指輪
リスボン郊外の酒場にて、ビアージョッキを片手にOがKに語る。
「おい! うるさいぞ、静かにしてろ! ああ、すまん、そこらの奴ら酒を飲むと血気が盛んになってな。
あらくれ。街からテキトーに引っ張って来たやつらさ。
今回のナウも商船会社からの借り物。いまじゃあ貿易なんて借り物競争同然さ。資本なんてギルドに入ってないと低金利で借りれりゃあしない。かつての気高き職人組合なんざあ、今じゃ保守的な貧乏人の集まりに成り下がっちまった。酒の輸入なんていったら、ことさら低俗な奴らばっかりさ。
ところで、これがその蒸留酒だ。
レモンの香りがするだろ? よくできたもんだぜ。シチリア、マルサラにできた新しい合名会社だそうだ。ああ、わかるぜ。酒を飲まなくちゃあやってられない商売だ。
ところであんたは、何を輸入してるんだ?
なに?
指輪?
へー、そりゃあまた変わり種だな。宝石……なにせインドもスリランカも、どこもかしこも大変だ。そりゃあ不確定売買にならざるをえないだろう。あっちは、東インド会社が幅を利かせてるからな。特許を持ってないとモグリだぜ。
こりゃあ、あんたも大変な商売に手を出したもんだ。
見るからにまだ若そうだが、もうそんな歳になるなんてなあ、話を聞くまでてっきり俺より年下かと思ったくらいだぜ。
お前さんがその左手薬指に嵌めているもの。それも輸入物ってわけか。
良いと思うぜ。
指輪。
どこに卸すかは知らないが、秘密なんて誰しも抱えてるもんさ。
そうそう、指輪で思い出したが、俺もちょうどこの間、秘密を一つ輸入しちまったんだ。
この、蒸留酒。まさにこいつを運んでいた時だった。
五日目の朝。シチリアから中継地のジブラルタルに差し掛かった時だ。まだ、明け方だというのに、海峡の岩場から歌声が聴こえるんだ。それは、一定の高音で刻まれたトスカーナの歌だった。ずいぶん古いもんで、俺もこの商売を始めるまでは知らなんだ。
途端に、積み荷の蒸留酒がぶくぶくと泡立ち始めたんだ。樽には、雨水やら海水やらが一ミリたりとも入らない様に、スコットランドのオーク樽で運搬していたんだが、あっという間に松脂がアルコールで解け始めた。樽はパンパンに膨れ上がり、しまいには、樽栓がポンっと勢いよく晴天の空に打ちあがった。クジラの噴水のようにシチリアのレモン酒がドバドバと溢れだした。
その光景は、驚きと圧巻だった。打ちあがった酒を頭からびっしょりかぶり、船内はレモンとアルコールの匂いで大混乱。思い出しただけでも可笑しくなる。
もちろん、そんなきっかけはどこにでもあるもんじゃない。
そこで、俺はさっそく歌声の聞こえる岩場の方を覗いてみたんだ。遠目にな。こっそりとだ。
すると、歌声の主は、人魚だった。
一人で背泳ぎをしながら、優雅にトスカーナの調べを歌っていたんだ。
髪は黄金、尾は大魚、喉のあたりが異様に膨らんでいた。口は耳元まで裂けていて、高音が聞こえる度に、喉仏あたりがボコッと大きく起伏した。
しかも、よくよく見ると、腹のヘソあたりがキラキラと光っているのが分かった。水滴が太陽の光に反射してできるような、そんなありふれたものじゃなかった。ああ、それは、見たこともない乱反射だったなあ……
指輪?
おお! そうそう、指輪さ。
まさに、それだ!
人魚の胴腹のあたりをじーっと見てると、そいつは、ヘソに挟まった指輪だったんだ。
まさにこんな感じに青く光っていたのを覚えている!
サファイア? っていうのか。変わった発音だな。
おそらく、宝石商の船を沈めて、海底から拾い集めているんだろうさ。指輪をヘソに繋ぎ留め、海峡で朝のア・カペラを味わうなんざあ、一体どういう気分なんだろうなあ。人魚ってものは、変わった生き物だ。おかげさまで、輸入した酒樽は当初の半分にまで減っちまった。鼻に付くレモンの臭いより、大量の銀貨を持って来な! 女房には今朝、酷く家を追い出され、ここで朝から一杯ひっかけてるってわけさ。
え?
なに?
ははは、面白いことを言うぜ!」
Kが言うには、その指輪は結婚指輪らしい。