第四話 蛮勇と代償
――い草の香りは、嫌いじゃないわね。
紫苑がこの部屋に抱く感慨といえば、その程度のものだ。
何種類もの礼装が詰まった桐箪笥と、部屋着の入った行李、それと離れから持ち出した数冊の書物しかない部屋は、彼女がこの邸の主のひとりであるにも関わらず、邸内の自室で過ごすことがいかに少ないかを物語っている。
そこで出立の準備をしながら思い出すのは、先年に公務で訪れた、エル・ネルフェリアでのことだ。
はじめての海外公務であり、行き先がかの古代魔術国家エル・ネルフェリア本国とあって、彼女は蘇芳が引く程に浮かれていた。 一行はエル・ネルフェリアの王城たる水晶宮の何部屋かを滞在の場として供されたが、子供のようにはしゃいでいた彼女は、賓客としての不自由はないが窮屈な扱いに耐えかね、よく部屋を抜け出しては外に歩きに出ていたのだ。
「おや……? 斯様な場所に、どなたかな」
背後から声がかけられたのは、水晶の透過光で青く染まった、宮殿の奥まった一角でのこと。 人の気配がしない、静寂に包まれた場所で、その声はよく通っていた。
振り向いてその姿を目に収めただけで、相手が強大な魔術師だと理解できた。 自身の背後に突然現れたように思えたのは、気配遮断か、或いは応神でも片手で足りる程の術者しかいない本物の空間転移か。 紫苑は若干の警戒と、それ以上の好奇心を胸に、現れた人物を観察した。
エル・ネルフェリア王家に共通する癖のないブロンドと、氷色の瞳に、長身だが華奢な体躯。 物語から抜け出てきたかのような貴公子然とした容姿は、完璧に過ぎて、それ故に言い知れぬ心地の悪さを感じさせるところがあった。
「その服装……いま逗留なさっているという、東の姫君ですね?」
「左様に。 月夜見宮家の紫苑と申します。 貴方は?」
「女性に先に名乗らせてしまうとは、これは失礼。 ユリウス・レピドゥス・クラウディウスです、外つ国の姫君よ」
クラウディウス家はエル・ネルフェリアの王室だ。 歓迎式典の時に姿を見なかった第二王子の名前がユリウスだったかしら、と紫苑は自身の記憶を確かめた。
それからは、互いの部屋で紅茶を飲みながら、それぞれの国を取り巻く国際情勢や魔術についての話をした。 符術の行き着く最終形とも言える魔導機械のことなどは、特に興味深く聞いたものだ。 それはユリウスにとっても同様だったようで、応神特有だという符を応用した個人による多数術式並列制御のことについて、色々なことを聞かれた。
そこには異なる国の貴顕同士といったてらいやしがらみもなく、ただ二人の魔術を求道するともがらだけが在った。 ただ興味の赴くまま、話題を二転も三転も四転もさせ、卑近な噂話から学問上の話題までも語り合ったあの数日間は、黄金にも勝るほどの貴重な時間だった、と彼女は自らの中に位置づけている。 そして、そのような時間を共有できる相手こそ、「友人」と呼ぶのだろう、とも。
故に、御神楽紫苑の中では、ユリウス・レピドゥス・クラウディウスは友として記憶されていた。
その友の痕跡が、凄惨な事件の現場で感じ取れたのだ。
――数週前に、病に倒れたという報せを受け取ったはずの、友の痕跡が。
輝夜め、あの調子だと絶対に納得してないな……と苦々しく思う。 あの時の自分は動揺し、冷静さをいささか欠いていた。 感情に任せた物言いでは相手の論を封ずることはできても、その心中まで塗り替えることはできないということを、紫苑はよく知っている。
まあ、冴月の家にいるなら大丈夫でしょう、と、このときは少々楽観的に考えていたのだったが。
*****
それから数時間して日も暮れたころ、皇国海軍舞鶴基地の貴賓室で、紫苑は退屈な時間を過ごしていた。
この度進水する戦艦『扶桑』は、皇国海軍初の戦艦であり、部分的ながら皇国内の造船所で建造が行われたなど、皇国にとって様々な意味で記念すべき艦だが、紫苑にしてみると、あまり興味を惹かれるものではなかった。 戦艦が一隻だけあったところで、ハッタリ以上の意味は恐らく無い、と彼女は思っている。
結局、戦力はそれを発揮しうる環境を整える戦略や運用法があって初めて意味を持つ。 そういう意味では、多数の人員を必要とし、大量の資源を喰う大型水上艦より、個人レベルで重砲級かそれ以上の砲撃力を発揮し、また他の戦術にも対応しうる魔術師の方が柔軟性で勝る、と紫苑は考えている。 もっとも、魔術師の才は天賦のものであり、ある程度の水準を越えると努力では埋めがたいところがあるのに対し、このような戦力は一般人に適切な教育と訓練を施せば運用が可能となる、という利点があることは認めていたが。 しかも、魔術師は単独で水上には出られない。
――逆に、この手の戦艦を沈められてこそ、って時代になるのかしらね?
そんな事を考える。 陸戦においては、後装式ライフルの普及による射撃間隔の大幅短縮と射程の長大化により、並の魔術師の大多数が役立たずの烙印を押された。 あるいはこの種の艦が搭載する艦載砲や、陸戦において運用される大型砲が、自分たち魔術師を凌駕する時が来るのかもしれない。
そこまで考察を進めて、軍事のことをこうも考えるお姫様、ってのもどうなんだろう、と紫苑は自嘲気味に苦笑した。 とはいえ、彼女は自身の本質は皇族だとか内親王だとか、そういったものよりも、父親につきっきりで叩き込まれた魔術というものを探求する学究の徒だと思っていた。 魔術およびその使用者の価値について、さまざまな側面から考察することは、むしろ自然なことだった。
それにしても、豪華は豪華だが、何もない部屋だ、と紫苑は思う。
白い壁と四方に立つ柱には金色の――多分メッキだろうと信じたくなるようなレベルのきらびやかな装飾がなされ、豪華な天蓋つきのベッドと、来客を迎えるためのテーブルおよび椅子一式が揃えられている。 もちろん調度品各種はエル・ネルフェリアを経由して輸入された最高級のもの。 扉の側には常に侍女が控え、恐らく紫苑が望めば、たいていの事は叶うだろう。
「そこのあなた。 紅茶を持ってきて頂戴」
「かしこまりました」
そう申し付けてみれば、完璧な答礼を返してショートカットの侍女は扉の外へと消えてゆく。 しばらくすれば、香りも味も完璧な紅茶がここに運ばれてくるはずだ。 この竣工式には設計に関わった海軍大国アルビオンの海軍軍人や技師たちも招かれているため、本場の味を知る彼らを満足させうる茶匠が呼ばれているのだ。
逆に、料理の方に入れられた気合は紅茶ほどではないんだろうなあ、と紫苑は勝手な想像をする。 アルビオンの料理はまっずいらしいし、こっちの水準程度の味ならあいつらは美味しい美味しいって食べるでしょうね、と。 あ、でも応神料理って口に合うのかしら? 合うわよね、どっちも魚がメインだし、と。
紅茶が届いた。 相変わらず、侍女の仕草にはそつがない。
「ありがとう」
紫苑が優美な笑顔を作ってみても、侍女は表情ひとつ変えずに会釈するだけだった。 初音とかいったっけ、面白くもなんとも無いわ、と紫苑は意識から侍女の存在を抹消する。 確かに側仕えとしては完璧かもしれなかったが、紫苑が自身の側にあるものに対して求めることは、そんなことではなかった。
ここには蘇芳いないし、理緒もおらず、輝夜もいない。 魔導院やかがりび横丁の人々含め、紫苑が日がな親しくしている人間は誰もいなかった。 なんと面白くないことだろう。 弄る相手も、言葉遊びを楽しむ相手も、何かを教え込む相手も居ないのだ。 もちろん読む本も、気が向いた時に使う調合用器具や実験機材も、符製作用の特別紙も、愛用の筆もペンも突っ掛けもクローゼットも服もコーヒーセットもティーセットも何もかもが無い。 それらに変わる暇つぶしの種も、少しも見出せない。
仕方がないので、無機物よりは有機物のがマシよね、と思いながら先程意識から排除した侍女の観察を再び開始する。 相変わらずの鉄面皮は少しも揺らがず、扉の横に控えて指示を延々と待っているように見えた。 均整のとれたスタイルに白黒の侍女服を完璧に着こなし、艶のあるショートの黒髪の上には、ホワイトブリムがしっかりと存在感を主張している。 完璧だった。
こうまで完璧だと、人形のようにすら見えてくるわね、と紫苑は思う。 絶対に何かアラを見つけてやる、と意地になった紫苑は、目を皿のようにして観察を続ける。
果たして「アラ」はあった。 それも紫苑の冗談めいた思いが的中する形で。 生物に見えた侍女は、その実そうでなかったのだ。 首筋から耳朶にかけて存在する、肉眼では判別不可能なほどの僅かな継ぎ目。 まさか、これがエル・ネルフェリアの自動人形か、と紫苑は眼から鱗が落ちる想いだった。
この侍女は記銘するに値しない、とした自身の認識を紫苑は訂正した。 この侍女は、恐らくこの舞鶴基地の中にあって、自分にとって最高に面白い存在である、と。
彼女はにんまりと微笑むと、直後にすまし顔をつくり、侍女に向かって手招きした。 それに気付いた彼女は、無表情のまま足音も立てずに近づいてくる。
「何か御用でしょうか」
紫苑は、ここは直球で攻めることにした。
「あなた、製造年と型番、それから個体名は?」
「A.Z.2997年製造、『なでしこ』型007番、 個体名は『初音』と申します」
質問には流暢な答えが返ってくる。 別段、自動人形だということを隠すつもりはないらしかった。
「此度は御神楽内親王殿下付の侍従を拝命しております。 お困りの儀がございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
この下りは最初に聞いた。 なるほど、あのときは名前を聞いただけだから、最初のふたつについては答える必要がないと判断したのね、と紫苑は考える。
「あなたはやけに無表情だけれど、自動人形ってのはみんなそうなの?」
「わたくし達『なでしこ』型は応神皇国向け輸出用として設計されましたので、皇国における活動に支障なきようデザインされております。 奥ゆかしさが美徳です」
「それと無表情は何か違う気がするなあ」
この子の設計者はどこかズレた認識を持っていたらしい、と紫苑は苦笑した。
「また、私達自動人形は奉仕する者として最適化されております。 故に自らの個性は最低限になるよう調整されているのです。 接客任務にも対応できますので、笑えと主が命じられるならば、笑うことも可能です」
「ふうん。 じゃあ、ちょっと笑ってみせて?」
という言葉に対して、初音はにこりと笑ってみせる。 感情に類されるものがあるかはともかく、微笑むという機能は実装されているようだが、少し残念にも思えた。 ここで大爆笑をするという展開を、紫苑はひそかに期待していたのだが。
「なるほど。 ……うん、面白いわね」
「面白い?」
さらに興味深い反応を初音は示した。 紫苑の言に対して首をかしげたのだ。
「殿下は面白いと仰せられましたが、先程のわたくしの言動はライブラリの『面白い』カテゴリに属しておりません」
「ああ、そうか。 なるほど……多義語に関しては一義的な解釈しかできないのね」
「仕様です。 申し訳ございません」
そう言って、夕霧は頭を下げる。 多義語や同音異義語が多い応神語に対する対応の不備か、あるいは人工知能の限界なのかは知らないが、いっそ仕様と言い切るあたりが潔くて素晴らしい、と紫苑は頷いた。
「で、その『面白い』カテゴリにはどんなのが?」
「皆様を楽しませるに足るものが収められていると自負しております」
「へぇ、どんな。 ちょっと一つ披露してよ」
「――ふとんがふっとんだ」
真顔で言う初音に、紫苑は少しくらりとした。 多義語の多義解釈はできないのにいっちょまえに駄洒落機能はサポート済みか、と。 一体設計者は応神皇国をなんだと思っているのか。 或いは、エル・ネルフェリアという国の風土がぶっ飛んでいるのか。
そこで、紫苑は頭痛を押さえ込むようにこめかみに手を当てながら、さらに問うことにした。
「……ところで、具体的に応神仕様ってどんなのよ?」
「少々お時間をいただければ、解説が可能です」
「お願い」
紫苑が頷くと、初音はこほん、と咳払いして口を開いた。
「原型の『リリー』型より頭髪をブラックに変更、肌の色味を若干濃く、身長およびスリーサイズを若干小さくしております。 これは応神皇国の皆様の標準的な外見に合わせた仕様となります」
「ふんふん」
「さらに応神様式の衣装に対応。 着付けプログラムのインストールにより、サポートも万全です」
「ほかには?」
「新開発スタビライザにより急回転時の安定性の向上に成功し、『よいではないか』に対応いたしました」
「え?」
「また、いかな状況においてもご奉仕活動を継続できるよう、頭部・胴部を分離しての自律行動をサポートしております。 ハラキリおよびカイシャク機能も実装されており、主様の終のお世話も完璧にこなすことが可能です」
紫苑は今度は頭を抱えた。 絶対に何か歪められて伝わっているであろう皇国のイメージ、この自動人形を開発した設計者、そしてそれを生んだエル・ネルフェリア、色々なものが心配になってきた。 思えばユリウスと知り合った公務のときも、時々妙なおかしさが見え隠れしていたような気がする。
「これほどのアップグレードを施したにも関わらず、価格は『エルザ』型より据え置きの六万ソリドールです。 皇国の単位に換算すれば、二十万円程度となります」
聞こえてきた金額に、さらに頭が痛くなる。 二十万(現代日本換算で二千万)といえば、月夜見宮・御神楽家の家政をまる一年は維持できる額だ。 こんなもん買った馬鹿はどこのどいつだ、という思いがこみ上げてくるのを紫苑は感じた。 私直々にその英断を賞賛してあげよう、と紫苑は心底からの笑顔で初音に声をかけた。
「初音、悪いけどマスターを呼んで」
が、帰ってきたのは意外な返答。
「おりません」
「うん?」
「わたくしはプロモーションのため、エル・ネルフェリア本国のゾディアック・インダストリアル本社より派遣された機体です。 ”日用品から飛空艇まで”をモットーといたします我がゾディアック・インダストリアルは応神皇国を非常に有望な市場と認識しております。 先日、当社製品の輸出制限が本国下院の議決により緩和されましたので、わたくしを初めとした十六体の『なでしこ』型および十体の『リリー』型自動人形が、皇国各地の主要施設にゾディアック製品のプロモーターとして派遣されることになったのです」
プロモーター自身が、プロモーションされる『製品』でもある、というわけである。
「なるほどね……京では見なかったけど、あなたの姉妹」
「一部より強い反対があったと、聞き及んでおります」
ああ、また九条か、と紫苑は心中納得した。 無理と無茶と神秘が現役で稼動中の光宮の中で日々を過ごしているクセに、外国のものというだけで未知のものに拒否反応をあからさまに示す頑固な老人の顔が思い浮かぶ。 よりにもよってこの種の存在の蚕食を一番許しているのが、国家の中枢たる光宮なのだ。 富国強兵を国是としているくせになんて様だ、と思っているのは、恐らく自分だけではない、と彼女は確信していた。
「現在は御神楽殿下を仮のマスターとしてお仕えさせていただいております。 殿下が滞在なさる間、誠心誠意ご奉仕いたしますので、どうぞゾディアック社ともども、宜しくお願いいたします」
「そうね。 あとで、京の二条院に目録でも届けて頂戴」
「承りました。 では、わたくしはまた控えておりますので、必要がございましたら何なりとお申し付けください」
思わぬ退屈しのぎができたことに満足した紫苑は頷いて、翌朝の式典のことに集中するのだった。
*****
「やあ、こんばんは」
ひとりでに開いた白い扉の向こう、昇降機の発着するホールの側に立っていた人物は、ほがらかにこちらに向けて声をかけてきた。
「これは月読宮様、斯様な所に何の御用でしょう」
皇国魔導院の両翼のうちの片方を預かる男、弓削鷹亮は慇懃にそれを受ける。 挨拶の主は、月読宮家の当主、御神楽蘇芳だった。
「こちらへどうぞ」
察した鷹亮は、すぐ近くにあった白い扉を指し示す。 それに反応してか扉が開き、少人数での会議に利用されている小部屋への道を作った。 会釈して蘇芳は歩き出し、鷹亮もそれに続く。
二人が部屋の中に入ったところで扉は閉じ、鷹亮は口を開いた。
「あまり御身を運ばせ給うな。 鼠どもが、いつ気がつくとも限りませんぞ」
「それで釘を刺しているつもりか、鷹亮。 人もおらんし、過日の通りにせよ。 私もそうする」
座るよう促されてもいないのに椅子に腰掛けつつある蘇芳の声は、入ってきたときとは質が一変していた。
「……まあ、言ってもお聞き入れくださらぬだろうとは、予期しておったがね」
鷹亮の謹厳そうな風貌には、諦めの色が濃い。 彼はこの兄妹が幼少だった頃から、ほとほと手を焼かされてきたのだった。
「なら無駄なことは止めるのだな。 安心せよ、無体はせぬ。 今までどおり、汝らが集めてきた情報を、支障の出ぬ範囲で、かつ可能な限り私に提供してはくれまいか?」
それのどこが無体ではないのだ、という思いも、やはり鷹亮がいつも抱いてきたものだった。
――皇国魔導院の本局は、光宮の下層部、四階から一五階までを占めている。 他に局員宿舎として大内裏の外れにいくつかの建物を有しているが、この場所が皇国における魔術の総本山といえた。 魔導院とはつまり、魔術師と関連技術の監督官庁であるため、皇国における魔術がらみの情報のほぼ全てがこの場所に集まってくるのだ。 また『禁軍』の本拠地でもあるため、皇国最強の戦闘集団が駐留する基地にも他ならない。
ということで蘇芳は、皇国最強の戦闘力と諜報力を併せ持つこの機関に、情報を得るために足繁く通っているのである。
内務省もまた、治安維持の他に内偵および外諜を目的とした機関ではあるが、卓越した実力を持つ魔導師たちを擁する魔導院にはやはり及ばない。 軍事・情報の両面において突出した権能を持つ魔導院の存在こそが、光皇の強大な権力を支えているのだ。
しかし、魔導院はただ光皇その人にのみ忠誠を誓い、その力はただ光皇と皇国のためにのみ振るわれる。 継承権を持つとはいえ、ただの宮である蘇芳には、魔導院の人員のただの一人に対してさえ、その指揮権を行使することはできない。
指揮することはできない。 命令を下し、自らの意に従わせることはできない。 では、「要請」ならば? そう蘇芳は主張する。
屁理屈としか思えない言い分だが、事実として、魔導院の地位を定めた詔勅に、「協力を要請してはならない、また魔導院の者が他者に与力してはならない」などと解釈しうる文言は一言たりとも書かれていないのだった。
しかも、鷹亮やこの場にはいない安倍黒章たち魔導院の首脳は、口にこそ出しはしないが、光皇不在の「御前会議」において、九条をはじめとした守旧派が台頭してきているのを苦々しく思っている。 彼らと彼らの前任者たちは、光皇が主導する帝政復古、およびその後の諸改革を成し遂げるにあたり、西大陸の列強の支援を受けた幕府勢力や雄藩勢力を押しのけるなど、政戦両略、明暗両面にわたって活躍した者たちだからだ。
陛下がご健康であられればな、と鷹亮は思う。 しかし、光皇は病によって床に臥し、皆も老いた。 ならば、この今代の御神楽をはじめとした若い者達に託してみるのも悪くはない、そうも思っている。
「ときに」
数人の事務官たちが運んできた報告書や書類の束をめくっていた蘇芳が、思い出したように口を開いた。
「『第零番例外居留区』、ようは篝火横丁ですが……その近辺で起きている事件ですが、鷹亮殿は何かご存知で?」
鷹亮の指示でせわしなく事務官たちが紙束を運び入れてくるせいか、口調は猫を被っている。 こういうところがやはり兄妹なのだな、と彼は知らず苦笑した。
「……葛葉から、ある程度は聞いておりますが」
「妹が何かを掴んだようだ。 舞鶴から戻ったら直ぐに動き出すでしょうが、早とちりの気がありますからな、あ奴には」
「ま、それでも私は特に心配するところは無いですな」
蘇芳の言葉を、鷹亮はさも当然といったように頷いて受け容れる。 事実、彼はかの内親王が何かを掴んだ以上、どのような形であれ、事件が解決することには疑いすら抱かなかった。 だが、それとは別の心配事がひとつ浮かび上がる。
「……ですが、それとは別に、ひとつ不安がありますが」
蘇芳が不思議そうな顔をした。 こういう変なところで抜けているのも、やはり兄妹だからだな、そして親子だからだろうな、と鷹亮は常々感じている思いを新たにする。 しかし自分は動くわけにはいかなかった。 光皇の命なくして、魔導院はその力を振るってはならないのだ。 建前では。
故に鷹亮は、その可能性を口にするだけに留める。
「内親王殿下が、随分と目をかけてらっしゃる、冴月殿の娘御。 殿下は昨日の葛葉との会見に、彼女を伴って行かれたのでしたね」
「あれは渋っておりましたがね。 門前で待ち構えられては、もう連れていくしかないとぼやいてましたよ。 強情なとこは誰に似たんだ、ととぼけていたので、お前だ、とも言っておきましたが」
鷹亮は確信した。 本当に気付いていない、と。
「彼女――輝夜嬢は。 この状況で何もせずに居られるほど、冷静でもないし、薄情でもないでしょうな」
その言葉を耳にした蘇芳の反応は劇的だった。 虚を突かれて驚いているような、或いは解けないでいた問題があっさり解けてしまって拍子抜けしているような、そんな顔をしたと思えば、急に頭を抱えて机に突っ伏してしまったのだ。
「無謀と勇気の区別がつく年でもなし、そんな経験もなし。 危ういですぞ」
鷹亮は容赦なく追撃の一言を発し、蘇芳は起き上がるとうめくように声を発した。
「今頃、紫苑は舞鶴にいる頃でしょうが……もし耳に入れば無理やり帰って来かねない。 そうでなくとも、明日以降のことが不安でならない」
「知りませんぞ、私は」
再び頭を抱える蘇芳に、鷹亮はやれやれと肩をすくめた。 言葉とは裏腹に、彼は既に手の者を動かし、輝夜の所在を探させている。 冴月邸に居るならばそれでよし、そうでなければ早急に確保しなければならない。 階級でみれば一介の少尉といえど、冴月輝夜は現在の皇国において微妙な位置にある存在であり、その身柄の無事はそれなりの重要事なのだ。
そしてふと真剣な顔に戻って、鷹亮はひとりごちるように疑問を発する。
「それにしても、先方、果たして気付くものかな……」
「火遊びをしている場所が、火薬庫の真上だということに?」
蘇芳が返すと、鷹亮はやれやれと肩をすくめた。
*****
篝火横丁の喧騒の中にあって、それでも人の目の届かぬ、いくつも存在する死角。
輝夜がこの場所にたどり着いたのは、紫苑から教えられたあることを意識していたからだった。
「人払いの結界、結界術式の中でも割と簡単なものよ。 効果は単純、この結界の内側には、人は『なんとなく』入りたくなくなる。 逆に言えば、その場所を強く指向する意思に対して、この結界は無力」
何も知らない部外者を立ち入らせない程度の用途なら、これで必要十分なのよ、そう彼女の主は言っていた。
そして輝夜は考える。 事件の中心にいるなにかがこの横丁に居るとして、自身が居る場所に人が立ち入ってくることを、果たして望むだろうか、と。 答えは否だ。 かといって大規模な結界術式はすぐに露見する。
彼女はその結論に至ってから、自身が「ここには何もないだろう」と認識しかけた場所に、あえて脚を踏み入れていった。 案の定、そこは人通りまばらな路地。 しかも奥に進めば進むほど、「この先には行くな」と、自分の中の一部分が強く訴えかけてくるような気がした。
間違いない、と彼女は確信するに至った。 事件を引き起こしたなにかは、ここにいる。
確信し、彼女は背負っていた袱紗を解いた。 中から現れたのは、彼女の背丈には不釣合いな、黒い拵えの鞘に収められた大刀。
「……頼むぞ」
呟きは、願うというよりは、決意のためのもの。 彼女は自身の目の前に刀を持ち上げると、意思の篭った瞳で鯉口を切り、白銀に輝く刀身を露にした。
鞘は腰に差すには長すぎたため、袱紗をよじった即席の紐を使って背負う。 いざとなれば、これも打撃のための武器となる。 だが輝夜は二刀流を修めたわけではなく、また刀と鞘では重量も重心も違う。 不意をついての一撃に使って終わりだろう、と思っていた。
輝夜は思う。 ……私は、何故ここにいるのか?
決まっている。 勝つためだ。 勝って、そして――
一歩を踏み出す。 また抵抗が強くなるが、この先に行かなければならない、という意思がそれをねじ伏せる。 それから、また数十歩歩いて、曲がり角をひとつ折れた瞬間。
抵抗が、消えうせた。 それはつまり、結界の完全な内側に入り込んだ、ということ。
「――!!」
直感と行動は同時。 背後に現れた気配を、瞬時に刃をもって迎撃する。 鈍い金属音が響き、襲い掛かってきたものは一旦距離をとった。
確認の必要はないと輝夜は判断した。 先に仕掛けてきたのは相手で、状況は全てが打ちかかってきた存在が下手人だと告げている。 利き脚を軸にして振り向けば、そこには月光の照らす下、棒のような影を地面に落とす人物がいる。
二人の人間を文字通り『喰った』と思わしきものが青年の形をしていることが輝夜には意外に思えたが、こちらを見据える瞳には、確かな知性の光がある。
瞳の色は――主と同じ血の色。 短く切りそろえられた髪は赤銅色。 一目で皇国の人間でないとわかる容貌だ。
「貴様……何のために、四人もの人を殺めた!?」
叫ぶような問いと共に切っ先を相手に向け、半身を反らしてゆく輝夜。 相手は動かないばかりか、表情には僅かに戸惑いすら伺えた。
しかし輝夜は答えを待たなかった。
「はッ!」
限界まで引き絞った弦から矢を放つがごとく、彼女は一息に刀身を突き込む。 腕を捻るように回転させたのは、貫通力をさらに増すため。
「!」
相手はそれを後方に退くようにしてかわす。 かかった、と輝夜は心中で快哉を上げた。 青白く輝く気刃が、切っ先から風切り音と共に翔んだ。
命中、敵の身体が「く」の字に折れ曲がって吹き飛んだ。 鳩尾の急所を狙ったそれをまともに受ければ、並の人間なら悶絶することは請け合いの一撃。 しかし輝夜はさらに追撃を重ねる。
脚甲の術式が光り輝き、後方へ飛んでゆく敵に追いつかんばかりの勢いで輝夜は疾る。 引きずるように構えた刀を勢いをつけて振り上げ、追撃の衝撃破を飛ばす。
まともに受ければ、普通の人間ならば昏倒は確実。 最悪、絶命しかねない連続攻撃だ。 さらに輝夜は地を蹴り、衝撃破を飛ばすために振り上げた刀身をさらに大上段に構え、板塀にしたたかに打ち付けられた相手めがけて振り下ろす。
その一撃は、すっと伸ばされた異形によって受け止められた。
「!?」
尋常の膂力ではありえない。 振り下ろされる刀身を片手で掴み、微動だにさせないまま支えている毛むくじゃらの太い腕。 人間のそれとはかけはなれたものを目の当たりにし、輝夜は今更ながらに眼前の敵手が恐ろしくなった。
そして響く、甲高い音。
腕に感じていた抵抗がなくなり、握る手が開かれたそこにあるのは、切っ先が消失した愛刀。
「……!?」
にぃ、と敵が鋭い犬歯もあらわに嗤う。 直後、足元で何かが乾いた音を立てた。
呆然とした輝夜が、それは折れ飛んだ切っ先が立てた音だと認識する間もなく、鳩尾に拳が突き込まれ、彼女の身体は力を喪った。
だらりと垂れ下がった手から、刀が落ちてからんと音を立てる。
輝夜を倒した何者かはそれには目もくれず、少女の華奢な身体を事もなげに抱え上げると、路地裏の闇へと溶けるように消えてゆく。
あとには、ただ、月光を反射して輝く折れた刀だけが残されていた。
やっと話が動き始めた感が。
正直説明が多すぎるかなとも思うんですが、でも説明しなかったらしなかったで恐らく説明不足になる予感。
「日常」みたいにノリで押し切るわけにもいかないし、難しい。
9/5 章編集にともないタイトル改訂、いくつかの表現を修正