城門広場の戦い
破城槌が十数度目にぶち当たったとき、プラタイアの城門はついに断末魔の軋みを上げて砕け散った。
周囲には、テバイ兵たちの死体が累々と横たわっている。
プラタイアの兵士たちが城壁の上から次々と投げ落とす石や、射込まれる矢の餌食となったのだ。
そんな激しい抵抗を見せたプラタイア兵たちも、テバイの弓兵との激しい射ち合いで、今やその数を半数以下に減らしていた。
「《獅子隊》の戦士たちよ!」
レオニダスの号令がとどろいた。
「突入だ!」
顔の下半分から膝上までを覆う堅固な盾を構え、《獅子隊》の男たちは前進をはじめた。
はじめは、まるで一人の巨人が歩いているかのように歩調の揃った並足。
そして、
「走れ!」
敵の射程距離に入った瞬間、彼らは爆発的に加速した。
重く左腕にのしかかる盾を頭上に掲げながら、矢の降り注ぐ中を、最短の時間で駆け抜ける。
最も年嵩の者でも三十になるかならずという若さ、そして厳しい訓練に鍛え上げられた強靭な肉体があってこそ可能な戦法だ。
テバイ兵たちが破城槌を横手に投げ出し、自分たちも横っとびに跳び退いて突破口を譲る。
《獅子隊》は怒涛のごとく城門内に雪崩れ込み、城門の内側の広場で待ち構えていたプラタイアの歩兵たちと激突した。
迎え撃つプラタイアの歩兵たちも、長槍を構えて槍ぶすまを作ってはいたが、重い盾を押し立て、巨大な金属の津波と化してぶち当たる《獅子隊》の破壊力の前にはなす術もなかった。
最初の一撃で彼らの陣形は突き破られ、敵味方の入り混じる乱戦になった。
フェイディアスは雄叫びをあげて剣をぶん回し、最前の言葉通りに、斬って斬って斬りまくった。
パイアキスが、そのすぐ側で槍を繰り出し、一度に二人を串刺しにしている。
スパルタの戦士たちの深紅のマントは、たちまち敵の返り血を浴びて、より深い色に染め上げられていった。
レオニダスは、奇妙に静かな世界の中にいた。
身体は絶え間なく動き、突き出された槍の穂先から身をかわし、踏み込み、剣を振り下ろして敵の兜を叩き割っている。
間髪を入れず、左手から襲いかかった敵兵を盾で殴りつけ、倒れた相手の腹に剣を突き立てて止めを刺した。
自身の戦いを繰り広げながらも、彼は、周囲で起こっている出来事を正確に把握していた。
神々の恩寵であると、彼自身思っている才能だった。
戦っているときのほうが、普段よりもはっきりと、周囲の様子が見える。
クレイトスは、レオニダスの傍らで戦っていた。
《半神》直伝の剣技が十分に冴える戦いぶりは、その容姿と同様、激しい動きの中にもどこか流麗さを感じさせた。
力業で叩き切るよりも、相手の守りのわずかな隙を見抜き、最小限の動きで仕留めるのだ。
美しい若者が返り血と敵の臓腑に身を汚して戦う姿は、レオニダスに言い知れぬ思いを抱かせた。
だが、そのような気分は即座に意識下に沈み、冷静な指揮官としての目が周囲を見渡した。
視界のあらゆる場所で、戦友たちが互いの死角を補い合いながら戦っている。
敵はたちまちのうちにその数を減らしていた。
《獅子隊》の攻撃を食い止められるほどの力は、プラタイアの兵たちにはもはや残っていなかったのだ。
勝利の天秤は、速やかにこちらに傾こうとしていた。
そのときだ。
ふと、奇妙な寒気をレオニダスは感じた。
(いけない!)
ここにいてはいけない。
レオニダスは反射的に一歩、右に動いた。
びゅっ、と風が鳴る音が聞こえた。
左腕に衝撃が走る。
痛みとは感じられず、ただ何かがぶつかったような感覚だった。
腕から力が抜け、盾を支えられなくなった。
そちらに目を向け、レオニダスは、自分の左の二の腕を、一本の矢が後ろから貫通しているのを見た。
「ああ」
当たるのか、と、余人が聞けば気でもふれたかと思うような呟きを漏らす。
これまで彼は、剣で切られ槍で突かれたことはあっても、矢に当たったことはなく、自分でも、自分に矢が当たることはないと思っていた。
何の根拠もない確信だったが、戦場でどこからともなく飛んでくる矢をいちいち心配していては、とても戦うことなどできはしない。
側で戦っていたクレイトスが、目を見開いた。
「レオニダス様!」
「ああ」
骨と大きな血管は無事だと、直感で分かった。
だが、今はそれ以上傷に構っている場合ではなかった。
目の前から、巨漢の兵士が斧を振りかざして突進してきている。
「クレイトス!」
ただ一言、鋭く注意を促しておいて、レオニダスは自分の盾を放り出した。
矢が突き立ったままの左手を身体に引き付け、右手で剣を構える。
瞬きもせず見つめると、相手の動きが読めた。
レオニダスはその感覚を、神々の恩寵を信じ、ぐんと姿勢を低くしながら剣を担ぐような格好で相手の懐に飛び込んだ。
真正面から斧が振り下ろされてくる。
その瞬間よりも一瞬早く、レオニダスは敵兵の真横を駆け抜けていた。
肉を切り裂く手応え。
大男は、鎧に守られていなかった腋から血を噴き出し、絞り出すような叫び声を上げて倒れていった。
レオニダスは、ゆっくりと振り返り、顔を上げた。
周囲の戦いは、いまやほとんど終わっていた。
クレイトスが慌ててレオニダスの盾を拾い上げ、心配に気も狂わんばかりの表情でこちらを見ている。
そして――
「伏せろ!」
レオニダスは叫び、獣のようにクレイトスに飛びかかった。
若者の身体を捕らえ、地面に引き倒すと同時に、彼らの頭上を第二の矢が飛び過ぎて地面に突き刺さった。
左腕に突き立った矢が動き、思いがけぬ痛みにレオニダスは呻き声をあげた。
「レオニダス様!?」
「あの屋敷だ!」
レオニダスは立ち上がり、駆けつけてきたフェイディアスたちを押しのけるようにして、今までクレイトスが背にしていた建物の二階の窓を指差し、怒鳴った。
「弓兵が潜んでいるぞ。皆、気をつけろ!」
戦士たちがざわめき、警戒の姿勢をとった。
この狙撃という戦法は、スパルタの戦士たちには臆病者の技と蔑視されていた。
小細工なしの、真正面からのぶつかり合いこそ戦士の戦い方だというのがスパルタの男たちの信念であり、隠れ場所から飛び道具で狙い撃つなどとは卑怯千万というわけだ。
だが、この種の卑怯な戦法が有効であることは間違いなかった。
上級の指揮官を倒せば兵は混乱し、あるいは、戦況を一気に引っくり返すことも可能となるかもしれない。
――危なかった。
あのとき、直感を信じて一歩、避けていなければ、この矢は、自分の心臓に突き立っていたはずだ。
鼓動が止まり、周囲に転がる何十もの骸と同じように、自分もまた血まみれの石畳に横たわることになっただろう。
そしてあのとき、偶然に射手の姿が目に入らなければ、二本目の矢は、クレイトスを射抜いていた。
彼が自分の腕の中にくずおれ、その魂が永遠に地上から飛び去るのを見送ることになっていたかもしれなかった……
恐怖ではなく、運命に対する畏怖を感じながら、レオニダスは屋敷の窓を見上げた。
位置を悟られたと気づいたらしく、先ほどの一瞬に窓の中に見えた人影は、今は、影もかたちもなかった。
「フェイディアス、パイアキス、行って、始末しろ」
「僕が行きます」
クレイトスが言った。
フェイディアスが一瞬、気を呑まれるほどに静かで、きつい声だった。
その指先がレオニダスの左腕に一瞬触れ、離れた。
「僕に、行かせてください」
「……いいだろう。気をつけて行け」
「はい」
屋敷に向かって駆け出すクレイトスを、フェイディアスは驚いたように見送った。
「急にどうしたんだ? あの美少年が、あんな怖い顔をするとは」
彼はいつまでもクレイトスを「美少年」というあだ名で呼んでいる。
レオニダスの腕の傷を調べていたパイアキスが、呆れたような顔をした。
「分からないんですか?」
「分かるとは、何がだ」
何が何やら、と言いたげなフェイディアスに、より辛辣な一言をお返ししようと口を開きかけたパイアキスだが、レオニダスの表情をうかがって、黙って首を振るに留まった。
レオニダスは、フェイディアスとそっくりな表情を浮かべていた。
「毒矢ではなさそうですね。折って、引き抜きます。手を開いて筋肉を緩めてください」
「ああ……」
応急治療に専念することにしたパイアキスは、レオニダスの腕を貫通している矢の具合を慎重に調べると、矢羽根の側を折り、一気に引き抜いた。
レオニダスは、声を上げもしなかった。
彼は自分が傷付いていることも忘れたような顔で、弓兵が潜んでいた屋敷のほうを見つめていた。
おう、というかたちに口を開けて、フェイディアスが言った。
「俺が、ちょっと行って見てきましょうか」
「ああ……頼む」
フェイディアスが頷き、駆け出す。
腕にきつく布を巻かれたレオニダスの周囲に、全身を敵の血に染めた《獅子隊》の男たちが集まってきた。
城門広場の戦闘は、完全に終わろうとしていた。