命と名誉と
クレイトスとフェイディアスは、ほどなくして本隊に合流した。
「いやはや、あの野郎の逃げっぷりの情けなかったことといったら!」
フェイディアスが、大げさな身振りを加えながら報告した。
レオニダスを狙った弓兵は、気付かれたと知って慌てて逃げようとし、裏の窓から飛び降りて足を挫き、もがいていたところをクレイトスに追いつかれたのである。
相手は命乞いをしたが、クレイトスは許さなかった。
ただの一刀で、首を刎ね飛ばした。
フェイディアスが到着したのは、ちょうどその瞬間だった。
つまりフェイディアスは狙撃兵が逃げたところなどまったく見ていないのだが、まるで自分が最初からその場にいたかのような語りぶりである。
パイアキスが冷静にその点を指摘し、おっ、と言葉に詰まったフェイディアスの表情を見て、仲間たちは笑い転げた。
このとき、市内に残っていたプラタイアの市民たちは、もはやそのほとんどが市内に突入したスパルタとテバイの戦士たちによって殺されていた。
今、《獅子隊》の男たちが進んでゆく道のりも、石畳の模様が見えぬほどの血と、臓腑と、無数の死体によって舗装されている。
その道を、屈託のない笑い声を上げて進む男たちの姿は、見る者に猟奇的な恐怖を感じさせたかもしれない。
だが、彼らは狂っているのではなかった。
ただ、この凄まじい光景に慣れ切っているだけのことだった。
そして、戦闘で張り詰めきった神経を緩めるためには、馬鹿話をして笑うくらいしか方法がなかったのである。
「クレイトス」
プラタイアの中心広場を目指して歩きながら、レオニダスは、仲間たちの会話に加わらずにいる傍らの若者にことばをかけた。
硬い表情で歩いていたクレイトスは、はっと顔を上げた。
その白い肌に、真新しい返り血が点々と散っていた。
「気分のいいものでは、なかっただろう。命乞いをする相手を殺すのは」
「いいえ」
クレイトスの声は、やや押し殺したような調子ながら、断固としていた。
「あの男は、あなたを射殺そうとしたのです。そのような輩に対する同情など、持ち合わせてはいません」
「おまえも、危ないところだったな」
レオニダスのことばに、クレイトスはうつむいた。
ややあって、力ない声で言った。
「いつまで経っても、僕は、レオニダス様に守られてばかりいます。
あなたの念弟として恥じぬ働きをと、申し上げたのに……」
レオニダスは、自分のうかつな発言に唇を噛んだ。
まただ。
力づけようとして、かえって相手に心痛を与えてしまう……
いつまで経っても、自分の舌は呪われた代物のままだ。
「隊長、あれは」
レオニダスが気の利いた慰めのことばを探そうとして果たせずにいるうちに、パイアキスが声をあげた。
彼らが目指す味方との合流地点、城市の中心に建つ神殿の方向から、騒がしい人声が聞こえてくるのだ。
戦闘の物音とは違っている。
そう、それは、まるで――
「喧嘩か?」
フェイディアスが面白そうに呟いた。
だが、一同がその場に到着して目にした光景は、喧嘩などではなかった。
「どうか、お願いです! 中にいる市民たちの命だけは!」
「ええい、黙れ! さっさと引き渡さんと、貴様の首から刎ね飛ばすぞ! 今すぐに、中の連中を出さんか!」
神殿の入り口の階段の下で、なりふり構わずに取りすがる神官たちを振り払い、怒鳴りつけているのはディオクレスだった。
彼もいまや武勇で鳴らした隊長であり、今回の戦闘に一部隊を率いて加わっていたのだ。
「神殿に、市民の生き残りが立てこもっているんですね」
パイアキスが呟いた。
千の骸をもって街路を舗装する、そんな凄惨な光景を作り出した戦士たちでさえも、ためらいなく神殿に突入することはできなかったのだ。
彼らがもっとも恐れるものは、地上の敵ではなく、神々の怒りだった。
神の宿りである神殿を血で穢すような不敬を働けば、どのような報いを受けることになるかわからない。
「お願いです、中にいるのは怪我人や年寄り、女子どもばかりです! どうか……」
「ふざけるな! 貴様らが出さぬというのなら、俺たちがやる! 神殿の周りで火を焚き、いぶり出してくれる!」
「――待ってくれ!」
神官の胸倉をつかみ、揺さぶっていたディオクレスに、階段の上から声が飛んだ。
神殿の入り口に姿を現していたのは、数人の男たちだ。
壮年にさしかかった者から、まだ若者と言ってよい歳の者もいる。
その全員が、杖を持つか、身体に包帯を巻きつけていた。
おそらくは、以前の戦いで負傷し、身体が利かなくなった兵士たちだろう。
「俺たちはいいんだ。覚悟はできている……」
「だが、頼む! 女と子ども、年寄りの命は助けてくれ!」
「家族を助けると約束してくれるなら、俺たちは、大人しくそっちへ出ていこう!」
「ほう?」
神殿を取り囲んだ仲間たちから不満の唸りが上がるのを手で制し、ディオクレスは眉を上げた。
「自分たちの身柄を代価として、取引を申し出たいというわけか?」
「そうだ……」
「公正な取引を?」
ディオクレスは神官たちから手を離し、男たちに向かってゆっくりと階段を上っていった。
「そ、そうだ」
「そうか」
階段を上り切ったディオクレスの身体が、ふっと沈みこむように動いた。
一同が瞬きひとつをする間に、男たちの一人が強烈な足払いをかけられて転倒し、苦鳴をあげた。
次の瞬間には、その喉元に抜き身の剣が当てられている。
膝をついた男の髪を鷲づかみにして喉をさらけ出させたディオクレスは、にっと嗜虐的な笑みを浮かべた。
「ならば、公正な取引とはどういうものか教えてやろう。女どもの命と引き替えに、プラタイアの男は全員、処刑する! 赤ん坊から死にかけた老いぼれまで、全員だ!」
「そんな……!」
男たちが上げかけた抗議の声は、集まった兵士たちの怒涛のような賛同の声に呑み込まれてしまった。
「父さん!」
神殿の入り口から飛び出してきた少年の姿に、喉元に剣を当てられた男の顔が凄まじく引きつった。
「来るな、リュシッポス! 馬鹿者、来るんじゃない!」
「いい子だな」
父親を守るように抱きついた少年を見下ろすディオクレスの笑みは、ほとんど優しげとさえ言えるものになっていた。
「我々の手間を省いてくれるらしい」
「やめろ!」
父親の悲鳴を意にも介さず、ディオクレスは剣を振り上げたが、その刃は少年の首に食い込む前にひるがえり、空を薙ぎ払った。
虚空を切ったとは思えぬ、硬質の音が響いた。
ディオクレスがとっさに打ち払ったもの――それは、彼を目がけて投げつけられた、一振りの剣だった。
その剣は、騒がしい音を立てて石の階段を滑り落ち、そして止まった。
それを投げ放った者の、足元で。
「おやおや、《半神》どののお出ましか?」
ディオクレスは平静を装って言ったが、その実、最前の剣を受け損ねていたらと思うと、冷や汗を止めることができなかった。
味方に向かって剣をぶん投げるとは、この男、いったいどういう了見か。
できることなら胸倉をつかんで「貴様、気でも狂ったのか!?」と問い質してやりたいところではあったが、この場であまり騒ぎ立てるのも、動揺をさらけ出すようでためらわれる。
一方、当のレオニダスは剣を拾おうともせず、あまりのことに静まり返った一同を尻目に、無言のまま階段を上っていった。
その表情は、平時に変わらず静謐で、ディオクレスを見つめ、わずかにも揺るがなかった。
「なぜだ、ディオクレス」
やがて、彼は、ぼそりと言った。
ディオクレスは一瞬、何を言われているのか判らなかった。
「なぜだ? 何のために……」
「何のために!?」
レオニダスの一言を繰り返して、それまで凍りついたようになっていたディオクレスの舌は呪縛を解かれた。
「何のために、か!? 貴様、急に気でも狂ったのか!? こいつらは敵だ! 俺たちの最後通告を蹴った! 皆殺しにされて当然だ。それが、こいつらが選んだ道だぞ!」
「戦いは、もう終わっている」
レオニダスは静かに言った。
「これ以上、血を流す必要はあるまい。非戦闘員を殺すのは、名誉ある行いとは言えない」
「名誉などは、冥府の犬にでも喰わせてしまえ!」
ディオクレスは叫んだ。
レオニダスは、反論しようとして、その声が出なかった。
名誉の感覚――それこそは、スパルタ人にとって、最も重んじるべきものではなかったのか。
周囲から、ディオクレスに同意する叫びがいくつも上がった。
それらの声はたちまちのうちに一体となり、繰り返し響きわたった。
殺せ! 殺せ! 殺せ!
レオニダスは、自分の足元の地面が音もなく崩れてゆくような恐怖を感じた。
その感情は、命が危険に晒されたときに人間の誰しもが感じる、あの本能的な恐怖とはまったく異質のものだった。
それは……一個人ではなく、民族が進んでゆく先を思っての恐怖だった。
気高きスパルタ人の魂が堕落し、その誇りが失われて、ただ衝動と欲望の赴くままに殺戮や略奪を繰り返す存在となり果ててしまう……
そのような未来に対する、恐れだった。
この戦争が始まって以来、聞こえ続けていたあの声。
なぜ? 何のために?
敵の血のにおいと巨大な勝利感は、人間を簡単に酩酊させ、そのような疑問を簡単に押し流してしまう。
越えてはならぬ一線を簡単に踏み越えさせ、ただ殺し、奪い、支配欲を満たすためだけに人を戦わせるようになる。
レオニダスの目の前で、ディオクレスは泣いている少年の襟首をつかんで父親から引き剥がし、人形のように振り回した。
「そうだ! こいつらは、今はガキでも、いつか大人の男になり、俺たちに刃向かう。そうなってから後悔するのは、愚か者のすることだ! 今、始末をつけておかなければ、後々まで禍根を残すことになるのだぞ!」
「……そうすればいい」
レオニダスは、呟いた。
陶酔しきったディオクレスの叫びの直後に、ぼそりと口にされたその言葉は、意外な大きさで人々の耳に届き、彼らを心底驚かせた。
《獅子隊》の面々もまた例外ではなく、揃って目を見開き、指揮官の顔を見つめていた。
寡黙な《半神》がこのような激しい議論をするというだけで、彼らには信じられぬ思いだったのだ。
そして、今のことばの意味とは?
周囲は、水を打ったように静まり返った。
「刃向かいたければ、そうすればいい! 彼らが、その手に槍を握り、その腕に盾を持つことができるようになったとき、我らに立ち向かおうとするのならば、それもいい。そのときには、喜んで相手になろうではないか!」
レオニダスはそう言いながら、我知らず一歩、また一歩と進み出ていた。
その流麗な弁舌は、普段の彼とは別人のようで、まるで、彼の喉を通して別の何かが語っているかのようでもあった。
レオニダスのことばは、乾いた地面に水がしみ透るように、人々の心にしみ込んでいった。
ディオクレスは、目を剥いている。
「スパルタの戦士は、何者の挑戦に対しても、恐れはしない。――そうだ、何者も恐れず、戦うときは、誇り高き戦士としての戦いしかせぬ、それがスパルタの名誉ではなかったか! こんな、年端もいかぬ少年たちを恐れ、その首を刎ねずにいられないのか? もしそうだとすれば、全ギリシアの民から、スパルタ人の勇気も地に落ちたとの謗りを受けても甘受せねばなるまい!」
「何だと!」
ディオクレスは唸るように言ったが、
「これ以上は、戦いではない、虐殺だ! 無抵抗の者を剣にかけて、心に咎めを感じないのか? なぜだ!」
間髪を入れずに叩きつけられたレオニダスの反駁に、彼のことばは封じられてしまった。
その場にいた、ディオクレスの賛同者たちも同じだった。
レオニダスの問いに、答えられる者はいなかったのだ。
「何の、ために……」
急速に声の調子を落として、最後はほとんど呟くようにレオニダスは言った。
彼のことばが止むと同時に、神殿前の広場は、まったき沈黙に支配された。
誰一人として、身動きをすることもできないほどの重みをともなった沈黙だった。
「よかろう!」
不意に朗々たる声が響き、凍りついたような沈黙を打ち破った。
「ブラシダス将軍……」
それまで動くことなく、二人の男たちの議論を黙って聴いていた将軍は、護衛の兵士たちに守られながら、ゆっくりと階段を上ってきた。
レオニダスとディオクレスが退き、頭を下げる。
「レオニダスよ」
二人を等分に見渡した後、将軍は言った。
「おまえの意見に、一理あると認めよう。神殿に入っておる市民たちは、男女を問わず、殺しはせぬ。財産を没収した上、市外へ追放処分とする!」
「本当に!?」
言ったのは、レオニダスでもディオクレスでもなく、あの少年だった。
「みんなに手出しをしないって、約束したな? 本当だな!?」
「スパルタ人は、一度口にしたことばを違えることはせぬ」
「や、やった……! 父さん!」
少年は、父親の服を強く掴んだ。
少年の父親は、複雑な表情をしている。
これを、寛大な処置ととることができるか。
街を破壊し、財貨を奪い、隣人たちを殺した敵に感謝ができるだろうか。
ディオクレスは、ぎりぎりと歯を食いしばった。
馬鹿な。手負いの獣を野に放つようなものではないか。
こんなことをして何になる?
敵に半端な情けをかけたところで、こいつらは、感謝などしはしないぞ!
「取るに足らない者たちです、ディオクレス様」
褐色の巻き毛をした青年が、彼に近付いてそっと言った。
名をヘファイスティオンという、ディオクレスの念弟である。
「こんな下らない連中、わざわざディオクレス様が手にかけられるまでも……」
「黙れ!」
怒鳴りつけられて、ヘファイスティオンはびくりと身をすくませた。
ディオクレスは怒りに燃える瞳でレオニダスを睨みつけた。
まったく、手ひどく恥をかかせてくれたものだな。
見ていろ、貴様の彫像のような面に、いつかたっぷりと泥を塗ってやる!
やがて、神殿の扉が開き、神官たちを先頭に、不安げな顔を見合わせながら市民たちが姿を現した。
女、子ども、老人ばかりだ。
市民たちは、武器を帯びた敵に囲まれて怯えを隠せない様子だったが、街の様子を一目見るや、一様に息を呑んだ。
辻々に転がる死体、死体、死体……
その中のどれほどが、ここにいる市民たちの顔見知り、あるいは親族であったことか。
女たちは悲鳴を上げ、それはすぐに嘆きの呻きとすすり泣きに変わっていった。
幼い子どもたちも、母親の悲嘆に引きずられるように泣き始めた。
「うるさい! とっとと立ち去れ!」
ディオクレスが喚いた。
「貴様らを生かしておいてやるだけでも有り難いと思うんだな! さっさと俺たちの前から消えろ!」
プラタイアの市民たちのうち、最後まで残ったのは、最初に交渉役として出てきた男たちだった。
彼らはレオニダスを見つめ、その場に立ち止まっている。
「行くがいい」
レオニダスは、例によって愛想の欠片もない声と表情で告げた。
「後ろから殺すような真似はしない」
「……あんたたちの故郷には、こんな言葉があるそうだな」
息子を足にしがみつかせたまま、先程の男が口を開いた。
「『この盾を携えて、さもなくば、この盾に乗って』――」
《獅子隊》の男たちは、目を見合わせた。
それは、スパルタの男が戦に赴くとき、一家の女主人から盾を渡され、そして告げられる言葉。
『勝利をおさめ、この盾を携えて帰ってきてください。
それができないときは、名誉の戦死を遂げ、亡骸となって、この盾に乗って戻ってください』――
勝利か、死か。
戦いに赴くスパルタの戦士には、ふたつにひとつの道しかない。
敗北し、おめおめ生きて戻ることは、スパルタの男たちにとって死よりも遥かに厭わしいことであった。
そのような者は、獣にも劣る恥晒しとして身分を落とされ、一族もろとも、他の市民たちから蔑まれることになる。
『この盾を携えて、さもなくば、この盾に乗って』
この上なく非情であり、それゆえにこそ、スパルタの男たちを最強の戦士とせしめた掟だ。
プラタイアの男たちの目は、街路に転がった幾つもの死体に向けられていた。
「俺たちだけが……生き残って……」
傷付き、戦いに参加できなかった。
戦いから逃げた臆病者と呼ばれるかもしれなかった。
そうではないのに。
――そうではない? 本当に?
身体は利かずとも、命を懸けて戦線に身を投じることはできたかもしれないではないか。
同じプラタイアの男でありながら、自分たちだけが、おめおめと生き延びてしまった……
「なぜ、負い目を感じる?」
レオニダスは静かに言った。
「諸君らは、確かに、このたびの戦闘で戦うことはしなかった。だが、自分たちの命を懸けて、女子どもを守ろうとした。そして、それを果たしたのだ。……何ひとつとして、恥じることはない。自らの力を尽くした上でならば……生き延びることは、決して、恥などではない」
《獅子隊》の戦士たちもまた、彼らの指揮官の言葉を聞いていた。
彼らの身に染み付いたスパルタの教えとは反するものであったが、それでもなお、レオニダスの言葉は、彼らの心に静かに留まることとなった。
プラタイアの男たちは黙って頭を下げ、あるいは足をひきずり、杖をつき、互いの身体を支え合いながら去っていった。
最後に、息子を連れたあの男が振り返って言った。
「俺たちは、スパルタが俺たちに対してしたことを、決して忘れない」
《獅子隊》の戦士たちはかすかにざわめいた。
レオニダスは表情を動かさない。
「そして」
そんなレオニダスを見つめて、男は言った。
「スパルタに、あんたという男がいたことも、決して、忘れはしないだろう」