美少女をくわえた食パンと曲がり角でぶつかった
「寝すぎた」
俺、多賀谷健太、高校二年生。
今日から俺は転入生として新しい高校生活を始めるのだが、なんと寝坊してしまった。
落ち着け、俺。平静にならないと出かける支度だってまともに出来やしない。
ここはひとまずラップでクールダウンだ。
「転校早々、遅刻はヤバそう。朝の事件でオレ危険」
「起きろ息子よ、さもなきゃ遅刻、クラスでハブられ辛い生活」
「母さん登場オレ動揺。朝食タイム? No.eat.」
「朝食台無し超ショック、Yeah」
「すまない母さんオレ謝罪」
仕方がないので俺は、持ち運ぶ食事の代名詞カロリーメイトを片手に家を出た。
そう、忙しさに追われる現代人には欠かせぬ栄養補助食品、あのカロリーメイトだ。
かつて、王貞治がCMに出演したその画期的商品は、1983年の発売を始まりとする。
今現在、ブロック、ゼリー、缶、この三つのタイプを一般的な消費者に向けているが、最初に世へ出したのはブロックタイプであった。
携帯に便利な固形タイプのそれは、イギリスのスコットランド地方の菓子ショートブレッドをヒントにしてその形状に決まったのだという。
ひと箱4本入り。
一日に必要な量の半分のビタミン11種類と、6種類のミネラルがバランスよく配合され、高校生から社会人まで気軽に食べられる。朝食としてだけではなく、間食としても素晴らしい。
プレーン、チーズ、フルーツ、チョコレート、メープルの5種類の味を用意し、飽きさせないのも魅力だ。
ターゲットは若者に限定することなく、子どもや高齢者にも受け入れやすいゼリータイプを売り出すことで、幅広い客層を得た。
またゼリータイプの長所はそれだけでなく、分岐鎖アミノ酸が豊富なホエイタンパクを使用しているため、スポーツ時の栄養補給にも適している。
味も、すりおろしたりんごをイメージしており、日本人の舌に馴染みやすく、開発者のこだわりを感じる。
更に飲みやすくしたのが缶タイプである。
こちらはゼリータイプと違い、カフェオレ、コーヒー、ココア、コーンスープの四つの味に分かれ、味わいやすい流動食として売られている。
そして、驚く事なかれ、魅力はそれだけに留まらない。
カロリーメイトと名がつくだけあって、どのタイプも、1本100、200、200、とキリの良い数字のカロリーで、カロリー計算も簡単にできる、まさに現代人に優しい食品なのだ。
また、企業や自治体向けの商品ロングライフタイプもあるため、団体には是非そちらの魅力を一度味わってもらいたい。
そもそもカロリーメイトの魅力というのは……──。
「きゃあっ」
カロリーメイトについて思考を巡らせていると、衝撃に見舞われ、俺は思わず大きな声を上げた。
曲がり角を曲がったのだが、その際に誰かとぶつかってしまったらしい
「あいたたた……」
今度は俺の声ではない。可愛らしいその声は間違いなく、女の子のものだった。
顔を上げると、とんでもないものが視界に飛び込んできた。
「Yeah」
俺の口からは、自然と感嘆の声が漏れていた。
──目の前には、セーラー服姿の可愛い女の子と、巨大な食パンの姿があった。驚くべきことに、女の子は、俺よりの背を遥かに越える巨大な食パンの中にいた。
捕食されている真っ最中なのだ。
俺は、瞬時に理解した。
「私のことは構わず逃げっ、ぎゃあああああああああ」
最後まで言うことなく、美少女は苦痛に顔を歪ませながら、その可憐な容貌とは裏腹に恐ろしい絶叫を俺に聞かせた。
「ごめん、俺じゃ助けられないや。頑張って」
朝からパニック、オレ、エスケープ。
できる限り申し訳なさそうにしてから、走って学校へ向かった。
学歴、職業、収入……多くの面で争うこの世は弱肉強食の理を軸に回っている。
先程見たあれもまた、弱肉強食の結果、その一つに過ぎない。可哀想だが、世の中はそんな風に出来上がっているのだ。何も不思議はない。
「今日は転校生を紹介します。入って」
担任の先生に言われ、俺は教室のドアを開けた。
「多賀谷健太です。よろしくお願いします」
「多賀谷くんはアフリカのブルキナファソから来ました。え、てかどこそれ」
「ここですね」
俺は常時携帯している地球儀を取り出し、ブルキナファソを指差した。そーれっ!
「なるほどわかりやすい、ありがとう多賀谷くん。君は実に素晴らしい。この国の誇りだ」
「お褒めにお預かり光栄です」
先公感動、俺の存在超重要。オーケー。
「じゃあ多賀谷くんの席は、あそこにいる狩田さんの隣ね」
「はい……ああっ! お前はさっきのっ」
俺は二度目の衝撃に声を上げた。
なんとそこには、先程遭遇したあの巨大な食パンが、悠々と鎮座していたのだ。
美少女の姿はない。彼女はやはり完全に食べられてしまっのだろうか。
ということは、誰も助けようとしなかったのか。なんて哀れな。そしてこの国の人間はなんて冷たいことか。実に腐っているな、ここは。
「なんだ、狩田さん。多賀谷くんと知り合いだったのか?」
「えっ、そんな、知り合いってほどじゃ」
食パン、いや狩田は戸惑いながらそう返した。
「狩田さん、多賀谷くんは転校したてでまだ教科書が届いていないんだ。見せてあげて」
「ええっ、私が?」
「それ以外にだれがいる。いや、いない」
「確かに」
狩田は渋々といった感じで、俺に机を寄せて教科書を見せた。
そして俺にだけ聞こえるように、小さく囁いた。
「か、勘違いしないでよね。別に、あなたのためじゃないんだから。先生に言われて仕方なく見せてあげるだけなんだからねっ」
食パンカンカン、オレ平然。
休み時間になると、砂糖にたかる蟻のごとくぞろぞろと人が寄ってきた。
やはりこの国の人間は愚かなものだ。たかだか転校生なんぞを珍しく思っているようでは、俺のいた国ブルキナファソでは生きてゆけまい。
でも人気者になったような感覚を味わえて楽しい。
「多賀谷くん、どこから来たの?」
クラスメイトの一人が問いかける。
朝の紹介を聞いていなかったのか? 耳どうなってるんだ、こいつ。
しかし俺はそんな態度をおくびにも出さず、笑顔で答える。
「ブルキナファソだよ」
「あー、あそこかあ。遠いよねー。ところでさ、狩田さんとはどうやって知り合ったの?」
どうやら本題はそちらの方らしい。
「朝、ちょっとぶつかって」
「うわっ、羨ましいなあ」
「なんで?」
「そりゃそうだろっ。狩田さん超可愛いし、ある意味校内の有名人だよ。しかも今彼氏いないらしいしさ」
「学園のマドンナ的存在ってことか」
「……古くね?」
そうかもしれない。
何を隠そう、俺の日本に関する勉強は、主に昭和と平成初期の漫画だ。
「さすがにマドンナはないけど、学校の食パン的存在とは言われてるよ。なんか、結婚して一緒に朝食の食パンを食べたい存在、略して学校の食パン、的な」
「ふーん」
カロリーメイトじゃいけないのか?
あれは優秀だ。
「でさ、ぶつかったときどうだった? やっぱ柔らかかった?」
「ああ。いい匂いがして、ふわっと柔らかくて、とにかくいい心地だったよ。その場で食べちゃいたいくらいだった」
「発言が過激だなっ。でもすげえ羨ましい。いいなー、俺もぶつかってみたい」
男って単純だな。
「多賀谷くん」
放課後にぬって、狩田から声をかけられた。
「何?」
「ちょっと話があるの」
クラスメイトが、興味津々に俺と狩田を眺めている。
「話って何?」
廊下に移動すると、俺から切り出した。
「今朝のことなんだけど……誰にも言わないでほしいの」
「なんで?」
「だって、恥ずかしいでしょ……ご飯食べながら走ってたなんて。そんなの知られたくないよ」
食を否定するのか? それはすなわち生に対する冒涜ではないのか? 遅刻しないように、移動と食事を同時に行うのは、一種の効率的手段ではないのか?
俺の頭はたちまち疑問でいっぱいになったが、それを口に出すことはなかった。
「それと、ずっと前からあなたのことが好きだったの」
「え。俺たち、今日が初対面だよね?」
「好きって気持ちに、時間とか関係ないよ。理屈じゃないの、心なの!」
フィーリングってわけだな。
この女、わかってるじゃないか。
「わかったよ狩田さん。結婚を前提に付き合おう」
「やったー」
こうして俺は学校のマドンナ、狩田の彼氏になった。
「あのね、多賀谷くん。今日私の家、誰もいないの」
「確かに」
「確かにって何? 返事おかしくない? 多賀谷くんまだ日本語不慣れなの?」
「うん」
帰国子女、Yeah。
「それで……よかったら家に来ない?」
「そんな、まだ早いよ」
「ばっ馬鹿! 変な想像しないでよねっ」
もう遅い。既に俺の脳裏は変な想像でいっぱいだった。
めくるめくエロスと、前衛的美術ピカソの世界。俺の頭にはそんな異次元が広がっていたのだった。たまらん。
彼女の家は、ごく普通の一軒家だった。
強いて変わったところをあげるとするなら、仏壇と神棚が至るところに置かれているくらいだろう。一般的な家庭、と言った感じだ。
次に案内された彼女の部屋は綺麗に片付けられていて、神棚と仏壇は一つもなかった。
可愛いシーツのベッドや、置いてあるアクセサリー、隅にはぬいぐるみなんかもあって、まさに女の子の部屋である。
「多賀谷くん。私、多賀谷くんの彼女だよね?」
「その前に、彼女の明確な定義をしなきゃ答えることができないよ」
「多賀谷くん!」
狩田はその可愛らしい顔を怒りと緊張に染め上げた。……顔? そういえばどこが顔になるのだろう?
「私達付き合ってるんだから……いいよね?」
恥じらいつつも彼女が示した先には、ベッド。
つまり、そういうことだろう。
俺は意を決し、彼女を押し倒した。……押し倒した?
「多賀谷くん……」
切なげに、少し掠れた声で俺を呼ぶ狩田。
だが次の瞬間、がらりと表情を変えた。……表情?
「引っかかったな」
低く漏らした彼女は、ぐわりと口を大きく開けて、一気に俺へと食らいついた。
「うっ、うわああああ」
「むしゃ……むしゃ……馬鹿な奴だ……ううっ!?」
咀嚼した彼女の口から、苦悶の声が漏れる。
そして、ぺっと俺を吐き出した。ひどい。
「ううっ、まずい……なんてまずいんだ……っ!」
狩田はうずくまるようにして、俺の味をシンプルに批評した。なんてわかりやすいコメントだ。昨今のグルメリポーターも参考にすべきではないだろうか。
「なんでこんな味なんだ……っ!?」
と聞かれても、こちらにも理由はわからない。
そういやさっき虫除けスプレーをかけたが、そのせいだろうか? それとも、匂い付きボディソープの影響か。
何にせよ助かった。
「お前えええっ、一体何をしたああああ……っ!?」
先程とは真逆に、彼女ははっきりと敵意を顕にした。
俺は余裕たっぷりに、秋のそよ風のように爽やかに笑ってやった。
「くっくっくっ、こうなることをわかった上で罠を仕掛けたのさ」
嘘だった。
「こ、小癪な……っ!」
「確かに」
「認めるんかい」
俺の長所は、思わぬところで素直になる意外性だ。照れる。
「ところで喉が渇いた。狩田さん、悪いんだけど何か飲み物くれない?」
「は? この男マジ小癪。何なの? 初めて余所に上がった人の態度じゃないんだけど。ありえないんだけど。カルピスでいい?」
「用意してくれるんかい」
しかし、彼女の用意したカルピスはすごく薄かった。
「こんなのカルピスじゃない!」
俺は叫んだ。
「うちではこの比率だから」
「もういいよ。狩田さんがそんなケチだとは思ってなかった。別れよう」
「うん」
俺たちはただのクラスメイトに戻った。
翌日。
俺は教室で狩田と目を合わせられなかった。
やっぱりケチは言い過ぎた、と後悔が渦巻いているせいだ。
「多賀谷くん」
すると、彼女の方から声をかけてきた。
やはり女は度胸がある。
「……何?」
俺は何を言われるのだろうかと怯えつつ、返事をした。
「いきなりこんなこと言うのもあれだけど……私、多賀谷くんのことが好きになったの。今度は本当に」
「えっ?」
何だこいつ。怖い。
「昨日、じっくり考えたの。……あんなにはっきりと私に注意してくれる人、今までいなかった。だって周りにいたのは、私に嫌われまいと私の顔色を窺う人ばかりだったから。でも多賀谷くんは違った。私ね、多賀谷くんの言葉で、カルピスはあの比率じゃだめだって、ようやく、はっきりと理解できた。……多賀谷くんだけなの」
「確かに」
しかし、やはり俺は、素直に頷くことはできなかった。
「悪いけど、やっぱり付き合うのは無理だよ」
「多賀谷……」
……今、呼び捨てにした? 気のせいか? 気のせいだよな?
「──でも、友達からってことなら」
「……え?」
「それなら、いいかな」
「た、多賀谷……!」
呼び捨ては気のせいでも聞き間違いでもなかった。何てこったい、意外や意外、オレの心はちょっぴり痛い。
昼休み。
「多賀谷くん、狩田さんに告られたって、本当?」
驚くクラスメイトから問いを受けた。
やれやれ、もうばれたか。やれやれ。やれやれ。やれやれ。
そして俺は粛々とした様子になって答えた。
「結論から言うと、事実でございます」
「うわ、なんか記者会見の受け答えみたい」
「確かに」
いいね。
「羨ましいなあ。でもさ、大丈夫?」
「何が?」
「多賀谷くんはまだ来たばっかだから知らないだろうけど、狩田さんってマジで人気なんだよ。だから、学校の食パン的存在な狩田さんのファンクラブ、通称パンクラブがあってさ……。多分そこの奴らは、狩田さんとの不順異性交際……つまり男と女の淫らにして甘美な妖しい日々を、許さないと思うんだ」
「何だよその官能小説みたいな表現は」
俺は呆れながら指摘するものの、会話は続かなかった。
「多賀谷健太はここか!?」
教室の入り口には、人だかりがあった。
凶悪な人相の男を先頭に、厳つい男子生徒たちが睨むようにして集団をつくっている。その姿は、とても俺と同い年とは思えないほどだ。
気付けば賑やかだった教室はしんと静まり、クラスメイトたちも戸惑いの目で俺にちらちら視線を向けている。
それに気付いた男たちは、まっすぐに俺の元へ歩み寄った。険しい眼光と共に、敵意が込められた問いを投げかける。
「多賀谷健太というのはお前か?」
「うん」
「俺たちはパンクラブの者だ」
多くの者を圧倒する雰囲気。強烈なそれは、確かに俺へと向けられている。
──俺の戦いは、これからが本番なのだ。