ある水飲み場の光景
「たとえば、だ」
したり顔で、ディオクレスは切り出した。
日に焼け、刃物でそぎ落としたように精悍な顔を水のしずくが流れ落ちる。
午後の激しい戦技訓練で汗と埃にまみれた男たちは、水飲み場に集まり、渇いた喉を潤し、顔や肩に水を振りかけていた。
「ひとりのスパルタ人がものを言ったとして、野蛮人どもに、それを理解することができると思うか?」
「馬鹿な」
「ありえぬことだ!」
まわりに集まっていた戦士たちは口々に否定した。
「あんな××××野郎どもに、俺たちの翼ある言葉が理解できてたまるものか」
「その通りだ! 我らの言葉は、上古の時代にオリュンポスの神々より授けられしもの。××を××××するような蛮族どもには分かるはずもない!」
かの高き山におわしますオリュンポスの神々は「あんな××××野郎」とか「××を××××するような」などというえげつない言い回しをも、人に授けたもうたのであろうか。
まあ、神話にうたわれる神々の乱行の数々をかんがみれば、それも大いにありそうなことではある。
「ところが、できるのだよ」
「なに?」
「あのレオニダスが相手ならばな」
ふふん、と鼻息を吹いて、ディオクレスは言った。
「『ああ』と『はあ』と『いや』だけ分かればよいのだから」
ここが弁舌滑らかなる都市国家アテナイであったならば、即座に爆笑の渦が巻き起こり、すかさず誰かがさらにぴりりと皮肉の利いた言い回しを提案し、それに対してまた他の誰かが当意即妙の相槌を打ち……といった具合に、掛け合いの輪は果てしなく広がっていっただろう。
だが、ここはスパルタだ。
一同は一拍のあいだ、きょとんとし、それから、ふむと考え込み、さらにしばらく経ってから、揃って「ぐわははははは」と頭の痛くなるような笑い声をあげた。
ディオクレスはわはははは、と調子を合わせて笑いながら、額に青筋を立てずにはいられなかった。
(貴様ら、いくら我らが武勇を重んじる民族だからといって、頭蓋骨のなかまで筋肉で埋め尽くしとるんじゃない! そんなことだから、あの鼻持ちならぬアテナイ人どもに「腕力馬鹿の脳みそなし」と嘲られるのだ。そこんとこ、分かっとるのかっ!?)
ディオクレスの機嫌は、今朝から最悪だった。
いや、そうではない。
最悪だと思いながら、どんどん悪化しているのだった。
その原因は、ユーモアの感覚が欠落しぎみな同胞たちだけではなかった。
そもそもの発端は、他でもない、あのレオニダスだ。
戦闘の指揮中でもなければ『ああ』と『はあ』と『いや』くらいしか喋らない男。
彼は強かった。
戦場にて槍をとらせれば神代の英雄のごとく、訓練場では、レスリング、槍投げなどいくつもの部門で、ひしめく強豪たちの頂点に輝く。
そして、彼は美しかった。
丈高く、顔立ちは厳しく整い、深紅の衣をまとい盾を携えた勇壮な立ち姿は、あたかも若き神と見まがうべき――
そう、レオニダスは、スパルタ人の理想を一身に体現したような人物だった。
「きいいいっ!」
ディオクレスは歯噛みをして呻いた。
同胞たちの目がなければ、引っくり返って足をばたばたさせていたところだったろう。
ディオクレスとて優れた戦士である。
彼の不幸は、レオニダスより優れてはおらず、また、他意なくレオニダスを尊敬できるほどには力が劣っていなかったことだ。
彼は、いつでも二番目だった。
レオニダスが選ばれるときには彼は選ばれず、レオニダスに与えられる栄誉は、彼には与えられなかった。
まことに運命の女神は残酷なもの。
今朝、その剣はふたたび振り下ろされ、レオニダスとディオクレスとのあいだに、越えがたい決定的な差をつけた。
王の直属部隊《獅子隊》創設。
レオニダスが、その隊長に任命されたのだ。