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神々の庭のクロニクル  作者: 御神楽てるよふ
黎明の皇国、ふたりの少女
6/13

第五話 硝子細工のケモノ

 何と言うかな。

 あ奴は不遜だし、倣岸だし、不敵だし、傲慢でもあるし、棘々しいし、そして勇ましく、気高い。

 誰ぞ、あれのことを雌獅子と例えた者もあったな。 しかし……

 酷く脆く、そう、硝子の如き危うさ、脆さを持ってもいる。


 本当に恐ろしいのはそこだ。 その脆き硝子細工を、命知らずにも叩き割った者がいるとしよう。

 その者は只では済むまい、鋭い硝子の欠片は容赦なくその手を傷つけ、血を流させるだろう。


 ましてその硝子細工の内に、煉獄の火と形容できようほどの烈火が渦巻いている、となればな……。



 ――御神楽蘇芳、妹を評して曰く。



 *****



「輝夜が!?」

 魔導院からの伝令が告げた言葉に、紫苑は激しい動揺を見せた。 柳眉はきっとつり上がり、眼をかっと見開いて伝令の肩を掴む。

「お、落ち着いてください殿下」

「あの馬鹿……!」

 紫苑は後悔していた……が、後悔は先に立たず、仮に立てたとしてもどうしようも無かった。 既にこの舞鶴行きの予定は確定していたし、皇族としての仕事をこなすことは、自身が果たすべき最低限の責任であると、紫苑は考えているからだ。 自身の奔放な振る舞いが天照に許されているのも、こうして責任を果たしているが故だ、と彼女は思っている。

 とはいえ迂闊だった。 輝夜の性格を考えれば、自分が不在の間に動きかねないことくらいは容易に想像できたはずだ。 もっと強めに釘を刺しておくべきだった、とか、蘇芳や輝夜の父にも協力を頼むべきだった、とか、そんなことが頭をよぎる。

 いや、"IF"は厳禁! と紫苑は顔を上げ、青い顔の伝令――紫苑への連絡に駆り出された『禁軍』玄武支隊所属の青年を八つ当たり気味にひと睨みすると、決然と立ち上がった。 その秀麗な顔立ちは今にも泣き出しそうに歪んでいるが、細められた眼の奥の瞳だけは、烈火のごとき輝きを放っている。

 思わず地団駄を踏みそうなほどにその感情は荒れ狂っているのだが、それで事は動かないことはわかりきっている。 仮にそうすることで何かが進展するなら、この舞鶴基地の床をことごとく踏み抜く程度のことはするかもしれなかった。

「今すぐ京に戻るわ。 そこの、ええと……」

「『なでしこ』型007番、初音でございます」

 相変わらず扉の脇に控えている自動人形の側に紫苑は歩み寄り、何事か耳打ちする。

「かしこまりました。 復唱します」

「しなくて良いッ! とにかく体調が優れないだとかで押し通して」

「承知いたしました」

 すまし顔で一礼する初音。 どうしてあんたは、と紫苑は言いかけて相手が人形であることを思い出す。 そこで、伝令の青年が我にかえった。

「し、しかし殿下! この後は祝賀晩餐会が」

 紫苑の予定を思い出し、思いとどまらせようとする青年の一言は、しかし火に油を注ぐ結果にしかならない。

「黙れ、下郎!」

「ひっ」

 理不尽に道理を粉砕する怒声と共に、感情が具現化したかのような熱風が吹きつけ、絨毯の毛がちりちりと音を立てる。 伝令が平謝りするのを聞き流しながら、紫苑は身に纏っている豪奢な礼装の袖を引っ張ってみせた。

「初音、手伝いなさい。 これ脱ぎにくいの」

「はい」

「あんたはさっさと出て、あとから私の荷物を京に運ぶ手配!」

「は、ははあっ!」

 初音を従えてクローゼットの前に移動する過程で青年の尻に向かって叱りつけ、その間に思考は高速で展開する。 輝夜は何と遭遇したのか、まだ生きているのか、この無茶を押し通すことによって生じる御小言おこごとにどう対処するか、蘇芳はどんな言葉で私を嘲笑うか、それにどう返してやろうか、もし生きていたとして輝夜は私の顔を見て何と言うか、傷ついたであろう彼女にどう接するべきか、そして相手にどれだけ残酷な報復をしてやろうか、まとまりのない思考が入れ替わるように連続し、吐き出される結論は幾つかを除いてすべて「不明」。 こんなにも自分の思考力はお粗末だったか、と紫苑はまた歯軋りした。

 その表情からは、普段の余裕は微塵も感じられない。 そんな彼女に一番驚いているのは、ともすると彼女自身なのかもしれなかった。 何故こんなにも動揺しているのか、その根差すところを確かめるためにも、彼女は今急いでいた。



 *****



「お待ちなさい、姫君よ」

 京の郊外、人気の無い街道を飛ばしていた紫苑は、その声を聞いて前方に立つ魔術師の姿を認識した瞬間、全身にみなぎる感情を魔力に変えて叩きつけたい衝動を抑えるのに全力を尽くさねばならなくなった。

「ふう……私の首は皮一枚で繋がったようだ」

 肩で息をする紫苑の前でやれやれと肩をすくめるのは旧知の顔。 激情を押さえつけてなお、周囲に広がる早春の草原がちりちりと音を立てる。

「ユリウス殿下!?」

 それは黒い棒のような姿だった。 黒ずくめの司祭服と白い肌の中で、切り揃えられた金色の髪と蒼氷色の瞳だけが色を主張している。 目の前の姿は、エル・ネルフェリア王国第二王子ユリウス・レピドゥス・クラウディウスという属性を持っていたはずだが、何故このような場所にいるのか? そして、路地裏で感じ取った、あの魔力の残滓――。

「……解らないことだらけだわ!」

 銀色の髪を振り乱して吼えれば、今度は草が千切れて火の粉と化した。

「混乱してますねえ。 無理もないとは私も思いますが、なんとか押さえていただけますか。 山火事になりかねない」

「相変わらず迂遠な物言いが好きでいらっしゃる。 用が無いなら退いてくださらない!?」

「いえいえ、お伝えしたいことが。 まず、私は『例の件』の調査を仰せ付かっているのですよ。 姫殿下なら、きっと私の痕跡を捉えていらっしゃることと思いますが」

「……正解ですわ殿下。 それで何か掴めまして?」

 口調くらいは平静を保とうと紫苑は努めたが、その目論見が成功しているかどうかは自信がなかった。 笑顔もきっと引きつっている。

「まずひとつ。 今回の件の犯人は……自己変容術者シェイプシフターだ。 非常に特異な形態の魔術であるが故に、先天的な素質無しで行使することは難しい。 被害者は、彼ら彼女らに親しい者に変容した犯人によって、人気の無い場所に呼び出されたようですね。 それからもうひとつ、他者から霊子を直接奪わねばならぬ程に傷ついていた。 ここ数日は落ち着いている様ですが」

「霊子を奪う……そうか、喰ったということは、そういう意味もあるか。 私は食人嗜好か吸血依存だと思ってた……」

「術式暴走で構成霊子をかなり失ってしまった、というところではないかと」

 ――魔術学においては、物質の根幹は霊子から成るとされる。 応神においては、数少ない天魔戦争以前の文献に残されている物質創造魔術の記録が論拠の、あまり主流とは言えぬ説だった。 が、現代の魔導王国エル・ネルフェリアを支える物質変換術が「物質を構成する霊子を操作する」という、かの説の裏づけとなるものだったため、一気に定説となったのだ。

 魔術行使の際には通常、周囲の空間に存在する霊子を内部に取り込んで貯蔵した”魔力”を消費するが、万が一魔術が暴走した際に、魔力を消費し尽くし、自身の構成霊子までが術式に吸われてしまうことがあるのだ。

「構成霊子を三割以上失った存在は崩壊を始める。 人間とて例外ではないものね」

「それを止めるには霊子を他所から奪う他ない。 人間には人間が最も適する」

「……故に喰らった。 それで?」

「私はそれを追っていた。 昨晩、貴女の従者が交戦し、敗北した場面に、私は寸でのところで間に合わなかった……」

 その言が、紫苑の感情を封じ込めていた扉が打ち破られる切欠となった。 圧力すら感じるほどの魔力が紫苑から解き放たれ、ユリウスの頬に一筋の汗が伝う。

「安心なさい、彼女は無事だ。 奴は何者かからの指示を受けて行動しているらしく、倒れた彼女を何処かへと連れ帰ったのです」

「利用価値があると踏んだ……ということ? 」

 紫苑の脳裏に真っ先に思い浮かんだのは、兄ら改革派の政敵、国粋派の領袖たる左大臣・九条頼常のでっぷりとした顔だ。 とはいえ、老練な政治家として鳴らしたはずの九条が、しかも兄ではなく自分に対して、こうも短絡的な手段に出るものだろうか。 そう紫苑の冷静な部分は思考する。 確かに自分の西洋趣味は宮廷内で良く思われていないし、言動は反発を招くこともしばしばだが……。

「それで、どこに」

「……残念ながら、お伝えして良いと言われたのはここまでです」

 冷たくなってゆく気配と共に、ユリウスはかぶりを振った。

「……殿下は一体、何処の飼い犬になられたのかしら。 友人として情けなく思いますわ」

 す、と目を細め、紫苑は挑発の言葉を投げかけてみた。 しかし相手は苦笑を返してきただけで、それ以上の反応を示さない。

「まあ、京に戻られたならば、先方から何かあるのではないですかね」

 その言葉が終わるのを待たず、飛行術式を再展開し、紫苑のつま先は砂煙と、そして火の粉と共に浮かび上がった。

「……行くのですね」

「殿下。 貴方の飼い主が、何を考えているかは私の知ったことじゃない……けど」

「けど?」

「降り掛かる火の粉の元は、跡形も無く吹き飛ばす。 殿下もどうぞ、ご留意下さいな……!」

 前方に展開するのは五重の加速術式。 言葉を切り、空を蹴って一歩踏み出した紫苑の姿は、ひとつの術式に触れるごとに速度を増し、解き放たれた矢のごとき速さで疾駆してゆく。

「輝夜……!!」

 焦燥と、共に。



*****



「さっさっさー、っと」

 寒々しい風が吹き抜ける十一月、夕刻の往来。 紫苑が居ないことで日ごろの仕事から解放されている理緒は、竹箒を手に門前の落ち葉を掃き集めていた。

 騒々しい主だったが、居なくなってみると案外寂しいものだ。 それに日ごろから同僚や先輩達が噂しているほど怖い人でもなかったし。

「お帰りになられるのは明日だったっけ。 舞鶴に一日御泊りになって、明日の昼発たれるんだよね」

 これでは自分が寂しがっているみたいだ、と可笑しくなって、彼女は内心で苦笑した。

 そうこうしているうちに、門前にこんもりとした落ち葉の山ができあがる。 市で薩摩芋が安かったということを、そこで理緒は思い出した。 邸内に財布を取りに踵を返そうとした際、遠くに見える影が、なぜか目に入った。

 ぼろのような服を身にまとった、白い肌と、青みがかった銀色の髪。

「あれ、って……」

 思い当たるのはただ一人。 ただ一人だが――何故こんなところに、しかも、あんな姿で?

 理緒が疑問を感じている間にも、影はずんずんとこちらに近づいてきており、はっきりと顔が認識できるまでになる。 向こうも気づいているのだろうが、表情は柳眉が吊りあがった、一言で言えば凶悪なそれから少しも変化しない。

 あ、あれ、私何かしたっけ、いや別にそんなことはないはず、と理緒は思わずここ数日の自らの行状を振り返りはじめた。

 そうこうしている間にも彼我の距離はどんどん近づき、真紅の視線に射竦められたかのように動けなくなってしまった彼女の目の前に立ったぼろぼろの服をまとった内親王は、ただ一言だけ、

「……ただいま」

 と告げ、門の内へさっさと入っていってしまった。

「お、おかえりなさいませぇ……」

 かたかたと震える理緒はそれしか言うことが出来なかったが、「視線で死ぬかと思った」と、後に同僚に語るところだった――。


「お帰りなさいませ、紫苑様」

 倒れて寝てしまいたくなる自身に活を入れ、本邸の自室で服装を整えて向かった中庭。 葉もほとんど残っていない池の中洲に、示し合わせていたかのように求めていた姿は在った。 在って欲しい姿だったが、ユリウスの言が事実ならば、在るはずのない姿でもあった。

「ただいま、輝夜。 まったく、心配させて……あれほど一人では動くなって、言ったじゃない」

 ともすれば暴発してしまいそうな感情と全身を包む疲労感とを、意思の力で抑え込み、紫苑は泣き笑いの表情を作る。

 ことは慎重に成さねばならない。 出力の調整を誤れば全てがおじゃんだ。 慎重に術式の構成を思考しつつ、それと悟られぬように眼前の姿に歩み寄る。

「いえ、私の方こそ……軽率でした」

「ホントに悪い子だわ」

 右足から踏み出して近づいてきた姿に目を細める。 身にまとう応神の女性用軍衣の少尉を示す襟章、何よりも胸元に刺繍された「冴月」の紋が、それが輝夜のものだと物語っている。 ごめんね、輝夜、あなたの一張羅駄目にしちゃうわ、と紫苑は内心で詫びて、そして、行動した。

「そうね――お仕置きが必要よね」

 言葉を契機として、術式は発動した。 展開された式に堰を切ったように魔力が流れ込み、術者が望んだ現象を世界へと顕現させる。

「?!」

 姿が、驚きと恐怖の表情を輝夜の顔に貼り付けて飛び退ろうとして、着地した先で平衡を崩しよろめく。 あったはずのものが消失したことで、体の平衡を取り辛くなったのだ。 自身の右腕が丸ごと消失していることにそれが気づいたのは、その後だった。

 否、”焼失”していた。 袖の断面は黒く焼け焦げ、ぶすぶすと音を立てている。 熱を感じる暇もない一瞬で、それだけのことが成された。

「良く出来た変装だったわ。 自己変容術、見るのは私も初めてだった。 疑っていなければ、或いは騙されたかもね」

 それを成した術者は、口元に獰猛な笑みを浮かべ、自らの敵に射殺さんばかりの視線を向ける。

「けれどミスがひとつあった。 単純といえばとてもとても単純なものだけれど」

 ざ、と紫苑の履く草履が地面とこすれて音を立てる。輝夜の姿をしたままのそれは、苦痛と狼狽の表情のまま一歩後ずさる。

「あの子、左利きなの。 利き足もね。 簡単でしょう」

 教授するような口調。 そして次の式が起動され、十数のまばゆい光弾が彼女の周囲に浮かび上がる。

 激痛に顔をゆがめた敵の姿が”溶けた”。 ぐにゃりと飴細工のように変形し、中型の四足獣のような形態へと変容する。 右前脚は欠けていない。 輝夜の軍服が、抜け殻のようにぱさりとそこに落ちた。

「サイズは小さくなるけど、欠損部位の再構成も可能ということ? 面白い」

 一瞬だけ学究者の顔になった紫苑が、心底からそう呟いた。 そうしている間に、獣に変態した敵は文字通り尻尾を巻いて逃げ出そうとする。

「良ぉし」

 想定通りの反応だ。 即座に光弾を開放し、さらに眼前に加速術式を展開。 追尾術式を仕込んだ光弾は、”当たらない程度のスレスレの距離”を何度も行き交い、相手の危機感を煽ってくれるはず。 思考しつつ、クラウチングの体勢に入る。

「さあ……あんたは利口な犬かしらね」

 そして、追跡を開始した。 撃ち放った光弾は十六、その光跡を追い加速術式を突き抜け、まずは二条院の塀に飛び乗り走り出す。 敵も四足の形態のまま加速術式を前方に展開、しかしその形成スピードは紫苑に比べると遅い。 それでも二重の式を起動しさらに加速するが、紫苑はそれに対して別の式で応じた。

 ――舞鶴から京への強行軍をして理解したことだが、ただ”自身を加速させる”だけでは、身体にかかる負荷が非常に大きい。 輝夜が符を通じて行うような筋力強化よりは幾分かマシだが、空気の抵抗や地面から伝わる衝撃が確実に体力を奪うし、服もボロボロになってしまう。 故に、紫苑が採った新たなアプローチは、負荷を削るというもの。

 自ら眼前に展開した術式を突き抜けると、身体がふっと軽くなるのを感じる。 自身にのしかかる空気抵抗、そして重力をも軽減する術式を一瞬で紡いでみせた内親王は、軽やかに塀を蹴って飛び上がると、敵の眼前に着地してみせた。

 騒ぎに気づいた往来がにわかに騒がしくなる。 塀の下方を一瞥すれば、通行人たちが怪訝な顔でこちらを見ていた。 視線を戻し、泡を食って急制動をかける敵に対して数条の熱衝撃波を放つ。 それらはどれも命中せずに足元の塀の瓦やさらに下の地面を吹き飛ばしただけに終わったが、立ち上った土煙が敵の姿を紫苑から見え辛くした。

 悲鳴が上がり、蜘蛛の子を散らすがごとく二条大路を人々が逃げまどう。 敵は土煙に紛れて大路に降り紫苑を撒こうとしたが、最初に彼女が放った光弾がそれを許さない。 わざと追尾を弱められた十六発の魔術が、四つ足で地面を蹴って逃げる敵の数瞬前まで居たところを正確に射抜いてゆく。 シャボンのように弾けた光弾から、飛沫のような残滓が飛び散り、夕暮れの往来に光を振りまいた。

 光球が穿った地面の軌跡を紫苑は追う。 敵は四足の先端だけを蹄に変え、さらに速度を上げた。 朱雀大路との交差点をターン。 京の目抜き通りは人でごった返していたが、もとより大型犬程度の大きさの敵はその中をするりするりと抜けてゆく。

 一方で紫苑は大路の半ばで立ち止まり、敵の視界と感覚から外に出た。 牽制の攻撃はもう放たない。 人ごみに紛れて、自分を撒けた――そう思わせるために。 敵の身体に付着させた魔力残滓を追えば、居場所は即座にわかる。 都の人ごみの中から小石程の自身の痕跡を捜し出す――禁軍級の魔術師にしか出来ないような芸当だが、紫苑にはそのうちの、しかもかなり上の方にいる自負があった。 物心ついてから父が亡くなるまでの十四年、かつて皇国最強と呼ばれた父のもと、ずっと厳しい教育と訓練とを受けてきたのだから。

 全身が重い。 ほぼ一日中魔術を行使し続けたせいで、三日分の魔力を使い切ってしまった。 だけどね、と紫苑は胸中で呟いた。

 ――あんたを、飼い主ごと消し炭にしてやる程度は、余裕だわ!

 自身を鼓舞しながら、紫苑は黄昏の都を疾駆し、京のほぼ中央に位置する邸宅の屋根の上で深く集中した。 自らの存在を周囲に溶け込ませ、拡散させてゆくような心象を想起しながら、感覚を広げてゆく。

 馴染み深い、自分の魔力を見つけた。 脳裏に浮かぶ京の地図に、それは白い光点として明滅している。 敵手を捉えた紫苑の心の水面は、しかし少しも揺らがない。 彼女はただただ冷静に目標の位置を追い、予測される目的地を割り出すことに注意を注いだ。 結果、相手はどうやら京の西、嵯峨野や嵐山といった方面へと向かっていると判明。

 そのあたりには、九条家の山荘があったはずだ、と紫苑は自身の記憶を探る。 記憶から探し出したその位置とたがわぬ場所で、意識内の光点は移動を止めた。

 思わず笑みが漏れた。 こうまで上手く行くとは、そしてまさか本当に九条の手の者だとは。

 にいと口の端を歪めた紫苑は屋根を蹴り、黄昏の空を矢のように飛翔する。 目指す場所はただひとつ。

 恐らく、輝夜が現れたのは想定外の出来事なのだろう。 しかし、九条頼常が宗重のどちらか、短絡的なこの手段からして十中八九宗重の思いつきめいた差し金で、輝夜はその場で殺される事なく拉致され、その外見は自身を暗殺する道具として使われたのだ。

 紫苑としては、それだけで死に値した。

 自身が行く先にはきっと罠がある。 あるいは宗重は想像以上に阿呆で、成功を確信していて何も用意していないかもしれない。 紫苑にとっては、どちらでも良かった。 立ちふさがる障害があれば、そのすべてを自身の炎で焼き払ってやるまでだ。

 そして、宗重を、輝夜を殺さずに居てくれた事への最大限の感謝を込めて、丁重に荼毘に付してやろう、そう意思を定める。

「ふふ、あはは……あははははッ!!」

 含み笑いは、哄笑に変わり――硝子細工の獣は、今まさにその内に秘めた獄炎を溢れさせんとしていた。



*****



 そこは奥嵯峨と呼ばれる山中の、小さな山荘だった。 伝統的な書院造に従った趣のある佇まいで、周囲はさる大貴族の所領として、人々の立入りは禁じられている。 その貴族の氏は藤原、姓は九条といった。

 その床の間には、二十半ばに差しかかろうかという年頃の、神経質そうな青年の姿がある。

「ふむ……」

 白い石を手に碁盤に向かっている彼だったが、意識はその盤上には無い。 考えているのは、昨日手に入った思いもかけない収穫物がもたらす成果についてだ。

 話に聞く溺愛ぶりを考えれば、”餌”に標的がかからない可能性は低い、と彼、九条宗重は踏んでいた。 そもそもこの事態は完全に想定外のことだったが、それを期に常日頃から天誅を下さねばならないと考えていた相手に対して行動に出ることができたのだから、それもまた良し、というものだ。

 なにしろ、その標的にはずっと辛酸を舐めさせられ続けてきたのだ。 宗重自らも関与する、さる攘夷組織は”西洋かぶれ”の人物を襲撃するという事件を繰り返してきたが、紫苑を標的とした襲撃だけはことごとく失敗し、そのたび構成員が目減りしている。

 今度こそは、成功するかもしれん。 ――などと胸算用をしている彼の耳元に、どすんと、何か重いものが落ちる音が響いてきた。

「……?」

 不審げに振り向いた彼は、恐ろしいものを目にすることになった。

「ごきげんよう、権亜相ごんのあしょうどの」

 たちのぼる陽炎、吹き寄せる熱波。 白銀の髪を揺らめかせ、御神楽紫苑がそこにいる。

「わたしの不出来な従者が、どうもお世話になっているようで」

 彼は反射的に逃げようとした。 感情や打算抜きでの、本能的な恐怖を感じたが故だ。 しかし、賢明に足を動かそうとしても、腰を持ち上げようとしても、少しも身体は動かない。 貼り付けたような笑顔の中で微塵も笑ってなどいない、紅い視線に影を縫い止められてしまったかのようだった。

「あら、面白いお顔とお声。 そんなに私がここに居るのが意外だったかしら」

 逃走あたわずむなしく口を開閉させる宗重に、嘲弄まじりの声が浴びせられる。

 嘲りの表情も露な内親王の、着物の裾からのぞく白い足の下には、黒い塊があった。 それが何か、彼には理解はできなかったが、それが恐ろしいものだとは、はっきりと感じられた。

「お返しするわ」

 彼女はそれを蹴って寄越した。 宗重はこちらに飛んできた黒い塊を、反射的に抱きとめ、それに視線を落とす。 西瓜大の黒く丸い物体、ほとんど炭化した球体のある面にはいくつかの落ち窪んだ穴が見え――

「ひ、ひッ!?」

「随分便利な部下だったみたいだけど、そうなっちゃ誰でも同じよねえ」

 くつくつと紫苑は嗤う。

「こ、こ、殺したのか」

「異なことを。 相手を殺そうとするって事は、殺されても文句を言えないってことよ」

 ああ、死んだらどのみち何も言えないか、という言葉に続いて振ってくる邪気のない笑声。 部下だったものを抱え、座ったままの姿勢で宗重は数歩後ずさった。

「輝夜はどこ」

「え、えあ」

 言いよどんだ瞬間、隣にあった碁盤が消し炭になった。 周囲の畳を道連れにして黒い塊と化した元・碁盤を横目に、宗重は震え上がる。

「どこ!」

「お、奥だ。 奥の部屋に」

 そうして、奥の襖を指差した瞬間、彼の身体を猛火が覆い尽くした。 そのことに気付く暇すら与えられず、彼の意識は煉獄のごとき熱量によって刈り取られてしまっていた。 この瞬間、この動乱における最初の公家の死者として、九条宗重の名は、恐らく本人にとっては不本意ながらも、歴史に刻まれることとなった。


「輝夜!」

 襖を開けた先の座敷に、静かに横たわっていた少女を見止めた紫苑は、足がもつれそうになるのにも構わず駆け寄り、その華奢な身体を抱き起こした。 首元に手を当ててみると、確かな拍動を感じる。 とりあえずは、生きている――眠らされているのか。 サラシが巻かれた膨らみかけの胸が、弱弱しいが規則正しく上下しているのを見て、紫苑はほっと安堵の息を吐いた。  見える範囲には、傷跡もない。

 あらためて輝夜の姿を見れば、白い肌に、サラシと下帯しか身につけていない。 髪を縛っていたリボンも解かれ、美しい黒髪は流れるままになっている。 脳裏によぎった嫌な想像を、紫苑はかぶりを振って振り払った。 大丈夫だ、さっき焼いた奴は少女趣味とかではなかったはずだ、と。 すこぶる自分勝手な言い草だが、もし輝夜が傷物になっていたら末代まで本当に呪ってやろう、と彼女は思っていた。

 これ以上、こんなしどけない格好をさらしておくわけにはいかない。 誰が見ているわけでもないが、輝夜は自分と違って、まっとうで、まっさらでなくてはいけないのだ。 そんな事を想いながら、紫苑はぐったりとした輝夜を抱きかかえる。

「帰りましょう」

 穏やかな寝顔を覗き込みながら優しく言葉をかけて、術を紡ぐ。 物質転送術式、大盛り(人間二人分)。 常人では術式の複雑性、制御の困難さ、消費魔力量の三点で行使しえない術を、しかし紫苑は扱える。

 彼女がたまに、自分は何者なのだろうか、という疑念に囚われることがあるのは、こういったことの異常性を紫苑自身も十二分に認識しているが故だ。

 しかし今は、疑問に沈む時間はない。

「私たちの家へ」

 言葉を最後の鍵として術は成る。 生じた真空に空気が流れ込む独特な音を残し、二人の姿は炎に包まれゆく山荘から消え去った。


どうみても悪役です

ほんとうにありがとうございました


9/8 誤字修正

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