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神々の庭のクロニクル  作者: 御神楽てるよふ
剣の想い、赤毛の来訪者
9/13

第八話 それぞれの距離感


 幼少の私にとって、世界とはこの白い土塀に囲まれた屋敷と等しかった。

 来る日も来る日も、自分の強すぎる力を制御する術としての魔術を教え込まれる日々。

 時には父に怪我をさせてしまうことすらあって、そんな日は自分の力が嫌で嫌でたまらなくなった。



 十二歳になってしばらくしたある日、私は禁を破り、屋敷の外へと飛び出した。

 その時に初めてこの眼で見、この体で感じた広い世界。

 

 それは想像していたよりも、ずっとぼろぼろで、ずっと不揃いで、ずうっとごちゃごちゃで。 

 一言で表すなら、汚かった。


 それでも、それでも私は――もっと『世界』を知りたい、もっと遠くへ行きたい。

 確かに、そう思ったのだ。



*****



 赤毛の兄妹が二条院に滞在するようになってから数日した、午後の冴月家。

 広い敷地の片隅にある道場の中からは、小気味よい乾いた音が次々と響いてくる。

「そこまで!」

 乾いた音と共に木刀が宙に飛び、鋭い声が響きわたった。 回転しながら落ちてきたそれが道場の床を叩くのと同時に、わっと周囲が色めき立つ。

「つつ……流石です、お嬢様」

 両手を上げて降参の意を示している角刈りのがっしりした男は冴月流師範代の藤田、その喉元に木刀の切っ先を突きつけているのは輝夜だ。 緋袴と白衣という装束の彼女は、張り詰めていた息を吐いて木刀を下ろすと、深く会釈する。

「お見事。 その『残像剣』、今日こそは破ってくれようと思ったのですがね」

 同じく緊張が解けた藤田は、ぱんぱんと手を叩きながらそう敵手を賞賛した。

 敵手の視覚を幻惑し、自身の攻撃タイミングと攻撃位置を予測し辛くさせる。 それは判るが、輝夜の跳躍の速度が速すぎるために、目の前に出現した像へと視線が一瞬だが固定されてしまうのだ。 その一瞬で輝夜自身は死角へと移動し、見えない位置から攻撃を繰り出してくる。 そこで殺気が表出するため、ギリギリでなんとか対応できるレベルではあるが。

 およそ一週間だけでこれほど腕が上がるものか、と藤田は内心舌を巻く思いでいた。 残像もそうだが、輝夜の高速移動の挙動が見違えている。 元々、冴月流は相手に反撃をさせない電光石火の挙動と一撃を旨とする流派だが、今の輝夜は門下に並ぶ者の居ない領域まで達しているように見えた。

 紫苑との実戦形式の訓練の成果だが、さすがにそこまでは藤田は知らない。

「これを、自力で繰り出したいものですが」

 肩で息をしながら、そんなとんでもない事を言う輝夜。 それはつまり、符に頼ることなく相手の視覚に留まるような残像を残せるようになりたい、という事に他ならない。

「そのための速さというのはどれ程のものか、さっぱりですな」

「ええ、私も見当が」

 苦笑し、木刀を腰に差す輝夜。 ここ数日の試合で、輝夜は藤田に勝率五割をつけていた。 門下生たちからも口々に「あれは反則」という声が聞こえ、輝夜としてもこれに頼ってばかりではいけない、という思いもある。 それゆえの「自分でできたら」なのだが。

 


 *****



 道場を辞した二人は、ゆっくりとした足取りで冴月家の庭園を散策していた。 輝夜の表情に精彩が欠けているのを見てとった藤田が、彼女を連れ出したのだ。

「秋深し、ですなあ」

「ええ……」

 はらはらと散る紅葉の中、藤田は切り出した。

「ときに、ここ数日はずっとこちらにおられましたな。 二条院には出仕なさっておられないのですか」

「え、あ……はい」

 とたんに表情が沈み、俯く少女。

「気乗りがしないのです。 紫苑様には申し訳ないと思うのですが……」

 どういうわけか、ここ数日二条院へと足が向かない輝夜なのだった。 昨日などは紫苑から彼女を気遣う文面の手紙まで届いたため、自室にそれを置いて拝みさえしたのだが。

「何故かは、その、自分でも……よく、わからないのです」

 このままでは、そのうち紫苑がこちらに来るだろう。 その時にどこも悪くない自分の顔を見て、彼女は何を思い、何を言うだろうか?

 そんな事を想像すると、輝夜はたまらなく胸が締め付けられるような気がした。

「ははは……」

 しかし藤田は、からからとそれを笑う。

「なっ……藤田殿?」

「いや、お嬢様も年相応のお悩みを抱えていらっしゃる様で、安心いたしました」

 むくれる輝夜を見て、藤田はなお目を細める。 その口の端ににやりと笑みを浮かべ、

「なにぶん、某には剣にしか関心がおありでならないように見えておりましたのでね」

「うっ」

「まあ、自分の心中ですら、と申すよりは、自分の心中こそ最も測りがたきものです」

 そう、輝夜の方を見ずに言う藤田。 視線は池を泳ぐ一羽の鴨に向いている。 彼は、最近聞こえてくる「二条院に紅毛の男が居候として滞在しはじめた」という噂も、輝夜の心境の変化の一要因なのではないかと睨んでいた。 そういった変事には「あの内親王殿下」が絡んでいるのはほぼ必定であり、その「紅毛の男」を彼女が招きいれたのなら、何かと紫苑にくっついていた輝夜としては面白くないんだろう、と。

「ううむ……」

 輝夜は眉をしかめて押し黙ってしまった。

「では、私は道場に戻りますので、これにて」

 ぽん、と輝夜の背を叩いて、彼は道場へと戻っていく。 面倒を見なければならない子どもたちは、まだまだ多いのだ。



 *****



 自室の天井を見上げ、うーむ、と輝夜は唸る。 藤田は「自分の心中が一番わからない」と言っていたが、まさにその通り、輝夜は自分がなぜ二条院に行きたくないのか、結局のところまったく判っていないのだ。

 傍らの文机には、数冊の本。 翻訳された軍学書の中に、何冊か小説の類も混じっている。 いずれもここ数日の間に篝火横丁の書店で買い求めたものだ。 「もう戦争は頭でする時代よ。 軍人も訓練ばっかりしてりゃいいって時代じゃないの」という紫苑の言葉を思い出したからだが、そこで何故か、選んだ本の中に小説が混じったのだ。

 やはり、何故かはわからない。 ただ読みたくなったからだ、と言うのはあまりにも簡単だが、一言だけでは済まされない何かがあるような気は輝夜自身にもしていた。 何せ真っ先に読み始めたのがその小説で、軍学書にはさっぱり手がついていないのだから。

 先日、横丁近くの商店街で会った理緒から聞くところによると、紫苑はあのアレスという紅毛の男に色々と外国の話を聞いているのだという。 生まれてこのかた家の中、十四まで外に出ることのなかった彼女はきっと、外の世界への憧れが人一倍に強いのだろうと輝夜は思う。 きっとあのアレスに、未だ知らぬ国や街、そして人の話を聞いているとき、紫苑は眼を輝かせ、あの白い頬を興奮にわずかに赤らめて……輝夜の一番好きな顔をして、話を聞いているのだろう。

 そこまで考えて、無性に腹が立ってきた。 あの顔をこれまで近くで見ていたのは私のはずだ。 新参者にその場所を譲ってなるものか、と。

「ええい、考えても埒が開かん!」

 すっくと立ち上がり、帯を解いて緋袴と白衣を一息に脱ぎ捨てる輝夜。 ほっそりとした肢体を包むのがサラシと下帯一枚になるのにも構わず、彼女は箪笥から綺麗に畳まれた濃紺の袴と上衣の一式を取り出す。 上衣に袖を通し、袴を腰まで上げて紐を締め、壁の衣紋掛けから白地に赤で皇国の国章が染め抜かれた陣羽織をかけ、飾り帯ですべてを留める。 そして愛刀を刷き、鉢金を締め、陣羽織に留められた階級章と部隊章を鏡で確認して頷いてから、最後に群青色のマントと羽織とを肩章で留めた。

 それは近衛の正式軍装。 脱いだ衣類を片付けると、まるで戦場に赴くような表情で、彼女は部屋を飛び出してゆく。 快刀乱麻と言うよりは、やぶれかぶれ、という様だったが。

 

 私は皇国軍近衛少尉、御神楽紫苑内親王殿下付を光皇陛下より拝命した身。

 紫苑様の側にあるのは、もはや義務であり必然である。

 何を気後れすることがあろうか!

 

 ……彼女は心中でそう自らを鼓舞し、一路二条院へと向かうのだった。



 *****

 


 光宮という場所は、はっきりいって異質だ。

 大理石でも漆喰でもない不可思議な白い建材といい、高さ百数十米に及ぶ中央の尖塔といい、列柱や迫持アーチを多用した建築様式といい、およそこの応神という国に似つかわしくない。 しかしこの白亜の大伽藍、記録に残る皇国史が始まる以前からこの場に建っていたことは確定的であり、やはり此処に在ることが自然だという、一種矛盾した状況をこの現代に呈しているのだ。

 ではこの謎多き建造物は、一体どのような存在が何のために建てたものなのか、そしてその当時のこの世界はどのような有様だったのか。 どのような人々がどのような暮らしをし、どのような生物が息づき、どのような空が、どのような雲がこの大地を見下ろしていたのだろうか。 それらをはっきりと語れる者は誰もいない。 天魔戦争以前の世界については現存する記録が少なすぎ、故にその往古の世界のことについては、現代に生きる者は思考を巡らし、想像を広げることによって想いを馳せるしかないのだ。

 戦前の世界についての不自然なまでの記録の少なさには、何らかの意思の存在をすら疑っているが、無いものは無いのだ。 たとえ、広壮な光宮低層部の十階ほどを占めている国立図書館で探し回ろうとも。 


 ――とはいえ、ここまで焦がれてるのは私くらいだろうな、と御神楽紫苑は思考を打ち切り、遥か高みの尖塔の頂点から視線を外した。 その視線を、今度は周囲に移す。

 大内裏の風景は正直なところあまり心癒される類のものではない、と紫苑は思う。 花崗岩の石畳で作られた道と、その周囲を占める白黒の玉砂利、そして馬鹿馬鹿しいほどに巨大な白亜の『塔』。 これらで構成された白黒の世界の中で、各官庁の朱塗りの柱と桧皮の屋根が、わずかな彩だ。 以前はもっと荒れていて、「御一新」に際して大改修が行われ、創建当時の壮麗さを取り戻した……と兄は言っているが、砂利の隙間から生えるカタバミやタンポポといった雑多な草の方が、よほど見ていて心を楽しませる。 それらもこの十一月半ばとあって、すっかり冬の装いに切り替わっているのだったが。

 寒風が吹き抜ける。 着物の裾がばたばたとはためくのを鬱陶しく思いながら、彼女はしばらくその場に留まっていた。

「殿下」

 ややあって、背後からかかる声があった。

「あら、お疲れ様。 わざわざ悪いわね」

 振り向けば、こちらに向けて歩いてきている青年の姿が目に入る。 待ち合わせていた人物が現れたのだ。 



 *****



 官庁街である大内裏と市外との間は、朱雀門をはじめとするいくつかの門と、申し訳程度の城壁によって隔てられている。 その白壁の土塀に寄りかかると、紫苑は二言三言何かを唱え、指先で小さく九字を切った。

「これでよし。 遮音結界を張ったわ。 いつも通りにして頂戴」

「有難てぇ。 敬語は窮屈なんだよなァ」

 煙草をくゆらす長身痩躯の青年の名は、焔崎蓮次ほむらざき れんじと言った。 禁軍『朱雀』支隊を光皇より預かる身だが、庶民からの抜擢とあり、また粗末な身なりと立ち居振る舞いのせいで保守派からは蛇蝎のごとく嫌われている。 魔導院現体制における実力主義を、いろいろな意味で象徴する存在といえよう。 彼自身魔導院の日常業務は窮屈なのか、部下に仕事を放り投げて、よく市街を「警備」に出ているのだった。

「で、最近どう?」

「ま、どうもこうもねェよ、あの一件以来『朱雀』は不満たらたらだ」

 あの一件――紫苑の中では輝夜の騒動のせいですっかりかすんでしまった、東京での反乱のことだ。 反乱自体は『禁軍』の働きによって迅速に鎮圧されたものの、その経緯をめぐり、奇妙な噂が流れているのである。

「連中の砲戦陣地なんかは全部俺らが砲撃叩き込んで潰したんだぜ? ん?」

「朱雀は火力投射が本分だものね」

「そんで市中を掃討してた本多の旦那の『青龍』と桜田門で合流して、さァ城内に突っ込むぜ、ってとこで瑞樹が制圧完了って言ってきてよォ。 『白虎』が抜け駆けしやがったのかと思ったんだが、風見の奴は一橋で待機してたって言いやがる。 おかげで不完全燃焼も良いトコなんだよ」

 噂というのは、『禁軍』には公表されていない第五の支隊があり、東京の反乱鎮圧に際して主力となったのは彼らであった、というもの。 蓮次の言い分からして、どうやら事実らしい、と紫苑は考える。

「喋れてすっきりって感じね」

「応よ」

 ぷはあ、と彼は紫煙を吐き出した。

 年齢も比較的近く、また火炎を最も得意とする魔術師同士という縁で、蓮次と紫苑はそれなりに付き合いがあった。 魔導院の重鎮たちとは違い、彼女が自由に外に出られるようになってからの、比較的新しい付き合いだったが、気安い間柄の年上の男性の友人として紫苑が認知しているのは、今まではこの焔崎くらいのものだった。

「一本もらえる?」

「ん。 ほらよ」

 差し出された箱からは、白い棒がひとつ突き出している。 ありがと、と礼を言って紫苑はそれを受け取り、口にくわえると指先に火を灯し、点火。 そして、すぐに咳き込んだ。

「……俺が言うのも何だけどよ、やっぱ止めた方がいいんじゃねえのか」

「大きな、げほ、お世話よ」

 身体を震わせながらも強弁する紫苑。

「身体、あんまり丈夫じゃ無いんだしな。 コイツは毒だぜ?」

「だから、余計なお世話って言ってんでしょうが。 帰るわよ」

「お前が呼んだんだろが、ん?」

 半眼になる蓮次を他所に、紫苑は憮然とした面持ちで指の間に煙草を挟み、口から離す。

「緘口令」

「また藪から棒にだな。 それに関しちゃあんまり喋れねえぞ」

「……今回が初めて? 違う?」

「あ? ……俺はココに来て日が浅いから知らねェし、本多の旦那も何も言ってない。 上の人らは、まあ、わかんだろ」

「そりゃね。 私も怖くて聞けないわ」

「お前が怖いときたか。 明日は雨どころの騒ぎじゃねえな」

 蓮次はそう言って、けけけ、と可笑しそうに笑う。 ひどく馬鹿にされたような気がしたが、不快感をつとめて表に出さないようにして、紫苑は門の向こうに広がる青空と、その中心を貫く光宮の塔を見上げた。

 光皇の容態はいよいよ悪化し、明日をも知れぬ状態であるらしい。 その事はどうにも、この国の行く先を暗示しているように思えてならない。 縁起でもないが。

「それじゃ、帰るわ」

「あぁ、気をつけろよ。 連中……」

 その言葉を視線で黙らせ、紫苑は白壁から身を離して歩き出す。 ひらひらと振られる手から放り投げられた煙草は、一瞬後に術式に捉えられ、ひと塊の炎と化して消え去っていった。



 *****



 そうして戻った二条院の桧皮葺の門前には、完全装備の輝夜が立っていた。

 むっつりとした顔で門柱に寄りかかって、なにやら本を読んでいる。 表題は『舞姫』。 なんともはや、という思いの紫苑。 あの子ああいうのも読むのねぇと若干新鮮な気分になりつつ歩を進めれば、気配に感づいたのか、輝夜がはっと顔を上げた。

 耳をぴんと立たせてこちらを振り向く視線は輝いていて、そして正面からもわかるほどに、尻尾は大きくぶんぶんと振られている。 狼人族、という種族名はいささか格好が良過ぎるのではないか、いっそ犬人でいいんじゃないか、と、こういう輝夜の有様をみるたび、紫苑は思うのだった。 もっとも同じ狼人族である知り合いの幾人かは、こうも簡単に尻尾を振ったりはしないが。

 彼女は急いで肩にかかっている雑嚢に本をしまうと、こちらに駆けてきて、勢いよく礼をした。

「お帰りなさいませっ」

「えー、ああ、うん」

 紫苑も慣れないものだから、そんな生返事を返してしまう。 外出から帰っても、出迎える門番や居合わせた使用人などがする挨拶は、どこかぎこちなく、義務的だった。 それに、紫苑は常に離れで輝夜を迎え入れる側であり、こうして喜色満面で出迎えられるという経験は無かったのだ。

「今日はどこに行かれていらっしゃったのですか?」

「国立図書館でちょっと調べ物をね。 ついでに蓮次にも会ってきた」

「焔崎様に?」

「相変わらずチンピラだったわ」

 しゃちほこばった敬礼をよこす兵が護る門をくぐる際、二人はそんなやりとりを交わす。

「にしても、今日は『授業』の日じゃないでしょ?」

「はい。 ですが私は紫苑様の衛士。 ならば紫苑様の側にあって、御身を護りまいらせるべきかと」

「熱心ねえ」

 その言葉はどこか他人事のようだったが、輝夜は「はいっ」と頷く。 良い傾向ではないな、と紫苑は内心で呟いたが、それを表に出しはしない。

 怖かったのだ。 それは彼女らしからぬ感情だったが、確かにそう思ったのも事実だった。



 *****



 離れに戻っても紫苑はそこに落ち着かず、洋装の外出着からゆったりとした臙脂色の着物に着替えると、すぐに母屋へとその足を向けた。

 その行き先は、先日からの居候ふたりの居室。 そのことを悟った輝夜の顔が、あからさまに曇る。

「話を聞きにきたわ」

「帰れ」

 ふすまを開けて、室内に二人が居ることを確認するなり、即そうのたまった紫苑に対する返答は、これまた即答だった。

「もうネタが無いって昨日も言ったろ。 クレドの香辛料市場でスリを叩きのめした話もしたし、ヤスバースのあくどい女衒をとっちめた話もした。 キランの港町で船長のおっさんに付き合わされて樽酒ひとつ飲み干して死にそうになった話もな」

 クレドとは東大陸の南西に浮かぶ島嶼群にある、香辛料貿易の中心都市。 ヤースは南大陸の大半を支配するムーア朝の王都。 そしてキランは大陸間貿易の中継地点として栄える、東大陸東南部のジャングルの入り口にある港の名だ。

「シュティーアの『黒の森』で遭難しかかった話も聞いたし、アルビオン海軍の艦に乗り込んで要塞攻略に参加した話も聞いたわね。 もっと聞かせて」

「お前な……」

 呆れるアレスを他所に、紫苑は隅に積んであった座布団を手繰り寄せ、どっかりと座り込んだ。 それを見たアレスはあからさまに嫌そうな顔をする。

「別段、そんな血湧き胸躍る冒険譚、なんてものじゃなくていいのよ。 いや面白かったけど。 貴方が知っていて私が知らないすべてのことを教えて欲しいって言ったじゃない」

「んな抽象的なリクエストに答えられるか。 人にものを頼む時は、もっと解り易くするもんだ」

 そんなやりとりを主人と居候が交わしている間、輝夜の目線はなるべくそこを避け、この部屋にいるはずのもう一人を捜す。

 異国での居候暮らしとはいえ、二人の環境はそう悪いものではないように輝夜には思えた。 そもそも、兄妹ともども応神語での会話に不自由しない程度にはこの国に滞在していたのだから、外国は基本的に板張りの床と寝台、そして脚の高い机と椅子で暮らすにしても、畳の暮らしに幾分か慣れているはずだ。

 しかもここは二条院。 造りは古来の寝殿造りに時代ごとの改装を加えてきた古めかしいものとはいえ、畳は数年毎に総入れ替えをするし、来客用の布団は常にふかふかだし、各種調度も相応の歴史を閲してきた再高級品。 当然、出される茶も料理も美味い。 つい先日まで使われていなかった部屋の中がきっちり片付いて、家具もきれいに磨かれているあたり、理緒はよくやっているようだ。

 その隅っこに、捜していた姿はあった。 背の低い屏風で仕切られた、手毬やら、あやとり用の紐やら、お手玉やら、そんなものが雑多に散らかっている一角。 理緒が気を利かせて用意したと思しき空間に、小さな赤毛の少女は座っている。 彼女は今、色紙を手に何を折ろうか頭を捻っている最中だった。

 私にもあんな時期があったのかな、と輝夜はふと懐かしい心持になった。 思えば物心ついた頃から剣の修行に明け暮れる日々だったが、それでも母が存命であった頃は、空いた時間、こうして少女らしい遊びをしていた気がするのだった。

「あ、そうだ。 料理作ってよ料理」

「またお前はワケのわからん事を言い出すな。 頭ン中何か涌いてるんじゃないか」

「好奇心が湯水のごとし。 でさ、異国の料理、それも気取った奴じゃなくて普通のが食べたいのよ。 ココじゃ精々大陸料理か、馬鹿に高価なルテティアの宮廷料理しかないんだもの」

 大陸料理とは、海をへだてた応神の隣国、第四周王朝の料理のことだ。 往古より交流のあるこの旧き大帝国の料理は庶民にも人気があり、京の各所で酒楼が営業している。 そしてルテティアとは、躍進著しい新興工業国家シュティーア帝国の西にある古い王国の名である。 それはそうと、また無茶を、という心境は輝夜も同じだった。 このままこの会話が進行すれば、紫苑は厨房へ赴いて直接『お願い』しかねない。 それは使用人たちにとって命令と同義だ。 彼らと紫苑の間の微妙な空気は良くわかるだけに、これは止めねばならないか、と輝夜は口を挟むことにした。

「紫苑様、今日これからというのは急に過ぎます。 もう厨では本日の御夕食の準備が始まっている時間ですから、今からですとあちらの作業に支障が生じましょう」

「そうね」

 正論をぶつけると、この主は案外あっさりと首を縦に振るのだ。ほっと輝夜が旨をなでおろすと、アレスが視線だけでこちらを見て、右手の親指を小さく立てた。 よくやった、と言いたいらしい。 お前を助けようと思ったわけじゃない、と憮然とした面持ちで顔を背けたあと、輝夜も部屋の中、紫苑のかたわらに、折り目正しい正座で腰を下ろす。

「じゃ、今度使えるように頼んでおきましょ」

 アレスが目に見えてげっそりしたのを見て、ほれ見ろと輝夜も吐息した。

 

 雑談に移行した二人を他所に、輝夜はもう一人が居るほうに視線を向ける。 いま彼女は、色紙を手に弄ぶのをやめ、折りはじめたところだった。

 鶴か、と工程から出来上がりを推測し、輝夜は意外に思った。 折り紙に慣れていない者が折るには少し難しいそれを、少女は慣れた手つきで進めていくからだ。

「……?」

 視線に感づいたのか紅毛の少女は頭をもたげ、そして目が合った。 ぴくり、その小さな肩が震える。 彼女が人見知りだとアレスに聞いたことを思い出した輝夜は、とりあえず笑顔を作ることにした。

 困ったように、にこりと笑う。

 ……少し間を置いて、少女はくすりと、可笑しそうに微笑んだ。

 敵対的な意思が無いことは理解されたようだ、と輝夜は心中で頷き、今度はさらなる接近を試みることにした。 その仕草は、山の中で小動物を見つけた時のそれに近かったが。 座ったまま上体を崩し、尻尾をぴんと立て、畳に手をついてそろりと距離を狭めると、少女の興味は折りかけの鶴から輝夜に移ったのか、きょとんとした面持ちでこちらを見てきた。 試みは成功したようだった。

「何を折ってるんだ?」

 第三の接近は、問い掛け。

「……とり」

 少女は何度か折られて菱形のようになった色紙を一瞥して、そう言った。 またも意外な答えだった。 折鶴は折鶴であり、ふつうは「鳥」とは呼び習わされてはいない。 よく見れば、彼女の周りにはいま折っているもの意外にも、何羽かの折鶴が羽根を休めている。

「好きなのか?」

「うん、とりは好き。 むかし、教えてもらったんだ」

 あの兄にか、と輝夜は一瞬だけ思ったが、想像してみると死ぬほど似合わない。 誰か別の人間だろうか。 しかし、二人は諸国を遍歴してきた兄妹のはずだ。 一体どこで誰に、と輝夜は疑問を感じたが、どうでもいいか、とすぐに頭の片隅に追いやった。

 鶴は、輝夜としても好きな鳥だった。 白黒、そして一点の紅で構成された優美なありさまは、よく知る高貴な存在を思い起こさせる。 天照家の象徴でもあったが、それ以上に、輝夜には鶴という鳥が自身の主の象徴に思えるのだった。

「それはな、『鶴』という鳥なんだ」

「つる?」

 輝夜が言うと、少女は首をかしげて問い返してきた。

「白と黒の羽根に、かんむりが紅い、綺麗な鳥。 見たことはないのか?」

「……わかんない。 でも、似てるかも」

「なにと?」

「教えてくれた、ひと」

 輝夜はそこで軽い驚きを感じた。 自身とこの少女が鶴について似たような想いを得たことと、「鶴に似ている」と形容しうる、白と黒、そして鮮烈な紅を持つ存在が自らの主以外に存在することに。

「その人というのは」

 ちらり、と視線を反対側に向ける。 目を輝かせ、頬を上気させて丁々発止のやり取りを交わす、子供のような主の姿が見えた。 ちくり、となにかが痛むのを黙殺し、姿勢を元に戻す。

「あの御方に似てはいなかったか?」

「紫苑お姉ちゃんに? そだね、そう……かも」

 うーんと首を捻って考えこむ少女を見て、輝夜は当初の目的を思い出した。 この自分とあまり年が変わらなく見える少女と、友好的な関係を成立させるために一連の行動を試みてきたはず。 今すべきは、彼女に誰が折鶴を教えたかの考察ではない。

「冴月輝夜」

「う?」

「私の名前。 たぶん、顔を合わせる機会も多くなると思うから、な」

 思えばこうして自己紹介をするのは、いつ以来か。 若干の気恥ずかしさを覚えつつの久々の名乗り。

「うんっ」

 それを受けて、少女――アレシエルは、はにかんだように微笑んで頷き返すのだった。


「あっちも無事に友達になれたみたいね。 よきかなよきかな」

「何を遣り遂げたような顔をしてやがる。 何もしてないだろお前」

 一方、正座で湯呑みを手に持つ紫苑はその様をみて満足げに頷き、胡坐をかいているアレスは呆れたように突っ込んだ。

「良いじゃない。 あの子の成長を見守る姉のような心持なわけよ、私は……うん美味しい」

 ずず、と湯飲みを啜り目の前に置く。 注がれた煎茶は理緒が淹れたものだ。

「お前みたいな姉貴が居たら、俺だったら間違いなくグレるね。 断言してやろう」

 数年来の友人のであったかのような会話を交わす二人。 事実、紫苑は奇妙なほどにこの紅蓮の髪の風来坊と波長が合った。 理由は不明なれども、いずれはっきりさせなければならない、と感じてはいる。

「失礼ねぇー。 この知性溢れてかつ麗しい美貌を誇る姉に対して何を言うのかしら」

「それはいいとして性格が最悪じゃねえか」

「は?」

「とりあえず、善良な人間は、少なくとも自分の事をそんなふうには褒めないな」

「でも貴方は私の言を否定しなかった。 認めるのね?」

「……まあ、吝かじゃない」

 輝夜が聞いていたら斬りかかってきそうなやり取りだったが、幸か不幸か、彼女はアレシエルと二人でお手玉に興じている。 器用に三個の玉を操る彼女の手際に、アレシエルは関心しきりだった。 片方が軍服でなければ、違和感無く仲の良い友人に見える。

「……やれやれ」

「ん?」

「いや、何だ。 つくづく俺は強引な女に縁があるなと思っただけだ」

「何よそれ」

 紫苑は憮然とした表情で、アレスを小突いた。 それは自分が「強引」と、呆れたように評された事に対する抗議だけではない、もっと別の感情が混ざった表情だったが、そこまでしか表情を浮かべる紫苑には解らない。 自身の感情を分析できないのは彼女にしてみれば珍しいことで、奇妙な心地の悪さを覚えた。

 さながら、自身を内側から焦がす炎のような。 知識欲や好奇心を満たそうとする際に燃え上がる灼熱のそれではなく、もっと昏い、どろりとした――。

 思考中断。 自身の内面の探求もまた興味深いことだが、その感情の分類には時間がかかりそうだったから。

「ときに」

 代わりに発するのは、いたずらっぽい態度を作っての、もっと現実的な問いだ。

「……私の前の『強引な女』に興味があるんだけど」

「お前ホントに容赦がないな、こればっかりは駄目だ。 駄目」

 問われた側は、げんなり、といった顔。 その表情のまま、彼は顔の前で、両手の人差し指をつかってバツを作った。 しかしその程度で引き下がる紫苑ではない。 さらに笑みの度合いを深め、正座のままずりずりとアレスににじり寄る。

「何か聞かれたくない嫌な思い出があるのね?」

 にやりと底意地の悪い笑みを浮かべ、紫苑はアレスの鼻先に、白い指を突きつけた。

「そう思うならほっといてくれ……って、顔が近い」

 うなだれるアレス。 ことさら彼は、紫苑の紅い瞳を覗き込まないようにしているように見える。

「いーや、ここは何としてでも聞き出すところよ」

 すると紫苑は、正座のままアレスの横に移動するという器用なことをやってのけ、肘でつんつんと彼を突く。

「さー、キリキリ白状しなさい?」

「やっぱお前最ッ悪だよ畜生。 っていうか離れろ、おい、だから近い!」

「なによ照れてるの? え?」

 こんなやり取りのなかで、紫苑は明確に、楽しさという感情を得ていた。

 じゃれ合いと言葉の応酬、今までの人間関係の中では得られなかった体験。 どこか「皇族」と「臣下」をどうしても意識してしまう人々とは違う、まったく障壁やしがらみのない関係。 すなわちアレス・イェルと御神楽紫苑という個人同士のそれは、今までになかったものだからだ。

「お、お、お、おい貴様ぁ!」

 そこに、こちらを見た輝夜が猛然と割って入ってきた。 息を荒げ、紅潮した顔の彼女は、いつでも抜き放てるとばかりに利き手を刀の柄にかけている。

「紫苑様から離れろ、すぐに!」

 その鬼気迫る様子がどうにも可笑しくて、紫苑は今にも噴出しそうな表情を隠すのに、うつむくという手段を採った。 そしてその選択は輝夜から彼女の表情を隠すという予定通りの効果を発揮し、予定していなかった作用を引き出す。

「おのれ、紫苑様に何をした!?」

「何もしてねぇっていうかこの状況はこいつがだな……」

 これは棒読みで「助けて輝夜」とか言うべき状況だろうか、と脳内からの提案を紫苑は吟味し、血を見かねないということで却下。 成り行きを見守ることにした。

「そんな、言葉にできないほど酷いことを!?」

「おま、こら、紫苑、なんとか言え! お前の腰巾着の誤解が酷いことになってきてやがる!」

 状況はさらに悪化した。 いきり立つ輝夜の腰のうしろから、ひょっこりとアレシエルが顔を出したのだ。

「お兄ちゃん、腐れげどー……」

「お前もかアレシエルそれからお前どこで覚えたってーか笑ってるなってことは解ってるよなお前っ!?」

 ちらりと見えた少女の表情は、確かににやにやとした笑みだった。

 この人見知りの妹は、実際のところそれなりに「子供らしい」性格のようだ、と紫苑は認識を新たにした。 心を許した相手に対しては素の性格が出るのだろう。 そして子供は純粋で、故に配慮とか容赦とかそういったものがないものだ。

「よおしガキ共め今すぐ黙らせてやるそこを動くな」 

「何だと、やる気か! 丁度手合わせをする機会が欲しかったんだ、表に出ろ!」

「なんだ乗り気じゃねえか、ケツまくって逃げると思ったんだがな。 いいだろう……教えてやるよ、格って奴を」

 にらみ合ったまま、ずんずんと部屋を出て行く二人。 どうでもいいが、あんまり庭を荒らさないでもらいたい、と思う紫苑だった。

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