吐いて、楽になれ! 素直に吐かんと言うのなら……身ぐるみ剥いで、ワイン樽に漬け込むぞ!?」
「わ、分かりました! 分かりましたから、どうか、お放し下さい」
必死にもがきながらのクレイトスの訴えに、フェイディアスは彼を解放すると、どっかとその場に腰を下ろし、ふっほっ、と妙な笑い声を立てた。
顔色に出ないので分からなかったのだが、実は、相当に酔いが回っているらしい。
背後でパイアキスがすっかり半眼になっていることにも、気付いていないようだった。
クレイトスはなおもしばらくためらう様子を見せたが、やがて大きく息を吐くと、口を開いた。
「あのとき……レオニダス様は、僕を矢から庇って下さいました。御自分も傷を負っておられたのに」
若者は、昼間の戦いを思い出していた。
レオニダスの力強い腕に捕らえられて諸共に地面に倒れ込んだとき、その苦痛の身じろぎを感じ、呻き声を聴いた。
目標を失い地面に突き立った矢のように、その瞬間の出来事は、若者の心に深く突き刺さった。
「あの方のためならば、命を惜しみはしません! それなのに、僕はいつも、あの方に守られてばかりいる。……少しでも近付きたいと、努力をしてきたつもりでした。でも、あの方は遥か遠い高みにおられて、とても及ばないのです。僕は、いつでも、レオニダス様の重荷に……」
フェイディアスとパイアキスは再び目を見合わせた。
「たいへんに、高度な懊悩ですね」
パイアキスは呟いた。
彼には、この若者が気の毒だった。
戦友同士は互いに支え合う経験を繰り返して絆を深め、一体感を強める。
どちらかが常に守り、あるいは守られるような関係になってはならないのだ。
レオニダスとクレイトスがそうであるとは思わなかったが、クレイトス自身がそう感じている、ということが問題だった。
無理もない、と思う。
レオニダス様は、あまりにも――
フェイディアスも、ふむ、と腕を組んで、
「隊長殿は、神々の恩寵篤き方だからな。それゆえに《半神》などという二つ名を奉られているくらいだ。生まれながらにして、俺たちよりも遥かに遠く、強く輝く星を与えられておいでなのさ」
呟くようにそこまで言うと、
「クレイトス」
彼は不意に改まって若者の名を呼び、頭上に腕をかざすと、満天に広がる星々の一つを指さした。
「あの星が見えるか? あの、天頂近くでいっとう強く、蒼白い輝きを放つ星が」
「ええ……」
「その、わずかに右手で光っている、あの星は?」
「見えます」
夜空を見上げ、戸惑ったような口調で答えた若者に、フェイディアスは言った。
「俺たちの隊長殿は、言ってみれば、あの蒼白い星のようなものだ。その光はあまりにも強く、他の星々とは比べ物にならん。……そしてな、クレイトス。そのすぐ側に寄り添う星は、いっそう暗く見えてしまうものなのだ。たとえ、その星自身が、他の多くの星より秀でた輝きを持っていたとしても」
恐ろしげな傷を持つ顔に、思いもかけぬほど優しい表情が浮かんでいる。
「いいか、クレイトス。おまえを隊長殿の念弟として推薦したのは、他でもない、この俺だ。フクロウの目は、決して星を見誤りはしない。俺の人選を信じろ」
フェイディアスの力強いことばに打たれたように、クレイトスは、しばし無言のままで彼を見返した。
その頬は、次第に光り出すようだった。
「はい」
やがて、若者ははっきりと頷いた。
「フェイディアス様からのご信頼を頂くとは、この上ない名誉と思います。この上は、余計なことは考えず、持てる限りの力を尽くして、あの方をお支えいたします!」
「ああ、それでいい。若い奴は、ごちゃごちゃ考えるよりも、とにかく全力で突っ走ればいいんだ。……ほら、隊長殿のところへ行ってこい! どうせ、あれだ、一人きりで何やら難しいことを考えておられるのだろう。おまえが行って、お慰めしてこい」
酒神の加護を受けた者に特有の強引さで、フェイディアスはクレイトスの肩をどんと押しやった。
それから、ぐっと身を寄せ、囁く。
「念弟ならば……な? 分かっているだろう、そのへんは」
「えっ」
「さあ、さっさと行ってこい!」
否も応もなく、いささか乱暴に突き飛ばされて、クレイトスは暗闇に消えていった。
「フェイディアス」
パイアキスは、笑みを湛えた目で己の念者を見つめた。
「たまにはいいことを言いますね、あなたも」
だが、当のフェイディアスは、クレイトスが去っていった先をぼんやりと見つめるばかりで、はかばかしい反応がない。
「……ん?」
ややあって彼は、ふと気づいたように振り向いてきた。
「何だ、パイアキス? 俺が、何を言ったって?」
「まさか」
今、自分が口にしたことを、もう忘れたというのだろうか?
酔っているとは思ったが、まさか、それほどとは……
呆れるのを通り越して不安になったパイアキスだが、フェイディアスがにやっと笑ったので、かつがれたと一瞬で悟った。
「フェイディアス!」
「はは、そう怒るな。俺は、おまえの怒った顔も好きだがな」
拒む間もなく腕を掴まれ、引き寄せられる。
首筋に唇を押し付けられ、パイアキスは反射的に身を引こうとした。
「ここではっ……皆に、見物されてしまいますよ」
間近に人はいないが、傍らの焚き火の炎はまだ赤々と燃えていた。
自分たちの姿は、遠目には、影絵のように浮かび上がって見えるだろう。
「見せつけてやればいいさ」
フェイディアスは熱心な愛撫の手を止めることもせず、くっくっと笑った。
「それとも、自信がないか?」
パイアキスは憤然と反論しかかり、だが、不意に表情を変えて不敵な笑みを浮かべた。
手を伸ばし、指先を愛しい男の髪に挿し入れる。
「あなたこそ、恥をかかないようにしてくださいね」