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神々の庭のクロニクル  作者: 御神楽てるよふ
黎明の皇国、ふたりの少女
7/13

第六話 "冴月輝夜"の事情



 『奥嵯峨の九条家山荘、焼失す!』『権大納言・九条宗重卿、行方不明』『国粋派の大物、倒る!』

 ――といった見出しが新聞に躍る、翌朝。

 窓から入り込んでくるやわらかな光に照らされた輝夜が、わずかながらに眼を開く。 その視線の先には、見慣れない天井があった。

「はっ!?」

 がば、と勢い良く身を起こして、周囲を確認する輝夜。 桐箪笥の隣には洋風の箪笥、さらに隣にハンガー置きがあって、丈の短いスカートや、黒いスラックスがかかっている。 ハイカラな鏡台の上には化粧品箱が置かれ、口紅や香水、さらに輝夜にはわからない何かがいっぱい入っている。 大きな書棚には、魔術書から小説まで雑多な本が。 天井には夕暮れと共に灯る魔力光ランプ。 窓から見えるのは広壮な二条院。

 そこまで確認したところで、僅かにかかる重さに気付いて視線を下ろせば、ベッドサイドの椅子に座って、見知った姿がくうくうと寝息を立てていた。 上半身は、半ば自分にもたれかかるように。 そして自分はサラシに下帯だけ。 サラシは一度解かれた形跡があるし、下帯は下帯で紐が微妙に緩く。 ――紫苑が身体を拭いたからなのだが、彼女は知る由もない。

「!?」

 かあっと頬が熱くなった。 こ、この状況は何だ、と理性と感情が目まぐるしく回転を始める。 自身の状況とこの部屋と目の前で寝ている人物についての考察のはずが、ついにはその悟性は天空をぶち抜いて、流星の舞う極天で全銀河的な事象を考察しはじめた。 つまりは、思考らしい思考になっていなかった。

「お、落ち着け、落ち着いて私」

 頬をぱんぱんとはたいて輝夜は振り出しに思考を戻した。 よし、段階を追っていこう、まずは現状を確認しようか。 ここは二条院の離れにある、紫苑様の御寝室で。 私はそこのベッドに寝ていて。 何故か半裸で、脱がされた形跡もあって。 そして紫苑様が隣でお休みになっている。

「……ええと?」

 やはり状況は把握できなかったし、脳内での補完もできなかった。 輝夜にはその先の知識はなかったのだ。 そんなこんなで彼女が眼を白黒とさせていると、上半身にかかる重みが、むず、と動いたように感じられた。 「あ」と輝夜が言う間に、茫洋とした目つきで、銀嶺が首をもたげる。

「……んう」

 胡乱げに、こちらを見つめるこの部屋の主。 冷静で、沈着で、しかし表情豊かで快活な姿しか見たことがない輝夜にとって、寝起きの紫苑の姿は新鮮なものだった。 ああ、この方でもこんなにぼーっとされるんだな、と。

「かぐや……?」

「紫苑様……よだれが」

 だんだんと、その血の色をした瞳が焦点を結んでゆく。

「あー……寝てたのね、私」

 窓の外を見て、つぶやく紫苑。 それを呆けたように見ていた輝夜は、音を立てて頬を張られるのに、反応もなにも出来なかった。

「馬鹿」

 頬がじんと痛む。 こちらに向き直った主の瞳は、水底に沈んだ紅玉のように、うるんだ光をたたえていた。

「あれほど一人で動くな、って……」

「え、あ、はい、申し訳ありません」

「馬鹿! あんた、死にかけたのよ!? 私がどれだけ心配して……」

 それ以上、紫苑の言葉は続かなかった。 輝夜の胸に顔を埋めた彼女は、嗚咽を漏らすばかり。

「え、あ、紫苑様……?」

 今日ははじめての事だらけだ、と思考する輝夜は、やはりどこかずれていた。 そしてやっと、昨晩の事が彼女の脳裏に思い出されてくる。

 どうして自分がここにいるかも、大体察しがついた。 私の失態のせいで、この方は泣いているのか――そう思うと、言葉が出ない。

「私のことを護るとかって、いつも口うるさいクセに……! 死んだら全部ご破算なのよ! 誰かを護ることだって、新しいことを識ることだって、もう出来ない!」

「あ……」

「勝手に突っ込んで行って勝手に死ぬなんて、そんなの……無しよ。 許さない……」

 瞬間、輝夜は理解した。 自身のしたことが、どれだけ彼女を不安にさせたか。 彼女が、自分のことをどれほど大切に想い、自分の身を憂いていたのか。

「申し訳……わたしは、何て――」

 紫苑が顔を上げ、その紅い鮮烈な視線が輝夜の藤色の瞳と交錯する。 心臓が跳ね上がるのを輝夜は感じ、速鐘のように高まる鼓動が自身を駆け巡るのを知覚した。

「心配、したんだから、もう、本当に」

  嗚咽まじりの声が耳朶を叩く。 輝夜は申し訳なさを感じる一方で、何故かこの美しい主の涙と泣き顔を見られたことが、何か特別なことのように思えていた。

「馬鹿……」


「……そろそろいいか?」

「蘇芳、様?」

 そんな場所にのそりと現れたのは、この屋敷の主たる月読宮だった。 彼は輝夜にすがったまま振り向いた妹の壮絶な視線をやれやれと受け流す一方で、伴っていた使用人に命じ、一式の軍服をベッド横のテーブルに置かせる。

「とりあえず、着替えは用意させた。 冴月中将殿には私の方からも謝罪しておいたが、叱責は覚悟しておくのだな」

 いつもの淡々とした口調。 しかしそれが輝夜にとってはありがたかった。

「何よ、気を利かせたつもり? 私から輝夜のお父様には謝ろうと思ってたのに」

「明らかに冷静ではないお前に任せられるか」

 む、と見るからに紫苑がむくれる。 普段ならば口喧嘩が始まるところだが、そこを思案げな表情の輝夜が遮った。

「父上は」

「……ん」

 蘇芳が、輝夜の顔を見る。 輝夜はその黒い瞳に対して、伏目がちに続ける。

「何と、申しておりましたか」

「……娘がご迷惑をおかけして申し訳ない、と。 君に対しては、私はなにも聞いておらん」

「そう、ですか」

 蘇芳はありのままを述べたが、それは常に良きこととは限らないという場合が、世の中にはままある。 蘇芳の言葉を噛み締めるようにうつむいた輝夜は、そのままずるずるとベッドから降りると、「失礼いたします」という言葉とともに、着替えを胸に抱えて隣室へ行ってしまった。

 紫苑が非難のこもった目線で蘇芳を見上げたが、蘇芳は表情を少しも変えない。 気まずい沈黙をよそに、隣室からはしばらく衣擦れの音がしていたが、やがて輝夜が顔を出した。

「紫苑様、ありがとうございました。 此度のご恩、けっして忘れません」

 真新しい軍服に身を包んだ輝夜が、ぺこりと頭を下げる。

「……ええ、またね」

 ベッドサイドの椅子に座ったまま、泣きはらした顔に笑みを浮かべて、紫苑はそう答えた。



*****



 しばらく後。

 自宅の道場で、輝夜はひとり立ち尽くしていた。

「私は、何をしていたのだろう……」

 虚空に問うても、当然答えは返って来ない。

 答えは自身の中に既にあった。 義憤だとか正義感だとか、そんな何かに突き動かされ、無謀な行動をした。 それが全てだ。 何の気まぐれか、命は取られなかったが。 あのときは捨て鉢だった気もするし、何としても勝つつもりでいたような気もする。 かといって、勝ったらどうなる、という事を考えていた訳でもなかった。 一大決心をしたはずたったあのときの心中ですら覚えておらず、測れもしない自身がおかしくなって、彼女はふっと自重するように笑った。

 紫苑がつきっきりで治療にあたったためか、身体の調子はすこぶる良い。 改めてお礼をしなければ、と思う。

「ん……?」

 ふと道場の入口の方に気配を感じ、振り向く。 そこには、小柄な自分よりさらに小さな影があった。 この冴月家で輝夜より小さな者は、一人しか居ない。

「ねえさま……」

「……小太郎」

 おずおずと近寄ってくる、十歳以上歳の離れた弟の名を呼んだ後、輝夜は何と言葉をかけたら良いかわからなかった。

「すごく、しんぱいしました」

 くりくりとした大きな黒い瞳は、ただ無垢に彼女を見上げている。 その視線に耐えられず、彼女はかがみ込んで、その小さな身体を優しく抱きしめた。 眼を合わせないように。

「すまない。 本当に……」

 それだけしか言えない。 彼女が弟に持っている感情は、かなり複雑なものだった。 この弟が、自分から大切なものを奪った弟が、しかし可愛らしく、いとおしい。 仮にこの子を恨めたとしたら、憎めたとしたら――そんな考えが浮かぶたび、彼女は自身の心弱さを恥ずる思いに襲われるのだ。

「ないてる?」

 舌足らずな声が、輝夜の心を包んでゆく。

「なかないで。 あねうえがないてると、ぼくもないちゃいそう」

 答えるかわりに彼女は鼻をすすり、弟の背中に回していた手で目元を拭う。 そして、しっかりしろ、と頬を叩いた。 この弟の前で、この姉が弱く在るわけにはいかないではないか、と。

 そして笑顔を作り、立ち上がる。 弟と今度は眼を合わせるようにして顔を見下ろし、くしゃくしゃと頭を撫でてやった。

「さて、父上のところにいこう。 小太郎はこれから稽古か?」

「うんっ」

 精神的な余裕を少し取り戻してみれば、外で門下生たちががやがやと騒いでいるのが聞こえてきた。 明り取りから差し込む光の角度から、彼らの稽古が始まる時間だとわかる。 大方稽古に来たはいいが、私のただならぬ様子を見て入るに入れずいたのかなあ、と輝夜は少し申し訳なく思った。

 小太郎も、その中に混じって稽古を受けることになっている。 輝夜もまた、基礎の稽古は彼らと同じようにこなしてきたものだった。 冴月家の者とはいえ、特別扱いはされないのだ――とはいえ、さすがに二歳の子供なので、内容はそれ向けになる。

「精進するんだぞ」

「はいっ」

 元気よく返事をする小太郎の頭をぽん、と軽く叩いてから、輝夜は道場入口へと近寄っていく。 小太郎が入ってきた時のままに半開きになっている扉の端から、何人かの頭が慌てて引っ込んだ。 自分の泣き顔が丸見えだったことに気付いて思わず赤面したが、何とかすまし顔を作って扉を開ける。

「貴公ら、覗きとはよい趣味だな」

 引き戸を開けた先に居た数人の少年たち――輝夜より年下もいれば、年上もいる――に向かって、輝夜はそう言葉を投げかけた。 慌てて道を作るその中に自分の面倒を見てくれていたこともある師範代の顔を見つけ、輝夜はげっそりとした面持ちで嘆息した。

「藤田どのまで、何をされてらっしゃるのですか」

「いや、まあ、その……」

 藤田と呼ばれた輝夜より十ほど年上の男性が、しどろもどろに後ずさる。

「私はこれより父上にご叱責いただきに参ります。 ……そうですね、その後、一手手合わせを願いたく」

「う、うむ」

 気圧されるように頷く師範代に彼女は一礼し、母屋の方へと歩を進める。

 ――その後姿に藤田は視線を向けていたが、ややあって門下生たちの稽古を始めるべく、手をひとつ叩いてぽかんとしていた子どもたちを我に帰らせた。

 視線を移す前、遠ざかってゆく輝夜の背中は、ひどくか細いものに見えていた。


 輝夜にとって、父・冴月直義は越えることのできない壁のような存在であり、常に父を模範と考えて彼女は自らを鍛錬してきた。 剣士として、軍人としての父の実力と実績は非の打ち所がなく、女ながらに時期当主として彼のようになろう、彼のように在ろうと輝夜は努力を重ねてきた。

 あるいはそれは父への尊敬を越えて、盲信に近いものがあったかもしれない。 その父が悩み、苦しむ一人の人間だと知り、もはや自分を導いてはくれないのだと悟ったとき、彼女はそれを受け入れることができずに、複雑な反発心を抱くことになったのである。

 畳敷きの部屋で、正座で向き合う父娘の間に漂う空気が重いのは、つまりはそういうことだ。

「宮様から、大方の経緯はうかがった。 よく、無事で戻ったな」

「……此度のこと、まことに私の不徳の致すところ」

 正座のまま頭を下げる輝夜。 土下座に移行しようとするところを直義が手で制した。

「いや――いい。 確かに、お前の判断は戦う者としては軽率だった。 真に強き者となるには、敵手に己が勝ちうるか否か、見極められねばならん」

「はい」

 返事こそするが、輝夜がその言葉の意味するところを理解できているとは言い難い。 ”勝てない戦いをしない”という事が強い、ということを理解するためには、彼女はまだ若く、そして直情なのだった。

「だが、人として、お前がしたことは決して間違ってはおらんと俺は思う。 しかしだ、自分の命を粗末にしたということはだな……」

 昔ならば快刀乱麻を断つという言葉を具現したかのような一言で、自分を奮い立たせてくれたのに――そう輝夜は思う。

「ともかくだ。 心配したのだぞ――俺も、香も」

「……義母上が、ですか」

 しまった、と思わずこぼれた言葉を輝夜は悔やんだが、もう遅い。 含まれていた疑問と、それ以上の皮肉は、父にも伝わってしまっていた。

「ん、む」

 ばつの悪そうな顔をする父。 そんな父を見るのが輝夜には辛かった。

「失礼して、よろしいでしょうか」

「ん、あ、ああ……」

 立ち上がって一礼し、輝夜は父に背を向けた。 最後まで、彼と眼を合わせることは、なかった。



 *****



「何であんなことを言ったのよ。 輝夜……いや、冴月の事情、知ってるでしょ?」

 輝夜が寝ていたベッドに腰掛け、足をぶらぶらとさせながら、紫苑は半眼で兄に問うた。 問われた兄は兄で、紫苑が座っていた椅子にどっかと腰を下ろし、片肘をついて妹に対している。

「せめて何か、あの子を気にかけるような事を言ってた、とでもしておけば」

「……お前は、彼女に対して少し甘すぎるな」

 ぴしゃり、と。 蘇芳は紫苑の言葉を遮った。

「私に、すぐ露見する嘘をつけ、というのか?」

「……でも」

「他家の事情にあまり干渉すべきではないからな」

 蘇芳が言うのはあくまで原則論だ。 しかし相応の理由と正しさがあるから、原則は原則となりえるのだ。 その程度、紫苑にも当然理解できている。


 ――”冴月家の事情”、それは基本的に男系長子相続を行う武家ならば、ままあることではあった。

 冴月家の現当主、冴月直義ただよしには数年前まで男子がなく、子は死別した前妻との間にもうけた輝夜ひとりだけだった。 輝夜が剣士として非凡な才能を示したこともあり、輝夜は冴月家の跡取りとなることを期待され、また彼女もその期待に応えようとしていた。

 紫苑と輝夜は父同士の友誼が縁で知り合い、互いにとって数少ない友人となった仲だったが、その頃の輝夜はこの二条院に入り浸るようなことはなく、当主としてふさわしい教養と実力を身につけるべく日々励んでいたのだ。

 そんな輝夜を取り巻く状況が変化したのは、奇しくも彼女が最年少での師範代免状取得を成し遂げた一昨年、二九九六年のことだった。 七月、直義と後妻との間に男児が生まれたのだ。 彼は小太郎という幼名を与えられ、健やかに成長していった。 その一方で、輝夜は半ば自動的に"冴月家の家督相続者"としての立場を失うことになったのだ。

 そんな輝夜に、父は冷淡なように振舞った――わけではない。 今まで次期当主として厳しく接してきた娘に、新たにどう接するべきか、わからなくなってしまったのだ。 戦場においては無双を謳われ、よき指揮官でもあり、またよき剣の師でもあった彼だが、家庭においてはただの寡黙で口下手な男に過ぎなかった。 後妻のほうはといえば、わが子が可愛い、ただそれだけ。 それまで実母という拠り所を失いながらも、冴月家の次期当主にふさわしい者たらんと努力してきた娘は、最も多感な時期の入口にあたる十二歳で、それまで邁進してきた目標と、その努力の意味と、家庭における居場所とを一度に失ったのだ。

 その状況を憂えた紫苑は蘇芳に働きかけ、彼は近衛師団内に要人警護のための隊を創設することを御前会議にて提案し、輝夜を紫苑の警護役としてあてがった。 皇族の側仕えとなるにあたって必要なことだったとはいえ、成人もせず士官学校を出ているわけでもない輝夜の左近衛少尉任官は異例で、蘇芳が参議・親王という立場をかさに着た、と取られかねないことだったが、軍内のポストが増えることにも繋がる人事ゆえに、大蔵省以外から反対の声は出なかったのだった。

 しかし、蘇芳はこの措置を半ば後悔していた。 妹の「友人」であったはずの輝夜が、このことによって「従者」としての立場に縛られてしまったのではないか。 そう思うことが、一再ならずあったのである。


「それで、やはりお前か?」

「そうよ」

 さらりとした、疑問というよりは確認めいた蘇芳の問に、紫苑もまた事も無げに答える。

「左府は息子が山荘で何をしてたか知らなかったんですって?」

「ああ。 宗重卿は、お父上たる左府殿にすら自らの関与する組織についての情報を漏らしていなかったようだ。 あの左府殿のことだ、うすうす感づいていながら見逃していたのだとは思うが。 大立者が倒れた今、不穏分子は一掃してしまうべきだという意見も内務からは出ている」

「そうね……この間私を襲った奴は、形態変容術なんて珍しいものを使ってた」

 だらりとさせていた足を組みながら、紫苑。、

「魔導院が把握している魔術師に、そういうのがいないか。 珍しい技能だから、たぶん何かしら情報はあるでしょ。 洗わせたら?」

 ふむ、と蘇芳は頷いて立ち上がる。

「お前も、すこしは自重することだな。 此度の事件にお前が首を突っ込んだ結果が、これだ」

「……そうね。 そこは反省してる」

 やはり輝夜を暮羽のもとに連れていくべきではなかった、という後悔が紫苑の中にはある。

 自身が刺客に襲われる際、輝夜も大抵はそこにいて、大抵は無傷でその場を切り抜けることができていた。 しかしそれは、武士崩れや武器を持っただけの一般人を相手にして、という場合のことだ。 魔術師相手の戦闘ということの意味を、自分も輝夜も軽く考えていたのではないか。

 その末に今回の事が起こったとすれば、きっとそれは必然的なものだったのだろう、とも紫苑は思う。

「けど、無事で本当に良かった……」

 ……この、心底からの安堵がこもった言葉が、いまの紫苑のまぎれもない本心だった。



*****



 翌日、光宮。

 外からは継ぎ目も窓も何もないように見えるこの塔だが、内側からは京を見渡せるような窓がそこかしこにある。 三十五階の大広間を囲む廊下の外周は全てが窓になっていて、数箇所に休憩所のような場所が設けられていた。

 そのうちの一箇所では、”たまたまばったり出くわした”数人の男女がテーブルを囲んで談笑している。

「火薬庫の上で踊っていた御仁は、見事に果ててしまいましたな」

 鷹亮がそう言うと、蘇芳はぴくりと片眉を上げた。

「その物言い、知っていたな?」

「魔導院として不介入を決定してはおりましたが、焔崎などは出て行く気満々でしたぞ」

 談笑――その実は遮音結界を展開しての情報交換だ。

「しかし、仮に露見してしまえば妹君の立場は悪くなりそうじゃのう」

 扇子で口元を隠しながら言うのは暮羽だ。 扇情的な着流し姿だが、尻尾も耳も今日は隠し、髪の色も変えている。 彼女は京に住まう妖物の代表として、非公式ながら参内を許されており、折に触れて光皇への助言もしていた。

「左大臣殿はいかに?」

「今日の御前会議には姿をお見せにならなかった。 しばし喪に服されるのだそうだ」

 と、蘇芳。

「まあ、後継者と目しておった息子にああ死なれてはのう。 次男坊はまだ政事に携わっては居ないのではなかったか」

「五位修理亮しゅうりのすけではあるが、ま、名目上のものだな」

「工部省がありますからな」

 カップをとりあげ、中の緑茶を蘇芳はすすった。 近くの給湯室で淹れたそれは、あまり美味しいものではない。

 そこに、息せき切って駆け込んできた者がいる。 遮音結界の力場に阻まれた彼女は、慌てたように見えない結界を叩いた。

「おや……?」

 蘇芳は名前は知らなかったが、魔導院に赴いた時によく見かける鷹亮の秘書官だった。

 彼女は鷹亮が結界を解除すると、何事か彼に耳打ちし――鷹亮の顔色が変わった。

「どうされました」

「何かあったのかや?」

 蘇芳と暮羽が揃って問うと、鷹亮はひとつ咳払いをして、神妙な面持ちで答える。

「――泰華宮様が、亡くなられたそうだ」

 蘇芳と暮羽は、揃って顔を見合わせた。



 *****



「主上、小野宮で御座います。 お招きに応じまかりこしました」

 同刻、光皇の寝所には、侍医が止めるのも聞かずに床から半身を起こした光皇の命で、内大臣・小野宮透が呼ばれていた。

 光皇・天照八十四世――かつて幕府を倒し、西の薩摩・長州・土佐・肥前、北の会津・米沢・最上・仙台といった雄藩を切り従えて、長らく武家の手にあった政権を自らの手に取り戻し、さらにその後の諸改革を自ら主導した”大帝”である。 そのやせ細った弱々しい身体に往年の覇気は見て取れず、しかしその眼には未だに英明な光があった。

「ご玉体に障るといけませぬ。 どうかご自愛くださいますよう」

「よいのだ」

「は……?」

「自分の身体のことだ。 わかるのだよ」

 ひざまずいたまま、内大臣はいたたまれぬ思いになった。 病魔に冒された光皇にとって、こうして喋ることすら、多大な苦痛を伴う行為なのだ。 侍医が処方した痛み止めがなければ、起き上がることすらかなわない。 いわんや、政務を執ることなど最早もっての外だった。

 それでも摂政が置かれないことには、いくつかの理由があったのだが――

「泰華宮が、死んだそうだな」

「は……」

 脳裏に思い出されるのは、旧友の"厳か"という言葉をそのまま表したかのような顔だった。 数日前までは元気そのものであり、将棋を指したりもしたものだが、あまりにも突然の死のように内大臣には思えた。

「早いものよ。 余も他人の事を言えたものではないが」

 光皇も泰華宮もまだ六十代。 老境に差し掛かったばかり、といえばそうだった。

「余もまた老いた。 ましてこの身体だ、自ら政事を総覧する、などという過日のごとき働きは最早できぬだろう」

「そんな事は……」

「よいと言ったぞ。 ……故に命ずる。 摂政を置くのだ。 律令に則り、その者をして余の代行とし、余のもつ全権を与える」

「……恐れながら主上、その儀は!」

 面を上げて何かを言い募ろうとする内大臣を、光皇は震える手で制した。

「こうして命ずるならば時期は選べるが、死ぬ時期は選べぬのでな。 対外情勢が安定しておる、今のうちが良いと余は考える」

「ならば、せめて立太子の儀式をなさいませ! さすれば」

「ならぬ、それは新摂政がはじめに行う任とする。 余の考えがわかるか、透よ?」

 頭を垂れたままの内大臣にも、光皇の声に笑みが含まれていることがわかる。 同時にその意図するところを察し、彼は慄然とすると共に、得心もしていた。 このまま御前会議における二派の水面下での暗闘が続き、後々まで尾を引き続けるならば、ここでそれを顕在化させ、片方を断ち切ってしまうべきだ、ということを光皇は暗に言っているのだ。

「あえて……相争わせようと?」

「然り。 余は少々急ぎすぎた、と最近思うのだ。 故に、ひとつ選択の機会をもうけたい」

「……よいのですね?」

「余は、命じたぞ」

「では、そのように致します。 ……主上の御意のままに」

 さらに深々と頭を垂れて、老臣はそう言明した。


 退出してゆく旧友の後姿と、入れ替わるように戻ってくる侍医とを見比べながら、老いた光皇はひとつの安堵を得ていた。

 彼にとっての二つの心残りのうち、ひとつがこれで終わったのだ。

「……紫苑よ」

 もうひとつのことを思い浮かべながら、彼はか細く呟く。

「あれは、余を恨むだろうな……」

 ――窓の外の空には、暗雲が厚く垂れ込めていた。



 これにて一章終了となります。 ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございます。

 読み辛い部分、わかりにくい部分、多々あったと思いますが……。

 

 次回からは第二章、紫苑サイドに主に焦点が当たります。

 新たな登場人物も加わって、硬い会話ばっかりだったのがもう少しライトになる……と思います。

 では コンゴトモヨロシク

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