長い夜
揺らめくたいまつの炎に照らされた男たちがケラケラと嗤っている。
月下に響くその声は、あたかも悪魔達の囁きのように、降りた夜の闇に融けていく。
「直樹さん、絶対に私の側を離れないでくださいね」
男たちに囲まれる最中、直樹の耳元で告げた言葉。
鼓動は痛いくらいに早鐘を打ち、噛み締める唇は既に麻痺している。
軋む思考を無理やり回して、どうすればいいかとレミィは考える。考え続ける。
「お譲ちゃん、こんな夜にどうかしたのかい?」
二人を囲むおよそ十人ほど男たちの中でも、一際目を引く長身の男が尋ねた。目を引くのはその体躯だけではなく、身に纏う雰囲気というか、オーラが他の連中とは明らかに違っていた。
男の名はカークス・レンブラント。
直樹とレミィは知らないが、この男は札付きの悪党で、これまでにも多くの旅人や商隊を襲い、その糧としてきた男。
口調こそ柔らかではあるが、気味の悪い笑みを貼り付けた面にぎらぎらとした眼差し、見せ付けるように短剣を手の平で遊ばせながら歩み寄ってくる。
「だんまりってのは、あんまり良くないなぁ」
男は近づくや否や、乱暴な手つきでレミィの髪を掴み持ち上げた。
そして、苦痛に顔を歪めるレミィに、ゆっくりと耳元まで顔を寄せて囁くように口を開く。
「いいかいお譲ちゃん、聞かれたことにはちゃんと答えるんだ。それが長生きの秘訣だぜ」
寄せられた男の顔から逃げるように、レミィは顔を背けようと試みる。だが、髪を掴まれたままでは首が満足に動かせず、レミィは目を逸らす。
「カークスさん、こっちのガキはどうします?」
「野郎に用はねぇ、さっさと殺せ」
慈悲も感情もない冷たい言葉。
ごく当たり前のあいさつを交わすように、カークスは平然とその言葉を吐いて見せた。
「っ……その、人には……手を出さないで……下さい」
「ああん?」
カークスは何を思ったのか、首を傾げながら髪を掴んだままのレミィを力任せに地面へと放り投げた。
「誰に指図してんだてめぇ?」
這い蹲ったまま、咳き込むレミィを踏みつけながら男は憤慨する。
「……や、やめろっ!」
思わず直樹は叫んでいた。
寒いわけではないというのに、顎が震えて、カタカタと音を立てている。全身には鳥肌が立ち、膝が笑っていた。
声を上げた所で、それ以上自分には何も出来ないのは分かっていた。だが、それでも声を上げずにはいられなかった。
一斉に男たちの視線が直樹へと集まり、静寂が生まれたのは一瞬のこと。
「全く……どいつもこいつもよぉ」
レミィを踏んでいた男が呆れたように溜め息を零し、直樹の方へと歩み寄ってくる。
「だから殺せって言っただろうが!」
言うが早いか、カークスは手に持っていた短剣を直樹の腹部へと突き立てた。
痛みというよりも、熱い鉄を押し付けられたような感覚に襲われて、直樹は悶えるような叫び声を上げた。
「誰がお前にしゃべっていいって言ったよ?」
吐き捨てるようにカークスは言って、レミィの元へと戻っていく。
うずくまった拍子に抜けた短剣が地面を叩き。溢れた鮮血が外套を浸食していく。指された場所を中心にして、体から熱が失われていくのがまざまざと感じられた。
今まで味わったことのない痛みと熱から逃れようと、直樹は地面へと爪を立てる。
「大丈夫ですか、直樹さんっ!」
駆け寄ろうとしたレミィの腹部を、カークスは躊躇なく蹴り上げた。
「勝手に動くんじゃねぇよ」
地面を転がり、呻くレミィを虫を見るような目で見下ろしながら口の端を持ち上げた。
「その傷じゃ、ほっといてもじきにくたばるだろうが、どうせなら最後の思い出くらい作らないとなぁ」
言って、カークスは愉しそうに嗤ってみせた。
狡猾なその表情はまさに悪魔そのもののようで、仲間でさえ慄いている。
「お前ら、このお譲ちゃんと遊んでやれよ」
その言葉に他の男たちが色めき立った。
「あんまり手荒なことはするんじゃねぇぞ、あとで売り物にならなくなるからな」
レミィへと群がっていく仲間を眺めながら、カークスは葉巻に火をつける。
「お譲ちゃんに言い忘れてたが、別に抵抗してもいいんだぜ」
まぁ、出来るならの話だがな。と、含みを持った笑みをたたえて直樹へと蔑むような眼差しを向けながら紫煙を吐き出した。
「最後の思い出が、嬲られる少女の姿ってのはどういう気分だ?」
盛りのついた獣のような男たちが、震えるレミィへとその手を伸ばしていく。今から一体なにが行われようとしているのかは、十六歳の少年にでさえ容易に理解できた。
やめろ。やめてくれ……。と、直樹は声にならない言葉を内心で繰り返す。
暴れるレミィを無理やり押さえ込む男たちの姿を、ぼやけた視界で眺めながら、直樹は呪いの言葉を紡ぎ続けた。
刻一刻と視界は暗く、狭く閉ざされていく。
これは夢。正真正銘の悪夢。このまま眠ればきっと元の世界で目覚めることが出来るのだ。
突然召喚され、勇者になって欲しいと言われ、そして流されるままにここまでやってきたが、それももう終わる。
少女の悲鳴もどこか遠くに感じながら、直樹はふと思う。
これは夢――他の誰でもない自分の夢だ。
「直樹さんは私が守ります」
レミィが言ったその言葉が甦る。
――そう、これは夢。覚めれば消える一夜の幻。
だが、直樹は懸命にそれを否定する。
「夢なら夢らしく、ちょっとはいい夢見させろよ……」
こんな夢があってたまるか……。
女の子に守って貰い。女の子を助けることも出来ず。何も出来ないままに終わる……そんな夢なんかがあってたまるか。
「あぁ、そうか」
直樹は今更気がついた。いや、思い出したという方が正しい。
「あん?」
突然立ち上がった直樹に、男は不思議そうに首を傾げている。普通に考えれば動けるはずがないほどの重傷だ。
実際、ずいぶんと出血したせいで、足元はおぼつかず。視界もぼやけて、はっきりとしない。血が抜けていく感覚は、身体に巡る魔力をも容赦なく奪っていく。
この状態では長くは持たない。
直樹は冷静に判断する。
血が足りないお陰で満足に思考が回らないのが逆に幸いだった。そうでなければきっと、自分自身に混乱していただろう。
何が起きたのかなんてどうでもいい。とりあえず今は、こいつらをどうにかするのが先だ。
「八人か、いけるかな……」
呟きながら、直樹は落ちていた短剣を拾い上げる。自分の血に濡れた短剣の柄を軽く握り、感触を確かめてから、くるりと手の中で回転させて逆刃へと持ち変える。
こんなものを握ること自体、初めての事だったにも関わらず、手先は思い描いていたように動いてくれた。
たった今、直樹が得たものは、純粋な力ではなかった。
もっと超常的な――あるいは非現実的な力でも降って湧いてくれれば、こんな苦労をすることもなかったのだろうが、現実はそう甘くはない。
まるでこれまで経験した人生の一部であるかのように、直樹の脳裏には戦いに関する情報がごく自然に存在していたが、肉体的にはそれほど大きな変化があったわけではなく、殴られれば痛いし、切られたら血も出る。決して超人のような力が身に宿ったわけではなかった。
戦い方の一部として、魔力による身体強化も出来るようにはなったが、その大元となる直樹自身には一切の変化はなく、この傷ではその効果の程も怪しいものがあった。
こんなことならもっと鍛えておけば良かったのかな、という後悔さえ後回しにして、直樹は恐る恐る、半ば感覚のない右足を踏み出した。
「ぐっ……ぅ」
踏み出して、直樹は激痛に顔を歪ませた。その拍子に刺された場所から血が溢れ、傷口を押さえていた右手から雨垂れのように地を染める。
これは本当に時間がないな、と直樹は思う。思って、どうしようかと考えて、その暇さえ無駄であると思考を止める。
訝しげに近づいてくるカークスへと、ぼんやりとした視線を向けて、ゆっくりと息を吸い込んだ。
あっちから近づいてきてくれるというのは願ってもないことだ。
「おい小僧……」
伸ばされる手、油断に満ちたその動き。きっと相手は直樹のことを取るに足らないものだと考えている。瀕死の傷を負った、手負いの鼠なのだと。
吸った息を止めて、直樹は動く。カークスの無防備な首筋へと狙いを定めて、腕を伸ばす。
「っ……!」
激痛に視界が眩む。だがそれでも直樹は決して止まらない。止まれない。
「うああああああああっ!」
止めていた息を叫びに変えて、カークスの首から噴出す鮮血の雨の中を進む。
自身の声が続く限り、直樹は叫ぶ。正直、こんな声が出るなんて自分でも思っても見なかったことだ。だがそうしなければ動けなかった。
レミィを襲っていた男たちが異変に気づいて、すぐさま直樹へと矛先を変えた。カークスが殺されたことに動揺した者もいたが、構わず剣を引き抜いて襲い掛かってくる者のほうが多かった。
この状態で切り結ぶのは自殺行為でしかないと、直樹は振り下ろされる刃をフラフラとした足取りで避けてから左手の短剣を急所へと見舞った。
くぐもったうめき声、手に伝うねっとりとした血液の温かさ。そのどれもを遠くに感じながら、直樹は男が手放した剣を右手で掴んで奪い取る。
休む暇などなく直ぐに次の男がやってくる。
月光に照らされた剣身が光り、身体の直ぐ側を通り過ぎていく。闇夜の中、出血の所為で視界は霞んでいるにも関わらず、それははっきりと認識することが出来た。
身体強化――その中でも視覚や聴覚といった感覚器官の強化は、この状況ではありがたかった。
奪ったその剣で、今しがた通り過ぎた刃の持ち主を切りつける。
「くっ……」
しかし、傷を押さえていた右手にはべったりと血がついている。筋力を強化してはいるが、失血による握力の低下と血で湿っていたこともあって、降り抜いた剣はそのまま手から滑り落ちた。
敵はあと5人。差し迫っていた一人に向けて左手の短剣を投げつけて対処する。
放たれた短剣は吸い込まれるように額へと突き刺さり、これであと四人。だが状況は芳しいとは到底言えたものではない。
「……まだやるか?」
低く、腹に響くように直樹は言った。
――脅声と言われる魔力を込めた声による初歩的な心理攻撃の一種で、こういった悪党が好んで使うせこい手だ。
原理が簡単であるため対処も容易だが、状況次第では確かな効果が期待できる。
つまり、今のような状況だ。
命の危機が目の前にあるということを認識すれば、あるいは逃げ出すかもしれないと考えた。
「くそがっ!」
男の一人が叫ぶ。カークスが殺されて動揺していた男の内の一人だ。
「やってられるかよっ!」
堰を切ったように別な男が叫び、一目散に逃げ去っていく。それに続いて一人、また一人と逃げ出して闇夜の中に消えていった。
そして最後の一人がゆっくりと後ずさっていくのを見送って、直樹はよろよろとレミィの元へと歩いていく。
ほんの数メートルの距離がこんなにも遠く感じたのは初めてだった。
「レミィ……大丈夫か?」
脅声の応用で、なんとか言葉を紡ぎながら、レミィの様子を伺おうと膝をついた。
「あ……あぁ……」
自分を抱きかかえるように震えながら嗚咽を漏らす少女の姿に、直樹は胸が締め付けられるような思いを抱いた。
触れれば壊れてしまいそうな彼女を少しでも安心させようと、その手をゆっくりと伸ばした。
「っ……!?」
突然、右肩に強烈な痛みが走り目が眩み、息が詰まった。反射的に押さえた右の肩には短い矢が突き刺さっていたが、それよりも重要なことがあった。
「逃げてなかったのかよ……」
自身の肩に突き立った矢の先には、最後に逃げたはずの男が震えながら立っているのが見えた。
窮鼠猫を噛むという言葉のように、追い詰められた者は時に強大な相手にだって牙を剥くものだ。
男の手にはクロスボウと呼ばれる武器が握られているのが見えたが、流石にもう一度立ち上がるような力は残されていなかった。
震えながら男が次の矢を装填しているのに気づいて、直樹はレミィの上に覆いかぶさるように寄り添った。
とりあえずあのクロスボウからレミィは守れるだろう。だがこのままでは問題を先送りにしているに過ぎない。自分を射殺したあとにレミィの番が訪れるだけのことだ。
使える武器でもあれば別だが、と考えて直樹は大事なことを思い出した。
「ありがとう、レミィ」
内心でそう呟いて、直樹は腰へと手を伸ばす。外套に隠れていたそれは、用心の為にとレミィから渡されたクリスティナの短剣だ。
あの時渡されていなければ、この一手は打てなかった。
男が引き金を引くのとほぼ同時に直樹は振り向きざまに短剣を放った。
自身に向かってくる矢の回転さえはっきりと見えた。あの矢が刺されば今度こそ終わるのだろうなと、直樹はぼんやりとそんな事を考えた。
「……あなたは絶対に死なせません」
震えた声がすぐ側で聞こえ、飛来した矢が見えない壁に弾かれたのは同時だった。
見えない壁の正体が魔力障壁だと記憶が告げるなか、直樹は再び内心で「ありがとう」と言って意識を手放した。
「っ……直樹さん!」
覆いかぶさるように倒れこんできた直樹を受け止めながらレミィは叫んだ。
受け止めた手に暖かな感触を覚えて、レミィは未だに震える手足を叱咤して起き上がると、自らの外套を脱ぎ、直樹の頭の下へと置いてから彼をゆっくりと寝かせた。
「死なせない……絶対に……」
それは覚悟の言葉。声にすることで、決意する。レミィは両手のひらを、直樹の腹部へとかざして、祈りを紡いだ。
「癒しの福音、生命の鼓動たる鐘の音よ、生者の魂に祝福を!」
それは、教会に伝わる癒しの女神ラフィールの加護を受けた癒しの魔法。
高等な回復魔法に分類されるだけあって効果は高いが、その半面で消耗も大きい。勇者召喚の儀式の補助と外獣との戦いで消耗した魔力が完全に回復したわけではない。
魔力は即ち生命力に直結する。極度に魔力を消耗すれば、命を落とす危険さえあった。
だが、レミィにとってそれは瑣末なことに過ぎなかった。
目の前で瀕死の重傷を負っている彼は、自分を守るためにこうなったのだ。
レミィは教会騎士団で、正式な騎士としての訓練を受けている。それは主に対外獣戦を想定したものではあるが、対人戦を想定した訓練がないわけではない。
様々な状況を想定した訓練の中には、こうした野盗などの無法者との遭遇戦も当然のように含まれている。
だが、相手が生身の人間であると意識した瞬間にはもう、頭の中は真っ白になってしまっていた。
魔法を使う。それはつまり相手を殺すということだ。
相手を殺さずに無力化するなんて甘い考えは実戦では通用しない。
相手も必死なら、こちらも必死にならねば生き残ることはできない。
生きるか死ぬか。殺すか殺されるか。二者択一の覚悟を決めていたはずだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
許しを請うように、レミィは言葉を繋ぐ。守ると言いながら、自分は何も出来なかった。魔法を学び、訓練を受けて強くなったと思っていた。
森で外獣を倒せた時、直樹を守れると思った。
でも、違っていた。
ただ相手が人間であるというだけで、怯え、竦み、なんの抵抗も出来ない自分が惨めに思えた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
全身の感覚が消えていくのを感じても、レミィは魔法を止めようとはしなかった。たとえその先に死が待っていようとも、直樹を死なせるよりは遥かに良いと、そう思った。
「イリュシュエル様……どうか、どうか勇者様にご加護を……」
願い、祈りながらレミィは糸が切れたように直樹の上へと倒れこんだ。
「誰でもいい。誰か……直樹さんを助け……て……」
歪んだ視界で直樹を見つめながら、ゆっくりとレミィは闇の中へと落ちていった。